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斎藤利三 天文3(1534)~天正10(1582)
 斎藤利賢の子。母は明智光秀の妹とする説もある。はじめ斎藤義龍に仕えていたが、後に稲葉一鉄(良通)に属した。一鉄が織田氏に寝返ったときは利三もそれに従った。
 天正8(1580)年、一鉄を嫌って光秀の家臣となり、1万石を与えられて丹羽に住んだ。一説によると、一鉄は信長に利三の返還を要求し、信長はこれを受けて利三の返還を光秀に命じたが、光秀は利三をかばって返さなかったため、怒った信長は光秀を折檻したという。
 天正10(1582)年、光秀は謀反の決意を利三、明智秀満、明智次右衛門、藤田伝五、溝尾勝兵衛らに打ち明けた。当初、利三ら家臣団は強硬に反対したが、光秀の意志の固さを知ってともに計画を練ったという。信長襲撃は成功した。その後、中国から戻り織田信孝と合流した秀吉と山崎で合戦に及ぶが敗れ、利三は近江堅田で捕らえられた。後、京都三条河原で斬首され、その首は主君・光秀とともに晒された。

 佐竹義舜 文明2(1470)~永正14(1517)
 佐竹家第14代当主義治の子で佐竹家中興の祖とされる。父・義治の死亡により幼くして第15代当主となった。佐竹氏は12代義人の頃から同族の山入氏と争っており、13代義俊、14代義治は16年間もの間、太田城を追われていたこともある。
 しかし、義舜は舅・岩城常隆の仲介で山入氏義と和睦することに成功した。
 ところが平穏は長くは続かなかった。山入義藤、氏義父子が大軍を率いて居城・太田城に攻めてきたのである。義舜はこれを支えることができず、母の実家である大山氏のもとへ逃れ、大山城に入ったが、後により強固な孫根城へ移った。
 明応9(1500)年には、山入勢が孫根城を攻め、落城させた。そのため義舜は、北の西金砂城に逃れ東金砂城の山入勢と戦った。永正元(1504)年、岩城常隆の援軍を得た義舜は太田城を取り戻し、永正3(1506)年には遂に山入城を陥落させ山入氏を滅ぼした。こうして、1世紀もの長きに渡って続いた山入氏との抗争に終止符が打たれたのである。
 その後、義舜は佐竹家法二十三条を制定し、一門の結束の強化を図っている。永正14(1517)年、若年の嫡男・義篤を残して義舜は没したが、弟・義信、弟・政義、子・義里をはじめとする佐竹一門は義篤をよく支えた。この三家はそれぞれ本城との位置関係から北家、東家、南家と呼ばれ、戦国期を通じてその結束を保ち続けた。
        ┏永義(今宮)━光義━━━━┳義通━━━━義賢    
  ┏周義(今宮)┃            ┗義僚━━━━宣貞    
義治╋義舜━━━╋義篤━━━┳義昭━━━━┳義重━━━┳義宣    
  ┣義武(久米)┣義元(小場)┗義昌(小野崎)┃     ┣義広(蘆名) 
  ┃     ┣義里(南家)       ┃     ┣貞隆(岩城) 
  ┃     ┗義康(古内)       ┃     ┣宣家(多賀谷)
  ┃                  ┃     ┗義直(北家) 
  ┃                  ┣義尚(南家)━義種    
  ┃                  ┗義宗(小場)┳義成    
  ┃                        ┣義辰(石塚) 
  ┃     ┏義住                ┗宣忠    
  ┣義信(北家)┻義廉━━━━義斯━━━━━義憲━━━━義盛(小野岡)
  ┗政義(東家)━義堅━━━┳義喬    ┏義賢━━━━義直    
              ┣義忠(酒出) ┣宣宗(伊達)       
              ┗義久━━━━┻宣政(小野崎)━義長   

 真田幸隆 永正10(1513)~天正2(1574)
 海野棟綱の長子といわれる。信濃国小県郡真田郷を領有し、真田氏を称した。天文10(1541)年、村上義清の侵攻に遭い小県を追放され、上野国箕輪城の長野家に身を寄せた。天文13(1544)年、武田信玄に招かれその家臣となった。
 信玄は天文17(1548)年に上田原で義清に大敗し、天文19(1550)年には義清の戸石城を攻撃したが敗れた。信玄はそれまで信濃の道案内をしていた幸隆に戸石城攻撃の許可を出し、これを受けた幸隆は早くも天文20(1551)年5月26日、僅か1日で攻め落とした。このとき幸隆は事前に村上方の武将を数多く内応させていたのだ。
 戸石城攻めの功により武田家の重臣に列せられることになった幸隆は、その後も川中島の戦いなどで活躍した。後、岩櫃城、崇山城などを落とし、信濃国小県に加えて西上野を領有した。信玄の死の翌年、没した。

 斯波詮高 生没年不詳
 大崎教兼の庶子。教兼は明応元(1492) 年に陸前斯波郡の地頭職になったといわれる。詮高は明応3(1494)年頃に高水寺城に居住し、高水寺斯波家を立てた。
 天文6(1537)年、南部晴政が侵攻して来ると詮高は稗貫氏、和賀氏と連合してこれと戦い退けた。しかし天文9(1540)年、晴政の叔父・石川高信を総大将とする南部勢が来寇し、岩手郡滴石城を陥落させられてしまった。天文14(1545)年には、詮高の嫡男・経詮が岩手郡に出兵したが戦果をあげることができず、退却している。だが、徐々に力をつけた詮高は所領を拡大し、天文23(1554)年頃には雫石にまで勢力が及んでいた。
 詮高は雫石城を次男・詮貞に、猪去館を三男・詮義に任せ統治させた。そして雫石詮貞は雫石御所を称し、猪去詮義は猪去御所を称して高水寺斯波本家を輔けた。このように詮高は一門を中心として、領国経営を行い高水寺斯波家の全盛期を画した。
 しかし高水寺斯波家は詮高死後衰退し、詮高の曾孫・詮直の代の天正14(1586)年、南部信直に攻撃され滅亡した。
大崎教兼┳政兼━義兼┳高兼…義宣   
    ┃     ┗義直━義隆   
    ┗詮高┳経詮━詮真━詮直━詮種
       ┣詮貞━詮貴┳久詮━久資
       ┃     ┗吉久━東膳
       ┗詮義━義方━久道━基久

