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宍戸隆家(ししど たかいえ) 1518~1592 
○元家 安芸守
◇父:宍戸弥三郎元家? 室:毛利元就女 子:宍戸弥三郎元秀
 安芸・五竜城主。宍戸氏は藤原北家八田氏の流れで、常陸を発祥とする。建武年間、安芸に移り住んだ。父元源が安芸・毛利氏と結び、元就の女を隆家が娶って毛利一門と同様の扱いを受ける。以後、主に吉川元春と行動を共にして、毛利氏発展の為に尽くして活躍し、一門の筆頭として遇される。75歳で亡くなった。


柴田勝家(しばた かついえ) ????~1583 
○権六 修理亮
◇父:柴田土佐守義勝? 室:織田信秀女 子:柴田権六郎勝敏?、庄左衛門勝里?、長三郎勝忠? 養子:柴田(吉田)伊賀守勝豊、(佐久間)三左衛門勝政、(佐久間)勝久
 斯波氏の庶流か。尾張・織田信秀に仕え、その次子信勝の家老となる。1556年信勝を擁して謀反を起こすが、信勝の兄信長に敗れる(稲生の戦い)。後に信勝を見限って信長に仕え、尾張統一、上洛等に諸戦にめざましい武勇を示し、“甕割柴田”“鬼柴田”と異名をとる。1575年には越前一向一揆を平定し、北庄城主なって、織田軍の北陸方面攻略を任される。加賀、能登を平定後、1581年越中平定戦を開始するが、翌年明智光秀に信長が殺された(本能寺の変)時、松倉城攻略中で越後・上杉軍と対峙していた為、引き返すことができず、光秀討伐に間に合わなかった。清洲会議で、烏帽子親になった信長3男信孝を擁すが、羽柴秀吉らと対立。信孝、滝川一益らと共同戦線を張り、1583年近江・賤ヶ岳で秀吉と戦うが敗走、北庄城にて城を囲まれ自刃した。


新発田重家(しばた しげいえ) 1547?~1587 
○源太 治長 因幡守 五十公野氏
◇父:新発田伯耆守綱貞 兄:新発田尾張守長敦
 佐々木加地氏の裔。越後・長尾氏臣。初め五十公野氏を継ぐが、兄死後新発田氏に戻る(五十公野氏は妹婿長沢信宗が継ぐ)。智勇に優れ謙信の下活躍し、その死後は景勝を助けた。しかし、恩賞の不満から背いて織田信長に通じて争う。景勝を苦しめるが信長の死で後楯を失い、1587年ついに敗れ落城、自害した。


島 清興(しま きよおき) ????~1600 
○勝猛 友之? 昌仲 左近
◇父:島友武 子:島新吉信勝、新助友勝
 大和・筒井順慶家臣。河内・畠山義就の軍に平群谷にて攻撃を受けた際、地の利を活かして義就軍に潰滅的打撃を与え、軍師として名をあげた。伊賀の織田信孝攻めでは不覚をとり負傷している。順慶の後継筒井定次に諫言し容れられず、筒井家を退去しその後、豊臣秀長、秀保に仕えその死後、豊臣秀吉腹心石田三成より破格の1万数千石で迎えられ、世の注目を浴びた。しかし、関ヶ原の合戦では西軍三成の前衛となり、東軍黒田、細川勢に向かい、銃弾を受けて戦死したといわれる。


島 親益(しま ちかます) ????~???? 
○長宗我部氏 弥九郎 親房
◇父:長宗我部国親 子:島五郎左衛門
 土佐・長宗我部の一族。父国親が家臣島某の妻に手を出し生ませた子であったことから、島姓を名乗っていたという。武術に優れ、土佐の豪族本山氏、安芸氏攻め等で活躍した。しかし、病にかかり、療養に出かける途上阿波海部の港にて、豪族海部友光に襲われ討たれた。


島津家久(しまづ いえひさ) 1547~1587 
○又七郎 中務少輔
◇父:島津貴久 室:樺山安芸守善久女 子:島津豊久、忠仍(東郷重虎)、樺山緒左衛門、東郷九右衛門、島津清右衛門、東郷市左衛門
 薩摩・島津氏一族。軍略に優れ、各地を転戦活躍する。肥前・龍造寺氏攻略の際には大将を務め、10倍の軍勢を打ち破る。しかし、豊臣秀吉の九州征伐に降伏。秀吉の弟秀長に招かれ酒宴に出た時、急に苦しみ息絶えた。家久の武勇を怖れ毒殺されたといわれる。


