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■ ガッとふすまが開いて、ボスグループのひとりが吐き捨てるように…中川翔子2022. 8.31

ガッとふすまが開いて、ボスグループのひとりが吐き捨てるように…中川翔子を苦しめた“理不尽すぎる”いじめ体験
『「死ぬんじゃねーぞ!!」 いじめられている君はゼッタイ悪くない』より#1

中川 翔子
10時間前

source : 文春文庫

genre : ライフ, ヘルス, 教育, 社会, 経済, 読書, 芸能
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 歌手、タレント、俳優、声優など多彩な分野で活躍する中川翔子さんは、中学生の頃にいじめが原因で不登校になり、“死にたい夜”を過ごしたという。

 そんな中川さんが、今悩んでいる10代の若者に伝えたいことを文章と漫画で記した著作『「死ぬんじゃねーぞ!!」 いじめられている君はゼッタイ悪くない』より一部を抜粋。「誰にも迷惑かけてないのに…」理不尽に振りかかった、いじめ体験を紹介する。(全2回の1回目/2回目に続く)
中川翔子さん ©文藝春秋
中川翔子さん ©文藝春秋
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◆◆◆
スクールカーストの中で

 わたしが通っていた地元の公立小学校では、休み時間もみんなで仲よくわいわい過ごしていました。

 わたしが漫画やゲームが好きなことも、絵を描くことも「ナカショウの好きなこと」とみんな普通に受け止めてくれていました。

 成績や運動がいまいちでも、生徒が好きなことを個性として育ててくれた担任の先生のおかげで、クラスのひとりひとりがそれぞれの得意なことをお互いに個性として認め合い楽しむことができた素晴らしい時間でした。

 ところが、私立の女子中学校に進学すると、状況が一変したんです。

 入学してすぐに、クラスの中はいくつかのグループに分かれました。

 クラスの空気を支配したのは発言力の強い目立つ子たちのグループ。その他の子たちもそれぞれに小さなグループを作って過ごしている。

 小学校のときのように、誰とでも気軽に話したり、休み時間にみんなで自由に遊べるような雰囲気ではありませんでした。

 はっきりと、グループの階層ができていて、階層が違うと会話も交流もないのです。

 これが、いわゆる「スクールカースト」、クラス内での「ランク付け」です。

「カースト」とはインドで昔使われていた身分によって階層に分ける制度のことだそうです。身分で人間をランク分けするおそろしい仕組みです。

 そのカースト制度の仕組みを、学校の人間関係に当てはめたのが、「スクールカースト」。

 誰が最初に言い始めたのかわかりませんが、でも表現としてはまさにその通りなのです。クラスの中にはボスのグループを頂点にした序列がはっきりとできあがっていきました。


「高カースト」の1軍は、メジャー系・不良系・運動部の子たちや、にぎやかで自己主張が強く、おしゃれな雰囲気だったり、かわいい子たちが属します。スポーツが得意、親が影響力を持っている子なども1軍に入るといいます。

 2軍、いわゆる「中カースト」はおとなしい優等生タイプの子たちです。無難に立ち回れているからこその、安定できる一番羨ましい場所だったなぁと思っていました。

 下の3軍「低カースト」はオタク気質や、運動音痴、ぼっち、ちょっと変わった不思議ちゃんなどです。とはいえ、実際にはもっと複雑に入り組んでいます。1軍でも仲間割れが起こったり、いつハブにされたりするかわからないし、3軍の下にはさらにカースト外があったりするのです。わたしは3軍にまで落ちました。

 いじめのターゲットになるのは、3軍以下「低カースト」の子たちです。
©iStock.com
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 一度「身分」が決まってしまうと、もうそこから上がることは難しいです。

 おそろしい無言の圧力と目に見えない序列がクラスを支配してしまうのです。

 兄や姉がいて、入学してすぐの最初の時期が大事なんだという情報を得られていたら、うまく対処できたのかもしれません。でも、わたしは1人っ子だったので、その空気をすぐに読みとることができませんでした。

 中学になりガラリと空気感の変わったクラスでは、ちょっとしたことを理由にハブにされて、そしてそれが積み重なって、あっという間に低カーストへ転がり落ちていきました。
「キモい子」というレッテル