 柴田勝豊 ?~天正11(1583)
 伊介。伊賀守。柴田勝家の姉の子。勝家家臣・吉田次兵衛の子であるという説と、渋川八左衛門の子であり吉田次兵衛の養子となったという説がある。稲葉貞通の娘を娶った。
 勝家の養子となり、越前丸岡4万5千石を領した。天正4(1576)年、丸岡城の築城を開始し、城下町を整備した。天正9(1581)年の馬揃えでは、勝家とともに信長に謁している。
 天正10(1582)年の清洲会議で勝家が近江長浜を手に入れるとここを任された。11月、勝家の命で前田利家らとともに秀吉の下へ和平の使者として赴いたが成果を上げられず、12月秀吉に長浜城を包囲されると即座に開城降伏した。
 勝豊は秀吉から寛大な扱いを受け、長浜も安堵されたが、翌天正11(1583)年4月16日、京都東福寺で病死した。賤ヶ岳の戦いの直前であった。

 島津忠良 明応2(1493)~永禄11(1568)
 明応2(1493)年、忠良は島津家の分家である伊作家の嫡男・善久の子として生を受けた。幼名は菊三郎。母は新納是久の女で常盤といい、既に2女を生んでいた。善久と常盤の政略結婚が成立した後も、善久の父・久逸と新納是久は反目し合っていたが忠良誕生の頃には争いも無くなり、伊作家は平穏を迎えていた。
 しかし、翌年、善久が配下に殺される事件が起こると、その平穏は破られた。伊作家以上の勢威を誇る薩州家の忠興が攻めてきたのである。当主・久逸は伊作城を討って出たが敢え無く戦死した。この状況を見た常盤は自ら出陣し、全兵力で忠興の本営を突いて壊走させることに成功した。そして、いずれ家督を継ぐべき幼い菊三郎の母・常盤が伊作城主となった。
 当主と嫡男がいなくなった伊作城は、領土切り取りを目論む諸豪族の攻撃にさらされた。その度に常盤は伊作家と友好関係にある総州家の運久に援軍を求め、運久も毎度兵を送った。その誼で常盤は運久に再嫁し、両家の友好はますます深まった。やがて、菊三郎は元服して名を忠良と改め、永正9(1512)年、図らずも伊作、総州両家の家督を併せて相続することとなった。
 永正9(1512)年、忠良に長男・虎寿丸が誕生した。この頃の島津本家当主は勝久であったが、本家自体は力を失い、勝久の義兄の実久(忠興の子)に輔けられていた。しかし、実久が薩摩守護職の譲渡を強要してきたため、勝久は忠良を頼った。忠良は虎寿丸を勝久の養子とし、守護職も譲渡するとの条件で勝久に代わって実久に戦いを挑んだのである。大永6(1526)年11月27日、虎寿丸は元服して名を又三郎貴久と改めた。翌年には勝久が隠居し、忠良も法体となり愚谷軒日新斎と号した。
 だが、勝久は実久に説得され、忠良・貴久の居城・清水城を襲った。忠良らは清水城を脱出し、田布施に戻った。この時点で薩州家実久の勢力は忠良の勢力より大きかったため、忠良は清水城を攻めず、伊作城を回復した。
 天文2(1533)年より、忠良は所領を拡大し始めた。まず、日置南郷城攻めを行うがこの戦いで忠良は自らの軍勢を城主・桑波田孫六の軍勢と偽ってまんまと入城し即日陥落させている。同年、日置城の山田有親を降し、天文5(1536)年には伊集院一宇治城の町田久用を破った後、その支城を一気に平らげた。忠良は一宇治城を本城としている。天文7(1538)年、忠良は満を持して実久方の加世田別府城を攻め、翌年元旦落とした。実久は尚も抵抗を続けたが、残った城も次々と落とされ、弟・忠辰も斬られるに及んで遂に降伏した。
 島津家の統一に成功した忠良は後事を貴久に任せ、後進の指導に専念した。天文14(1545)年、忠良は家訓の『いろは歌』を創作した。これは武士としての心構えや臣下の結束の大切さを歌にしたものであり、後世にまで影響を及ぼしている。

 尚真 寛正6(1465)~大永6(1526) 在位:文明8(1476)~大永6(1526)
 尚巴志の三山統一の後、その子孫は7代で絶えたため、尚氏の下で貿易を担当していた金丸が、文明2(1470)年、尚円と名乗って王となり第二尚氏王朝時代が始まった。尚円の死後、弟の尚宣威が第2代目王に即位したが、半年で王位を退いたため、尚円の子である尚真が文明9(1477)年12歳で国王に即位し、暫くは母が執政した。
 尚真は各地に分散していた按司(アジ)を首里周辺に住まわせ、地方には管理者として按司掟(アジウッチ)をおいて、地方勢力を従わせた。更に、明応9(1500)年のおやけ赤蜂の反乱で八重山(西表島)、鬼虎の乱で与那国島を支配下に収めるなどしてその勢力圏を広げ、沖縄本島をはじめとして地方の行政区画を整備した。
 尚真は身分制度をも整えている。永正6(1509)年には、按司に身分に応じた色付きの鉢巻やかんざしの着用を義務付けた。また、妹・音智殿茂金(オトチトノモイカニ)を最高女神である聞得大君(キコエオオキミ)として、その下に各地のノロ(女神職)を統一した。
 この時代は外交・貿易面でも発展が著しかった。文明13(1481)年には、初めて薩摩へ紋船(慶賀船)を遣わし、それに対して島津氏は幕府より琉球渡来許可印証発行の権限を認可されている。貿易港・那覇が整備され、交易圏はマラッカ・ジャワ・スマトラ・シャム・安南など東南アジアにまで広がった。また、永正13(1516)年、足利義晴は三宅国秀に琉球遠征を許可しているが、出兵した国秀は島津氏に討たれた。

 神保慶宗 ?~永正17(1520)
 神保長誠の病死により家督を継いだ。神保家は越中守護代の家柄であり、守護・畠山家に仕えていた。当時の畠山家当主は尚順であり、細川政元と対立していた。政元は長亨2年(1488)年、加賀一向一揆を味方につけて守護・富樫政親を滅ぼし、永正3(1506)年3月にはその一揆勢を越中へ侵攻させた。この奇襲攻撃に慶宗は敗れ、越後守護・上杉房能を頼って越後へ逃れた。慶宗は越後守護代・長尾能景の援軍を得て帰国し、8月18日一向衆を蓮台寺の戦いで破った。勢いに乗る神保・長尾軍は9月19日、般若野で一向一揆と戦った。しかし、途中で慶宗は能景を裏切って一揆方につき、能景をはじめ水原景家などの部将を討ち取った。これにより慶宗と椎名慶胤は旧領に復し、一向一揆と手を結んだのである。しかし、長尾家とは折り合いが悪くなり、以降能景の後を継いだ為景と抗争を繰り広げることになった。
 越後平定を終えた為景は越中侵攻を繰り返し、慶宗はこれを防いでいたが、今度は慶宗の勢力伸長を快く思わない越中守護・畠山尚順が、能登畠山義総とともに為景と結んだため状況は一変した。永正16(1519)年3月、畠山・長尾軍は越中に侵攻し、慶宗は椎名慶胤とともに迎え撃ったが、神保・椎名軍は境川の戦いで敗北し、慶宗は二上山城に籠城した。勝算は低かったが、畠山家の不手際で為景は兵を退いた。
 だが、翌永正17(1520)年には再び連合軍が来寇した。慶宗は畠山尚順に降伏を申し出たが、為景が反対し容れられなかった。慶宗は12月21日、椎名、遊佐、土肥氏らとともに長尾方の新庄城を攻め、為景はこれを迎え撃った。当初は神保軍が優勢であったが、後長尾軍が反撃に転じ神保軍は総崩れとなった。椎名慶胤らの裏切りが原因ともいう。慶宗は二上山城に逃れようとしたが神通川をはじめとする河川の渡河に苦しみ溺死者、凍死者を多く出した。さらに二上山城が畠山義総に落とされていたため、慶宗は観念し、自刃して果てた。

 薄田兼相 ?~元和元(1615)
 官途受領は隼人正。豊臣秀頼に仕え、三千石を領有し、大坂城一の怪力の持ち主と言われた。
 慶長19(1614)年、大坂冬の陣が勃発すると兼相は城の西側に位置する博労ヶ淵砦の守備を任された。しかし、敵の攻め込んで来る気配が無かったため、兼相は砦を離れ娼家に出かけた。だが翌11月29日、徳川方の石川忠総、蜂須賀至鎮が博労ヶ淵砦を攻撃し大将不在のまま戦闘が始まってしまう。兼相の帰還が間に合わず、統制のとれなかった守備側は脆く、砦はあっけなく陥落した。この敗戦後、兼相は「橙武者(外見は素晴らしいが、実力を伴わない)」という不名誉な異名を付けられた。
 翌年の大坂夏の陣で兼相は汚名返上を図った。5月、兼相は後藤又兵衛、真田幸村らとともに大和路に進軍した。6日、先鋒の後藤又兵衛は道明寺周辺で徳川方・水野勝重軍と衝突し、10倍もの敵勢を相手に奮戦したが討死した。その後、薄田兼相らの第2軍が到着し後藤軍の残兵を収容したが、息つく間もなく水野軍と戦闘になった。兼相は奮戦し、多くの敵を討ったが力尽き、水野勝成の家臣・川村重長に討たれた。
 尚、兼相は豪傑・岩見重太郎と同一人物であるとされている。

 長寿院盛淳 天文16(1547)~慶長5(1600)
 畠山頼国の子。頼国は天文年間に京から薩摩に下向し、島津氏の客分となった。
 盛淳は3歳の時から紀州高野山、根来寺で修行したのち薩摩へ戻り鹿児島安養院の住持となったが、島津義久の要請を受けて島津家臣となった。天正14(1586)年、義久の奏者として豊臣家へ使者となり、翌年義久が秀吉に降伏したときはともに秀吉の前に伺候した。天正16(1588)年には、義久に従い石田三成と会見した。この年より義久の家老となっている。
 慶長5(1600)年、盛淳は上方に僅かな兵を率いて駐留している島津義弘を援助するため、蒲生衆、帖佐衆70人を率いて薩摩を発し、関ヶ原本戦の2日前(9月13日)に義弘軍と合流した。9月15日、小早川秀秋の寝返りによって西軍が崩れると、義弘は全軍に前進退却を命じた。島津勢は福島正則勢、徳川家康本陣をかすめて伊勢街道を南下した。そこに井伊直政、本多忠勝、松平忠吉らが追撃してきたため、島津豊久が迎え撃ち玉砕した。盛淳は烏頭坂を下ったのち、義弘が秀吉から拝領した陣羽織を着て迎え撃ち義弘の身代わりとなって果てた。この盛淳らの働きによって義弘は薩摩まで帰還することができたのである。
 尚、子孫は阿多の領主となり、阿多姓を称している。

 長続連 ?~天正5(1577)
 能登穴水城主。平秀続の次男。長英連(続連の伯父か)の養子となり長家を継いだ。将軍・足利義輝に仕えた後、能登畠山家臣となった。
 七尾城を築き城下町を整備した名君・畠山義総の死後、能登畠山家では畠山七人衆(長続連、遊佐続光、宗円、温井総貞、三宅総広、平総知、伊丹総堅)の間で権力抗争が繰り広げられ、当主・義続は傀儡となってしまった。
 中でも権力の強かった遊佐続光は敵対者を一掃するため兵力を領内に進入させたが、長続連、綱連父子は温井総貞らとともにこれを撃退し遊佐続光を失脚に追い込んだ。しかし遊佐続光は天文19(1550)年、帰参したため再び緊張状態となった。
 この後、畠山義続は家臣団によって隠居を強いられ、家督を子・義綱に譲った。が、義続は義綱の後見として政権奪回を図り、弘治2(1556)年、温井総貞を暗殺し、その孫・景隆らを追放した。畠山親子は専制を図るが、家臣団の反発を受け、永禄9(1566)年、追放された。家督は義綱の子・義慶が継いだが謎の死を遂げ、さらにその跡を継いだ義慶の弟・義隆も急死し、幼い春王丸が当主となった。
 また、永禄8(1565)年、長続連は子・綱連に家督を譲っている。
 畠山家中で抗争が続いている間、織田信長は着々と勢力を拡大し、上杉謙信も能登侵攻の機会を窺っていた。長続連は信長と親睦を深め、遊佐続光は上杉謙信と結び、温井景隆は一向宗を頼った。そして、天正4(1576)年から上杉謙信の能登侵攻が始まった。当初は家臣団一丸となって防戦の構えを見せ、続連は子・連龍を信長のもとに送り援軍を要請したが、支城、砦は尽く陥落し、残るのは七尾城のみとなった。謙信は兵糧攻めの策を採った。そこで、続連は敵方から見える岩場に米を流し、あたかも滝が流れているかのように見せかけたため、攻め手の士気は大いに萎えたという。しかし、謙信はこれを見破り、遊佐続光温井景隆と内応して続連を攻撃した。これにより続連、綱連をはじめとする長一族100名が粛清されたのである。