 わたしが中学に入学したころはプリクラ全盛の時代。誰もが友だちとプリクラを撮っては、プリクラ帳にあふれんばかりに貼りつけて、お互いに見せ合っていました。

 けれど、わたしはプリクラ帳を持っていなかったのです。

 それは中学に入ってすぐの致命的なミスになってしまいました。

 入学して席が割り振られ、これからの中学生活にドキドキ期待に満ちた最初の時期。

 となりの席になった大人っぽい子から、「プリクラ帳見せて〜」と話しかけられます。わたしが、「持ってないの」と答えると、「えっ、じゃああした絶対持ってきてね!」と言われました。

 すでにみんながプリクラ帳を見せ合い、楽しそうな雰囲気になっているのを見て、「やばい!」と思いあわててプリクラを撮りに行きました。急だったし、小学校の時の仲よしの友人とは学校が離れてしまったので、ひとりで。

 そして、プリクラ帳を持ってないけど、なにか代わりになるものはないか? と、あわてて家中を探しました。おばあちゃんが和紙を貼って作ってくれた小さいノートを見つけ、急いで撮ったプリクラを貼り、翌日学校に持っていきました。


「プリクラ帳、持ってきたよ!」と、見せたときにまわりの空気が一変しました。わたしは凍りつきました。

「えっ、なに? ひとりプリクラだし変なノート。おばあちゃんの? なにそれおかしくない? キモい……」

 あっ、間違えてしまった、やらかしてしまった、と背筋が冷たくなった瞬間を覚えています。

 ちょっと空気が読めなかったり、ちょっと変わっていたり、ちょっと変だったり。

 それは、個性としてではなく、キモい、とカウントされてしまうのです。

 たとえば、自分があまり知らない話題で盛り上がっているとします。それでもうまく話に乗っかって立ち回れないと、たちまち輪からはずされてしまいます。

 わたしはそれが下手でした。恋愛の話やアイドルの話にうまくついていくことができませんでした。相手の好みに合わせてうまく振る舞うことができなかったのです。わからない話題を振られてアワアワとしてしまうことが何度もありました。

 気づけば、となりの席の目立つ子はたちまちクラスのボスグループに。

 そして、最初からしくじったわたしは挽回するチャンスも見つけられずに、あきらかに立ち位置が最下層になっていきました。

 わたしは幼い頃から、漫画やアニメ、ゲームが大好きでした。母が働いていたので、ひとりの時間をその好きなことに使っていました。夢中で絵を描く時間が好きでした。時間を忘れて明け方になってしまうこともたびたびありました。でもそれは自分にとっては普通のことで、それが変わったことだと思っていなかったのです。

 小学校の時はそんなわたしをみんなが受け入れてくれていたので、中学になるまでそれが変わったことだという認識はまったくありませんでした。

 でも、中学のそのクラスでは、自分の机でひとり絵を描いているわたしは、キモい存在として冷ややかな視線を浴びることになりました。
©iStock.com
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「あいつ絵ばっかり描いててオタクじゃね? キモいんだけど」とボスグループの子たちから陰口を言われるようになるのに、そう時間はかかりませんでした。

「オタク」。いまでこそ、この言葉は一般的になりましたが、当時、「オタク」であることはすなわち「キモい」ことだったのです。

 クラスではボスグループが「絶対」で、ボスが「キモい」と言ったことで、わたしは完全に「キモい子」というレッテルを貼られました。それまで普通に話していた子たちも、だんだんわたしから距離を置くようになっていきました。

 もしかして、わたし、いじめられてる……?
 いやいや、思い描いてた憧れの中学生活とはかけ離れてる、こんなの違う、わたしがこんなふうになるなんて嫌だ!

 わたしはまわりからどう見えてるんだろう?

 恥ずかしい!

 不安と恐怖がぐるぐる頭と心を支配するようになりだしたのです。
自分の好きなことを否定された修学旅行

 中学2年の秋の修学旅行での出来事はいまでも鮮明に覚えています。

 宿泊先の部屋で、わたしは同じように絵を描くのが好きな子と、大好きな漫画の絵を描いていました。ルーズリーフに好きなキャラを描いた絵を交換するのがその頃のオタクグループのトレンドで、ワクワクする大事なことでした。

 すると突然、ガッとふすまが開いて、ボスグループのひとりがいきなり吐き捨てるようにこう言ったのです。

「絵なんて描いてんじゃねえよ! キモいんだよ!」

 彼女はそれだけ言うとピシャッと乱暴にふすまを閉めて出ていきました。

 世界が真っ暗になりました。

「なんで? ただ絵を描くのが好きで、静かに楽しんでいるだけなのに……」

 自分の好きなことをいきなり否定されて、わたしはわけもわからず混乱していました。

「誰にも迷惑かけてないのに。なんでそんなことを言われなきゃいけないの!?」

 でもその気持ちは誰にもぶつけることができませんでした。そしてだんだん悲しくなってきました。

 静まり返った部屋で、その子と静かに絵をカバンにしまい、黙って過ごす悲しい時間になりました。

 そんなふうに言われるくらいなら、いっそのこと絵を描くのをやめてしまおうかとも思いました。だけど、やっぱり納得がいかない。

 大好きなことをやめてしまったら、「わたし」は「わたし」でなくなってしまいます。

 わたしは、人に見られないように家でこっそり絵を描きました。

 学校ではわたしが好きなことをしているのを見られると、キモいと思われる。学校に行くのがとても苦痛になった時期でした。

 1年のなかで、10代の自殺件数を日別に調べると、圧倒的に9月1日が多いといいます。そして、自殺の原因でいちばん多いのは学校問題だそうです。

 新学期のはじまりの日、9月1日。

 学校に行かなくてもよかった、夏休みが終わってしまうとき。

 学校に行かなくてはならない。だったらもう、死んでしまおう。

 そんなふうに死を選んでしまうほど追いつめられてしまう10代の尊い心と命。

 10代の、思春期の心の振れ幅は自分では抑えきれないもので、振り返るとわたしも13歳から18歳くらいまで、傷つきやすい心で毎日戦っていたように思います。

 楽しいことにのめり込めるパワーも大人の何十倍もあるけれど、一旦心にキズがつくと、ヒビがどんどん深く入っていきやすくもなる。

 学校で言われて傷ついたことを、何度も思い出しては、

「どうせなにをやっても失敗するんだ」

「わたしは人に嫌われる星の下に生まれたんだ」

 そんなふうに考えるクセがついてしまったり。

「もう死んでしまいたい、消えてしまいたい」という衝動に襲われた夜もありました。

「もうヤダ。人生なんてどうでもいい」

「なんでわたしがあんなこと言われなきゃいけないんだ、許せない」

 人には言えないけれど、心の中のぐるぐるネガティブなループ。

 電車のホームに行くたびに、「いまここから線路に飛び込んだら死ねるのかな。全部終わりにできるのかな」なんて考えがよぎったり、「でも飛び込みは遺族が莫大なお金を支払わなきゃいけないって聞いたことがある……」ということを思い出したり、でもほんとうに飛び込む勇気もない。

 17歳のころ、「もういやだ!」「もう死ぬ」というスイッチが入ってしまったことがありました。そのときは、いじめられた記憶のフラッシュバックに加えて、ほかにもいろいろ嫌なことが重なって、死ぬこと以外を考えられない状態になっていたのだと思います。


 ついに衝動的にリストカットをしてしまいました。少しずつ何度も深く手首を包丁で切りつけて、血が流れてくる。

 その最中に母が、たまたま階段を降りてきました。無心に手首を切りつけていたわたしを見つけると、あわてて駆け寄ってきて手首を押さえて血を止めてくれました。

 母は、いつも強く明るく、悩むことがあっても決してわたしには見せない人です。

 泣いているのを見たのは、父が亡くなった夜と葬儀の時だけ。ずっと働き続けていた母は、絶対泣かないしわたしには弱さを見せない強い人でした。

 その母が涙を流しながら、わたしを叱ったんです。

「バカ! なんでこんなことするのよ!」

 あのときの母を忘れられません。
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 でもまたしばらくしてから、死にたい衝動がもう一度襲ってきたことがあります。そのときはドライヤーのコードで首を吊ろうと、ドアノブにぐるぐる巻きつけ体重をかけたのですが、目の前が白くなりました。