 百々綱家 天文17(1548)~慶長14(1609)
 百々綱家は近江の名家出身で、築城術に長けていた。当初丹羽長秀に仕えたが、後秀吉の直轄領の代官を務めた。秀吉が清洲会議において織田家継承者に推した織田秀信(清洲会議当時は三法師)が岐阜城主となる際、秀吉の勧めで木造具康(長政と同一人物か)とともに秀信の家老となった。
 石田三成が家康に対して挙兵したとき、秀信は三成から味方するよう誘われ、秀信はこれを肯んじた。綱家は具康とともに反対したが、秀信を説得するには至らず織田家は西軍に与することとなった。
 8月14日に清洲城に終結していた東軍諸将は家康の到着を待たずに動き出した。8月21日、清洲を発った3万5000の軍勢は犬山城、竹ヶ鼻城を無視し岐阜城へ向かった。岐阜城では軍議が開かれた。綱家ら家臣団は籠城を主張したが、城主・秀信は祖父・信長に倣い討って出るべきだと強硬に反対したため、出撃することに決した。
 22日、織田勢は岐阜城を出撃し、東軍の池田輝政、一柳直盛、浅野幸長、山内一豊、堀尾忠氏、有馬豊氏、戸川達安、京極高知らと木曽川を挟んで対峙した。東軍は渡河を開始したが、対岸には綱家によって予め防材が組まれ、鉄砲隊が配されていた。東軍勢は銃撃に倒れたが、数を頼みに渡河を強行したため、不利になった織田勢は城内に引き、籠城した。籠城戦では東軍に圧倒され、秀信は遂に降伏勧告を受け入れた。
 秀信はこの後、出家して高野山に移った。綱家は岐阜城の戦いで交戦した山内一豊から仕官の誘いを受け、土佐山内家に仕えた。

 鳥居元忠 天文8(1539)~慶長5(1600)
 鳥居忠吉の子。天文20(1551)年、父とともに駿府へ赴き竹千代に仕えた。
 弘治4年(1558)年、家康の初陣である寺部城攻めに従軍したのを始め、大高城兵糧入れ、遠江掛川城攻略、姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦いなど主要な合戦には尽く参陣し、多くの戦功をあげた。天正3(1575)7月、元忠は諏訪原城攻撃で先鋒を務めたが左股に被弾し、片足が不自由となった。しかしその後も、犬居城、田中城、高天神城の攻略などで活躍した。
 天正10(1582)年の甲斐経略にも従軍し、黒駒で北条氏忠軍を撃破する活躍を見せ家康の甲斐領有に大きく貢献した。この功により甲斐郡内一円を与えられている。小牧・長久手の戦いでは甲府を守り、家康の後顧の憂いを絶った。天正14(1586)年、家康上洛の際には秀吉から官位を与える申し出があったが、これを辞した。小田原征伐では武蔵岩槻城を陥れ、その後の家康の関東移封に伴い下総矢作四万石を与えられ、佐竹家に対する抑えとなった。
 慶長5(1600)年、家康が上杉景勝征伐を決定すると元忠は伏見城の守りを命じられた。家康は元忠と酒を酌み交わし、6月18日に出発した。また、家康は島津義弘にも伏見城の守備を頼んでおり、7月17日には義弘が入城しようとしたが、島津も伏見城の守備を任されていることを知らない元忠はこれを拒絶した。そして7月19日、西軍の第一の標的となった伏見城は宇喜田秀家を総大将とする軍勢の攻撃を受けた。元忠はかなりの兵力差がありながらも10日以上持ちこたえたが、8月1日城内に内応者が出て、遂に落城。元忠は鈴木重朝に討ち取られた。


西園寺実充(さいおんじ さねみつ) ????~???? 
○実清 実光 左近衛権少将
◇父:西園寺公家?公宣? 子:西園寺公高 養子:西園寺公広
 伊予守護西園寺氏当主。同じ伊予の宇都宮氏、河野氏らと争う。文武に秀でた武将で、上洛して和歌会に列席したこともある。


西園寺公高(さいおんじ きんたか) 1537~1556
◇父:西園寺実充
 伊予・西園寺氏一族。伊予・宇都宮氏との境界争いが絶えず、土佐・長宗我部氏との連合軍に攻められた際、鉄砲を受け19歳で戦死した。


西園寺公広(さいおんじ きんひろ) ????~1587
○左衛門太郎 公次?
◇父:西園寺公宣? 養父:西園寺実充 室:西園寺実充女
 父は京・大徳寺の僧。公広も伊予・来応寺の僧だったが、伊予守護職を継ぐ。文武には長じていたが、戦略、謀略に疎く、東中予の河野氏、南予の宇都宮氏の侵攻を受けて防ぎきらず、安芸・毛利氏に救援を求め難を逃れていた。1582年毛利氏の攻略を受け敗北。1584年土佐・長宗我部氏の侵攻を受け、この時も毛利氏の援護を受け抗戦したが、敗北する。後に入部した戸田勝隆に誘殺される。


三枝守友(さいぐさ もりとも) ????~1575 
○宗四郎?宗次郎? 勘解由 左衛門尉 善右衛門 山県氏
◇父:三枝土佐守虎吉 養父:山県昌景 子:三枝守吉 弟:三枝源左衛門守義、平右衛門昌吉
 三枝氏は古代の姓"三枝の連"よりその存在が確認されている名族。甲斐・武田氏臣。武功を重ね、その勇猛さに感じ入った山県昌景は、愛蔵の吉光の名刀を与え猶子にしたといわれる。長篠合戦では前当主信玄の弟兵庫介信実副将として参陣したが、三河・松平氏臣酒井忠次の夜襲を受けて共に戦死した。38歳。


斎藤鎮実(さいとう しげざね) ????~1578
○左馬助 進士兵衛尉 兵部少輔
◇父:斎藤長実
 豊後・大友氏臣。肥後方面の攻略に活躍し、又高橋鑑種の謀反鎮圧、肥前・龍造寺氏攻略にも参加している。薩摩・島津氏との日向・耳川の合戦において、渡河攻撃を主張する鎮実ら積極派と軍師角隈石宗ら慎重派の間で意見が対立し、まとまらぬまま戦闘となり戦死して果てた。


斎藤龍興(さいとう たつおき) 1548~1573
○喜太郎 義糺 義輔 右兵衛大夫 刑部大輔 一色氏
◇父:斎藤義龍
 父の死により14歳で美濃・斎藤氏の当主となるが、家臣の心を掌握しきれなかった。尾張・織田氏、及びその同盟国近江・浅井氏の侵攻に度々遭う。浅井氏侵攻には、近江・六角氏と結ぶことで難を逃れた。1563年新加納の合戦においては、軍師竹中重治の作戦で大勝利、あわや織田信長を討ち取るところまで追いつめる。17歳の時、重治にわずかな手勢で城を奪われるが、後に返還される。しかし、これで龍興の信頼はさらに落ち、1567年重臣美濃三人衆の寝返り等あって、信長に城を逐われ、伊勢長島まで逃れる。後も畿内で織田氏と争い、越前・朝倉氏に頼るが、越前・刀禰坂で織田軍と戦い討死。


斎藤朝信(さいとう とものぶ) ????~1591 
○下野守
◇子:斎藤三郎右衛門景信
 越後・長尾氏臣。越後・赤田城主。政軍事両面で活躍し、又、下をよくまとめ、奪った敵領をよく治めた。越中攻め、下野・佐野城攻め等で功を重ね、“鍾馗”の異名をとる。謙信死後は景勝を助け甲斐・武田氏と和睦、織田信長の軍と戦った。


斎藤道三(さいとう どうさん)→斎藤秀龍


斎藤秀龍(さいとう ひでたつ) 1494~1556 
○峰丸? 法蓮坊? 松浪庄五郎? 西村勘九郎正利? 新九郎 長井規秀 斎藤左近大夫利政 道三 山城守
◇父:松波左近将監基宗?長井新左衛門尉? 室:明智駿河守光継女、稲葉良通姉、織田信秀女 子:長井道利?、斎藤義龍、孫四郎龍元、喜平次龍之、玄蕃助利堯、新五利興 養子:斎藤正義
 最初、京都二条・妙覚寺の小僧であったが、ある日突然姿を消す。その後、京の油売商人として行商していたが、つてを頼って美濃守護・土岐氏一族頼芸家臣となる。土岐氏当主政頼を攻めて放逐し、頼芸を当主につけて、家中の実権を握り、その頭角を現していった。1527年長井利安を殺害して小守護代、1538年には病没した守護代斎藤利良の跡を襲姓。また、当主頼芸と折合が悪くなると、これも放逐し、美濃の国主と成り上がった。そのやり口、無類の合戦上手から“美濃の蝮”と呼ばれる。その後、越前・朝倉氏、尾張・織田氏らと戦いを続けていたが、最期は不和となった長子義龍と長良川で戦い敗死した。


斎藤義龍(さいとう よしたつ) 1527~1561 
○豊太丸 新九郎 利尚 高政 玄龍 美濃守 左京大夫 治部大輔
◇父:斎藤秀龍? 室:浅井久政女、一条氏女? 子:斎藤龍興、菊千代
 美濃・斎藤道三の長子であるが、実のところ美濃守護・土岐頼芸側室であった母が、その子を宿して後道三に嫁ぎ産んだ子ともいわれる。父の正室から男子が生まれたことから、義龍廃嫡の意志もあって父と不和になった。その為、長井道利と謀って父や弟らを敗死させ、美濃を制圧した。その兵を動かす手腕を見て、父道三は安心して死んだという。その後尾張・織田氏らと争うが、持病が悪化し35歳で亡くなった。


斎村政広(さいむら まさひろ) 1562~1600 
○赤松氏 弥三郎 広秀 広英 広道 左兵衛尉 左兵衛督 左兵衛佐
◇父:赤松政秀 室:宇喜多直家女 子:斎村次郎右衛門、善右衛門
 播磨・赤松氏一族。播磨・龍野城主であったが、羽柴秀吉の中国征伐の際降伏。賤ヶ岳合戦、小牧合戦に従軍した。1586年但馬・竹田城主となり、やがて2万2千石得た。関ヶ原の戦いでは西軍について丹後・田辺城を攻撃するが、西軍主力敗北後、降伏して東軍亀井茲矩に従い、因幡・宮部継潤の鳥取城を攻めた。しかし、城下を焼き払った咎で、切腹改易となった。日本儒学の祖藤原惺窩門下。


佐伯惟定(さえき これさだ) ????~1619 
○太郎 権之助 権正 権頭
◇父:佐伯弾正少弼惟真
 豊後・大友氏臣。日向・高城の合戦で祖父、父が戦死し、17代家督相続。大友領に侵攻する日向勢、薩摩勢を度々撃退し、降伏勧告も一切受け付けなかった。その活躍は、九州征伐に来た羽柴秀吉に賞され、感状を受けている。大友氏没落後は、羽柴秀保を頼り、その臣藤堂高虎に仕える。高虎の伊予入国時に2千石を給された。朝鮮出兵にも参加、海戦にて功を挙げる。関ヶ原合戦時は伊予・板島城留守居役。大坂の陣に参加。冬の陣では大将が多く戦死した為、急遽藤堂宮内高吉と共に先鋒を務める。戦後加増され、計4500石領有。50歳にて没。


佐伯惟教(さえき これのり) ????~1578
○太郎 紀伊守 宗天
◇父:佐伯紀伊守惟益 養父、祖父:佐伯惟常 子:佐伯弾正少弼惟真、新介惟忠(鎮忠?)
 父惟益2男だが、兄中務大輔惟賢が病死して大神一族佐伯氏12代当主となる。豊後・大友氏臣。栂牟礼城主。“二階崩れの変”の際、大友義鎮を奉じて府内を制圧、信任を得る。姓氏の争いの際に、義鎮殺害計画が発覚して出奔、伊予・西園寺公広を頼ったが、後に帰参して許されている。1572年総大将として、西園寺氏攻略に出陣する等各地を転戦した。日向・耳川の合戦において軍師角隈石宗らと慎重論を主張し、田北鎮周らが積極論を主張して意見がまとまらず、結果鎮周らは独断で兵を進め、仕方なしに惟教も攻撃を開始。しかし後背を絶たれて惨敗し、惟教ら多くの大友将士が戦死した。


酒井胤治(さかい たねはる) ????~1577
◇父:酒井玄治 子:酒井康治
 上総・土気城主。相模・北条氏、安房・里見氏の勢力間に位置し、胤治の時は北条氏についていた。しかし、1564年第2次国府台合戦後、北条氏から忠誠を疑われたことから離反して里見氏方に鞍替えする。翌年北条氏の軍に城を包囲され、これに従う同族の上総・東金城主酒井敏辰に攻められるが、籠城して撃退する。その後もよく北条勢を撃退するが、里見氏の増援を得られず、1575年ついに降伏し、北条氏に従った。


坂井直政(さかい なおまさ) ????~????
○与右衛門 直勝
◇子:坂井直義
 清和源氏土岐氏分流。美濃・斎藤氏臣。後に尾張・織田信長に従い、その臣丹羽長秀に仕え、諸戦に功を挙げた。1570年三好三人衆が京・六条に侵攻してきた時には、摂津・高槻から急ぎ赴いて戦い、"六条表の花槍"と呼ばれた。長秀の死後は、その子長重に随身し、1万石を領有。