 すると、部屋に猫が入ってきて甘えてきました。

 最後に猫を撫でようかな、とわたしはフッと力を緩めて抱き上げました。猫を撫でているうちに、その衝動がおさまったのです。

 もしそのまま死んでいたら。

 本当にあのときに死なないでよかった、といま心から思います。

 そして、死のうとした日から大人になった今までの時間に、たくさんの新しい出会い、夢やよろこび、悩みや別れ、さまざまなことがあるなかで、本当に生きていてよかったと思うことが数え切れないほどあります。

 生きていてよかった、

 長生きしてたくさん好きなことをしたいなぁ、と思うようになりました。

 しかしいまも、その時の傷は残っています。

 子どもが自ら命を絶つことが、親にとってどれほどつらいことか。

 死んでしまったら話もできない、挽回するチャンスもなにもかも、永遠に失ってしまう。

 そして残された遺族は、永遠に消えない悲しみを背負って生きていく。


 傷ついた方が覚えていることも、やった側は大したことだとは認識していないことがほとんどです。時の経過とともに、亡くなった人のことも忘れて、人生を楽しんで生きていきます。

 たとえいじめ被害者遺族が裁判を起こしても、いじめと認められなかったり、自殺との因果関係がないと判断されて負けてしまうケースは数え切れないほどあったそうです。

 死んで楽になる、なんて決してないと思います。

 悲しみや苦しみが終わらないのは育ててくれた大切な家族なんです。

 10代の繊細な心に「死にたい」という衝動が生まれて、どうしようもなくなったときにどうしたらいいのか。難しいことだし、答えもないし、人それぞれ心の色はちがいます。

 なので、わたしからお願いです。

 まずは、1回、寝てください。
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 苦しい気持ちに向き合うことを、とにかく1日、先延ばしにしてみてほしい。

 チョコレートを食べてみる。

 なにか好きな食べものを食べる。

 好きなゲームを起動する。

 猫を撫でる。

 ネットでいろんなサイトを見にいく。

 ほんとになんでもいいので、ささやかなことでいいので、いまの衝動から一旦、気持ちを逸らしてほしい。

 それを繰り返して、少しずつ毎日を生き延びてほしい。

 ほんの少し、楽しいな、とか、

 おいしいな、とか、

 これ好きかも、とか、

 あのゲームの新作がでるなぁ、とか。

 ほんのり心のアンテナが動くなにかを見つけ出すように。

 そのうち、少し元気になれる日もきたりします。もちろん理不尽なできごとに落ち込む日もあります。

 だけどそれでも、少しずつ、死にたい日を先延ばしにしていってください。

 どうか死ぬことだけは選ばないでください。
 そうしていくうちに、

 ああ、楽しみ!

 ああ、生きててよかった!

 と思うなにかに、出会えるんです。

 いまは見えなくても、

 会えてよかった。

 そんな出会いが待っています。

 学校にはなかった、居場所があります。

 あなたに合う居場所が必ずあります。

 わたしはあのころ死にたかった自分に、

 なんて言葉をかけるか、いつも言葉を探しています。

 だけど、いままでにあったたくさんの

 生きててよかった! うれしい! は、

 あのころ、悩んでいた時間に見つけた、

 好きなことのおかげで、それが未来を動かして夢を叶えてくれました。

 歌ったり、ゲームをしたり。

 絵を描いたり、ネットを見たり。

 つらいことから心を守るために毎日していたことが、

 未来の夢の種まきになっていました。

 だから、どうか死なないで、

 好きなことに夢中になれる時間を大切にして。

 学校以外の時間はすべて自分の時間。

 心を、命を、守るために、

 好きなことをたくさん見つけてほしい。

 いつか、ああ、それでよかったんだ、

 と思える未来に大人のわたしが責任を持ちます。

 大丈夫、

 と、わたしは言いたいです。あの頃の自分にも。


中川 翔子





https://bunshun.jp/articles/-/56940