坂井直義(さかい なおよし) ????~1643
○与右衛門 土佐守
◇父:坂井直政
 父直政3男。父と共に丹羽長重に仕える。その後、佐久間河内守政実の斡旋にて、藤堂高虎に臣従して千石領有。大坂の陣に参加し、夏の陣において大功を挙げた。後に2千石まで加増。


相良武任(さがら たけとう) ????~1551 
○中務丞 中務大丞 遠江守
◇父:相良正任
 周防・大内義隆の右筆を務める。肥後の戦国大名相良氏庶流か。行政手腕に優れ、義隆の信任厚かった。義隆と断袖の関係があったといわれる。しかし、寵深い事が災いし、重臣陶隆房の不満を買って対立、隆房謀反の因となった。1550年に出奔したが筑前にて杉興運に捕まり、翌年隆房が謀反した時、花尾城にて殺される。


相良晴広(さがら はるひろ) 1513~1555 
○上村氏 藤五郎 頼重 長為 為清 右兵衛佐
◇父:上村頼興 養父:相良近江守義滋(長唯) 室:明和某女 子:相良義陽、大膳助頼貞
 肥後・相良氏当主。積極的に対外政策に取り組み、又、対明貿易を行う等して地盤を広げる。「相良氏法度二十箇条」等の法制定にも努めた。43歳で亡くなる。


相良義陽(さがら よしひ) 1544~1581 
○万満丸 四郎太郎 頼房 義頼 遠江守 修理大夫
◇父:相良晴広 子:相良忠房、宮内大輔頼房、長誠
 12歳で肥後・相良氏当主となる。内乱を治めて国をまとめ上げ、勢力を伸ばす。度々薩摩・島津氏と争うが、やがて水俣城を攻略され、領地割譲と豊後・大友方阿蘇氏臣の甲斐親直(宗運)攻略を条件に和議。義陽と宗運は盟友であったが、やむなくこれを攻撃し、響ヶ原にて敗北。落ちることなく床几に座したまま、甲斐氏臣緒方喜蔵に斬られた。38歳。響ヶ原は攻めるに易く、守るに難い地で、義陽は友の為、わざとここに陣を張ったともいわれる。宗運は義陽の死に際し、「これで島津氏の北上を妨げる者はなくなり、阿蘇氏の命運はあと3年だろう」と言っている。


佐世清宗(させ きよむね) ????~????
○伊豆守
◇父:佐世幸勝 子:佐世伊豆守正勝、元嘉
 出雲・尼子氏臣。御家老衆の一人で、家中第二の石高を得ていた。安芸・毛利氏との緒戦に参加するが、1565年富田城籠城中、落城寸前に毛利氏に降った。


佐竹義昭(さたけ よしあき) 1531~1565 
○徳寿丸 義従 右京大夫
◇父:佐竹大膳大夫義篤 室:岩城重隆女、大掾慶幹女 子:佐竹義重、、南義尚(那須資綱)、小場義宗
 常陸・佐竹氏当主。常陸・小田政治と共に、武蔵・江戸忠通と戦いこれを破る。相模・北条氏との戦いに敗れた上杉憲政が、家名と関東管領職を譲ることを条件に庇護を求めてきた時には、源氏姓を捨てたくないとの理由から辞退した。その為、憲政は越後・長尾景虎の下へ。1557年、小田氏治と協力して、宇都宮氏臣壬生綱雄を倒し、宇都宮広綱を宇都宮城に復帰させる。その後も結城氏、北条氏、那須氏等との戦いを繰り返した。若くして隠居後は府中城に移り、やがて病死。


佐竹義堅(さたけ よしかた) ????~????
○源六郎 左近将監
◇父:佐竹政義 子:佐竹薩摩守義喬、義忠、義久
 常陸・佐竹氏一族。他の一族衆義里や義廉と交代で、佐竹家政を執行。1566年、下野・那須資胤と高瀬に戦うが敗北、これに降伏した。


佐竹義重(さたけ よししげ) 1547~1612 
○徳寿丸 次郎 義廉 常陸介
◇父:佐竹義昭 室:伊達晴宗女、那須政資女 子:佐竹義宣、蘆名義広、岩城貞隆、多賀谷宣家(岩城宣隆)、北彦次郎義直(義継)
 16歳で常陸・佐竹氏当主となる。相模・北条氏との戦いで、敵7人を一時に斬り捨てたことから、"鬼義重"、"板東太郎"の異名で呼ばれる。常陸・小田氏治を圧倒して、窮地に追いやる。また、婚姻関係を元に、宇都宮氏、結城氏と組んで、相模・北条氏に対抗し、度々争った。一方、磐城・蘆名氏を援けて、陸前・伊達氏とも度々争っている。豊臣秀吉の小田原攻めでは、かねてから組んでいた秀吉に従い、奥州平定にも協力。関ヶ原の合戦の際は、子義宣を説得して家康方についたが、秋田に減封された。66歳で没、落馬の際の怪我が元とも。全然関係ないけど、かなり暑がりだったみたい。


佐竹義宣(さたけ よしのぶ) 1569~1633 
○徳寿丸 次郎 右京大夫 左中将
◇父:佐竹義重 室:那須資胤女、多賀谷重経女 子:綱川内記信道 養子:佐竹彦次郎義直(義継)、(岩城)左少将義隆
 父の補佐を受けつつ家督を継ぎ常陸・佐竹氏当主となって、陸奥・伊達氏、相模・北条氏相手に戦う。小田原征伐の際は、石田三成の斡旋で豊臣秀吉の下に参陣、これに従った。この時秀吉から常陸所領安堵の朱印を得て、実質的にも常陸を平定する。1597年下野・宇都宮氏改易に連座しそうになるが、三成の斡旋でこれを逃れ、1599年武断派7将による三成暗殺未遂事件では、逆に義宣が駆けつけて三成の窮地を救った。その為関ヶ原の合戦では、これまでの友誼から西軍に付こうとしたが、父や家臣の猛反対を受け、板挟みとなって旗幟を鮮明にせず動かず、その責を問われて出羽・秋田18万石に転封される。


佐竹義憲(さたけ よしのり) 1570~???? 
○又七郎 左衛門督
◇父:佐竹左衛門督義斯 子:小野岡義盛
 常陸・佐竹氏一族。当主義重の3男貞隆の岩城氏襲封の際にはこれに従い、岩城氏の家政を執行、検地を実施している。佐竹氏の秋田転封に際し、これに従い移った。


佐竹義久(さたけ よしひさ) ????~1601
○源六郎 中務大輔
◇父:佐竹義堅 室:小野崎義昌女 子:大場権之助、佐竹義賢、酒出弥三郎、伊達左門宣宗、小野崎宣政、佐竹弥三郎
 常陸・佐竹氏一族。東殿と呼ばれる。当主義重に従って各地を転戦。また、石田三成を通じて豊臣秀吉とも親しく、豊臣氏の代官も務めて秀吉から6万石与えられ、大名となる。関ヶ原の合戦では東軍方の布石として派遣されるが、翌年没。暗殺されたとも。


里見弘次(さとみ ひろつぐ) ????~1564 
○長九郎 弘継
◇父:里見越前守忠弘
 安房・里見氏一族。15歳で第2次国府台合戦に初陣で参戦。里見勢が敗走する中、追撃してきた北条氏臣・松田左京亮康吉に討たれた。弘次はまだ童顔の美少年であり、これを討たざる得なかった康吉は嘆き悲しんで、合戦後そのまま仏門に入り、弘次を弔ったという逸話がある。


里見義員(さとみ よしかず) ????~????
○家宗 義貞 刑部少輔
◇父:里見義豊 子:里見又三郎義宗、中澤十右衛門忠宗、里見山左衛門義仲
 安房・里見氏一族。1534年父義豊を義堯に討たれて失うと、越後・中沢へ逃れ、越後里見氏を立てた。


里見義堯(さとみ よしたか) 1507~1574 
○権七郎 民部少輔 刑部少輔
◇父:里見上総介実堯 室:正木時綱女、土岐為頼女、長野業正妹 子:里見義弘、石井讃岐守義樹?、里見大炊介堯元、伊賀守堯次、義頼、越前守忠弘、義政、右京大夫義樹
 父を討った従兄義豊を、相模・北条氏綱の援けを受け討ち、安房・里見氏当主となる。その後、小弓御所足利義明と共に北条氏と戦うが、1538年下総・国府台に敗れた。以後も総州侵攻を続け、越後・上杉氏と結んで北条氏と争い、1564年再度国府台で敗れるが、1567年には上総・三船山に北条軍を撃破する。北条氏が上杉氏と和すると、今度は甲斐・武田氏と結ぶ等、外交を駆使して強敵相手に国を保った。68歳で没。


里見義高(さとみ よしたか) ????~????
○義英 忠英 讃岐守
◇父:里見義頼
 安房・里見氏一族。上野・板端1万石の所領を得るも、1613年勤務怠慢の咎で除封となり、岳父酒井家次に預けられた。


里見義豊(さとみ よしとよ) 1513~1534 
○竹若丸 太郎 左馬頭
◇父:里見上総介義通 室:烏山左近大夫時貞女、中里備中正端女、小倉民部定光女 子:里見義員、小倉豊前守貞通
 父の遺言により、幼少の頃は叔父実堯が実権を握る。やがて家督を相続し、実堯後見の下政治を行うが、やがてこれと対立する。1533年稲村城に実堯らを誘い込み、自害させる。以後、上総・武田信保の協力で、国内の秩序回復に努める。しかし、相模・北条氏綱と組み、安房の大部分の国人を味方につけた、実堯の子義堯と1534年滝田、犬掛で戦い敗北。稲村城に籠もるが、防ぎきれず自害した。鎌倉の禅僧等と交流を持ち、文武に秀でていたという。


里見義弘(さとみ よしひろ) 1530~1578 
○太郎 義舜 左馬頭 上野介 陸奥守
◇父:里見義堯 室:足利義明女、晴氏女、薦野神五郎時盛女、東平重範女 子:里見春王丸義重、薦野神五郎頼俊、正木金太郎義俊 養子:正木頼忠、里見義頼
 安房・里見氏当主。相模・北条氏相手に度々戦う。1561年越後・上杉氏の小田原城攻めに従い参戦。1564年国府台での合戦では大敗を喫し、上総の勢力を失う。しかし、安房にて力を回復、これを再び討とうとした北条軍と、1567年三船山にて合戦、策を用いて大勝した。久留里城にて病没。


里見義政(さとみ よしまさ) ????~???? 
○刑部少輔 井関氏
◇父:里見義堯 子:里見駿河守義滋
 安房・里見氏一族。安房・久留米城代。1574年父義堯が没し、兄義弘が当主に就くが、この時家督を争ったという。義政の人望を怖れた義弘に野心を疑われるが、自ら常陸に去り、佐竹氏に仕えた。1583年常陸・麻生城主となり井関氏を称する。


里見義康(さとみ よしやす) 1573~1603
○梅鶴丸 源太郎 左馬頭 安房守 侍従
◇父:里見義頼 室:正木憲時女 子:里見安房守忠義、織部、正木采女正忠堯
 安房・里見氏当主。1590年豊臣秀吉の小田原城征伐に協力する為、三浦半島より渡海して侵攻。しかし、鎌倉攻略にこだわって小田原攻めに遅参。徳川家康を通じて謝罪するが、秀吉は許さず、上総を没収された。文禄の役では肥前・名護屋駐屯。関ヶ原の合戦では東軍について、家康配下となる。


里見義頼(さとみ よしより) 1543~1587 
○太郎 義継 左馬頭 安房守 刑部大輔
◇父:里見義堯 養父:里見義弘 室:北条氏政女、正木時茂女 子:里見義康、正木時茂、源七郎義断、久太郎忠勝、中務大輔康俊、里見義高
 兄義弘の養子となるが、義弘はその実子春王丸義重に上総、義頼に安房を任せるとして、これを不満を持った。義弘死後、上総の義頼に対する抵抗が強く、一揆が相次いだ為、義重を出家させ当主となる。1581年房総に侵攻した相模・北条軍を撃退。安房・岡本城にて病死。


真田信繁(さなだ のぶしげ) 1567~1615 
○辨(弁)丸 源次郎 左衛門佐
◇父:真田昌幸 室:大谷刑部少輔吉継女、堀田作兵衛女、高梨内記女、豊臣秀次女 子:真田幸昌、片倉守信、三好幸信、真田之親
 通称幸村。信濃・上田城主昌幸2男。上田城が徳川家康に包囲された時は、越後・上杉氏に救援を求める為、春日山城に人質として送られる。後に、豊臣秀吉の下、質として赴き近侍。秀吉没後は上田城に戻り、家康の会津征伐軍にも加わるが、石田三成が家康に反旗を返すと西軍に属して上田城籠城、東軍を苦しめた。西軍敗北後は東軍についた兄信幸の助命で、高野山に蟄居。大坂の陣で、50万石の約束で大坂方に招かれる。家康は信繁を味方に引きいれる為、信濃一国を与える条件で、叔父信尹を派して説得したが、これをきっぱり断っている。冬の陣では、"真田丸"を拠点に戦い、数倍の東軍を苦しめた。夏の陣では最後の天王寺の決戦において、家康本陣に突撃して大混乱に陥れるが、やがて力尽き、茶臼山にて戦死。多くの記録でその活躍ぶりは記され、いわゆる幸村に仕えた10勇士として、"真田十勇士"の伝説(?)をも生んだ。


真田信尹(さなだ のぶただ) 1547~1632
○源次郎 市右衛門 信昌 隠岐守 加津野氏
◇父:真田幸隆 室:馬場美濃守女 子:真田長兵衛幸政、内蔵助正信(信勝)
 甲斐・武田氏臣。1569年北条綱成の深沢城を攻めた時には、綱成の旗印"地黄八幡"を奪って名を挙げる。武田氏滅亡後は、兄昌幸と共に信濃・上田城にあったが、やがて池田輝政を経、徳川家康に仕える。その後、一時蒲生氏郷に仕えるも、再度家康に仕えた。甲斐・巨摩郡に5千石を領有。大坂の陣では、大坂方の甥信繁を引き入れようと説得に赴くが、失敗している。戦後さらに千石加増。86歳で没。


真田信綱(さなだ のぶつな) 1537~1574 
○源太郎 源太左衛門尉
◇父:真田幸隆 子:真田宮内大輔信興
 甲斐・武田氏臣。川中島の合戦では当主信玄の本陣を固め、乱戦の中終始信玄の側を離れなかったのは、信綱と土屋昌次の2人だったという。以後も活躍し、野戦と城攻めに抜群の手練れを見せたという。長篠合戦にて敵中突撃し戦死。


真田信政(さなだ のぶまさ) 1597~1658
○百助 内記
◇父:真田信幸 室:稲垣摂津守重綱女 子:真田信就、又八郎信守、大学頭信武、百助、源太郎、信房(幸道)
 5歳の時、徳川氏に人質として赴く。家康より、銘刀「吉光」の短刀を拝領、兄信吉と共に父の代理として、大坂の陣に参加。兄の死後は、上野・沼田城1万5千石を継ぐ。1657年信濃・川中島に10万石を領有。翌年63歳で没した。


真田信幸(さなだ のぶゆき) 1566~1658 
○源三郎 信之 一当斎 伊豆守
◇父:真田昌幸 室:徳川家康養女(本多忠勝女)、真田信綱女 子:真田信吉、信政、信重
 "信"は甲斐・武田信玄よりの諱。幼年期は武田氏の下、質として過ごす。武田氏滅亡後は父の下信濃・上田城に逃れる。1585年徳川家康の攻撃を父と共に撃退、講和後は家康に出仕した。関ヶ原の合戦では父弟と分かれて東軍に属し、徳川秀忠軍先鋒として戸石城攻略。その功で父らの助命嘆願する一方で、信濃・上田領加増にて9万5千石を得た。この頃、父からの諱"幸"を"之"に変えている。大坂の陣でも徳川方につき、戦後信濃松代に移封、沼田と合わせ13万石を得た。93歳と長生。


真田信吉(さなだ のぶよし) 1597~1634
○仙千代 孫六郎 河内守
◇父:真田信幸 室:酒井雅楽頭忠世女、小野氏女? 子:真田熊之助、伊賀守信直(信澄、信利)
 1616年父より譲られ、上野・沼田城主となる。大坂の陣に父の代理として参陣。しかし、38歳で早世。長子熊之助はまだ3歳であった為、弟信政が沼田城に入った。


真田昌輝(さなだ まさてる) 1543~1575
○徳次郎 兵部丞
◇父:真田幸隆 室:相木市兵衛女 子:真田主税助信正(幸明)
 甲斐・武田氏臣。兄と共に諸戦に活躍、しかし長篠の合戦において、織田氏臣佐久間信盛の陣に突撃、柵を一段越えたところで、深手を負い戦死した。33歳。尚、子信正は越前・松平藩に仕える。


真田昌幸(さなだ まさゆき) 1547~1611? 
○源五郎 喜兵衛 安房守 弾正忠 武藤氏
◇父:真田幸隆 室:菊亭晴季養女、宇多頼忠女、遠山右馬介女? 子:真田信幸、信繁、信勝、昌親
 甲斐・武田氏臣。父幸隆3男。当主信玄の母の出である武藤氏を継ぎ、足軽大将となる。1561年川中島の合戦が初陣。長篠の合戦において、信綱、昌輝両兄が戦死した為、復姓して信濃・上田城主となる。後に上野・沼田城も攻略。武田氏滅亡後は上野・箕輪、信濃・諏訪を領有する条件で徳川家康に臣従。しかし、家康が相模・北条氏と講和して、無断で上野・沼田領を割譲すると、家康と絶交。怒った家康の攻略を受けるが、寡兵にて撃退する。以後、羽柴秀吉に出仕し、上野・沼田を譲る代わりに伊那・箕輪を領有。北条氏滅亡後はその旧領も回復した。関ヶ原の合戦では、長男信幸を東軍につける一方で、自身は次男信繁と共に西軍に加担。上田城にて西上中の徳川秀忠軍3万8千を釘付けにする働きをみせた。しかし、西軍敗北に高野山に蟄居した。


真田幸隆(さなだ ゆきたか) 1513~1574 
○海野氏? 二郎三郎 小太郎 幸綱 一徳斎 弾正忠
◇父:真田右馬介頼昌? 室:海野棟綱女?、河原丹後守隆正妹 子:真田信綱、昌輝、昌幸、信尹、金井高勝
 元海野氏か。海野氏は清和天皇末流が信濃に土着し豪族化したもの。1541年甲斐・武田、信濃・村上、諏訪氏らの連合軍に敗れ、上野・羽尾幸全の下に逃れ、その後、上野・長野業正を頼った。1543年武田氏に仕え、信濃・岩尾城代となった。武田氏の軍師格として、時には謀略を駆使して戦いを援けた。信玄生涯一度の敗戦上田原の戦いにおいても、味方が潰走する中一歩も退かず応戦したという。信玄死後、後を追うように信濃・砥石城で没。63歳。


真田幸昌(さなだ ゆきまさ) 1602~1615
○大介 信昌
◇父:真田信繁
 14歳にて父信繁と共に、大坂夏の陣に参加。大坂落城時、脱出の勧めを断って、当主豊臣秀頼に殉じた。


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