島津勝久(しまづ かつひさ) 1503~1573
○宮房丸 又八郎 八郎 忠兼 義忠 左衛門尉 修理大夫 陸奥守
◇父:島津陸奥守忠昌 室:島津薩摩守忠興女、禰寝式部大輔重就女 子:島津忠良、久孝、又四郎、宗俊 養子:島津貴久
 兄二人の死により、若年にして第14代薩摩守護職を継いだ為、妻の兄薩州家島津実久を執権とする。しかし、実久は専横な振舞をするようになり、成長してきた勝久と不和になって、勝久は実久を執権から外し追い出した為、実久の攻撃を受けた。そこで勝久は相州家島津忠良を頼り、その長子貴久を養子として跡を譲るが、しばらくすると今度は実久に担がれ、守護に返り咲こうとして、忠良・貴久と不和となる。しかし家中に離反され孤立し、薩摩を身一つで逃げ出して、最期は豊後にて行き倒れ状態で亡くなったといわれる。


島津貴久(しまづ たかひさ) 1514~1571 
○虎寿丸 又三郎 伯囿 三郎左衛門尉 修理大夫 陸奥守
◇父:島津忠良 養父:島津勝久 室:入来院重聡女、肝属兼盛女、広瀬氏女 子:島津義久、義弘、歳久、家久
 薩摩・島津氏本家勝久の養子となり、本家を継ぐ。しかし、養父とは不仲となり、実父忠良と共にこれと争い勝った。その後、島津氏の勢力を伸ばして敵対する近隣の国人と争うが、大隅平定の時、急病に倒れ亡くなった。忠良と共に島津氏中興の祖とされる。


島津忠恒(しまづ ただつね) 1576~1638
○米菊丸 又八郎 家久 陸奥守 薩摩守 大隅守 左少将 参議 中納言 松平氏
◇父:島津義弘 室:島津義久女、島津忠清女、鎌田氏女、相良氏女、宮原氏女、牧氏女、崎山氏女、家村氏女、川村氏女 子:島津兵庫頭、左近衛中将光久、忠朗、北郷久直、島津忠広、町田忠尚、島津忠紀、禰寝重永、島津久雄、鎌田政勝、伊集院久国、島津忠心、伊集院久朝、伊勢貞昭、樺山久尚
 薩摩・島津義弘の三男。幼時より武を好み、父と共に朝鮮出征に参加して勇名をはせる。帰国後、主家を蔑ろにする伊集院忠棟を京都伏見にて誅し、本国にて反旗を揚げた忠棟の一族を討った。関ヶ原の戦い後、家督を継いで徳川家康に拝謁し、松平の家号を許され、諱を受けて家久と名乗る。1609年琉球へ樺山久高らを派兵、尚寧を降し管轄とした。


島津忠将(しまづ ただまさ) 1520~1561 
○又四郎 右馬頭 政久
◇父:島津忠良 室:島津相模守運久女、佐多忠成女 子:島津以久
 薩摩・島津氏一族。軍事面で活躍しその武勇は近隣に響いていたが、大隅・肝属氏との戦いにて、部将町田伊賀守の勇み足の為、挟撃を受けて戦死した。


島津忠良(しまづ ただよし) 1492~1568
○菊三郎 三郎左衛門尉 相模守 日新斎
◇父:島津善久 養父:島津運久 室:島津成久(重久)女、上木筑後守貞時女 子:島津貴久、忠将、左衛門尉尚久
 父善久は島津伊作家8代目当主久逸長子。しかし、父は早くに死に、母が島津相州家の運久に再嫁した為、相州家を継いだ。その後、嫡子貴久を本家勝久の養子として本家を継がせ、反抗する同族、豪族をまとめ上げる。その後島津氏の勢力を伸ばしていき、島津氏中興の祖と呼ばれた。


島津歳久(しまづ としひさ) 1537~1592 
○又六郎 左衛門督
◇父:島津貴久 養子:島津三郎次郎忠隣
 薩摩・島津氏の一族。豊臣秀吉の九州征伐では最後まで抗戦しようとしたが、説得され降った。しかし、豊前・平戸にて島津家臣による梅北の乱が起こった時、歳久の家臣も多く参加していたことから、歳久にも謀反の嫌疑がかかり、竜ヶ水に籠もった。しかし、敵わず自害して果て、首は京のもどり橋に晒された。


島津豊久(しまづ とよひさ) 1570~1600
○豊寿丸 又七郎 忠豊 中務少輔
◇父:島津家久 室:島津忠長女 養子:島津忠栄
 薩摩・島津氏一族。関ヶ原の戦いにおいて、敗れた西軍についた島津軍が退却する際、大将島津義弘を逃がすため殿軍を務め、現れた東軍福島正之勢に義弘を名乗って斬り込み討ち死にした。


島津久保(しまづ ひさやす) 1573~1593
○又一郎
◇父:島津義弘 室:島津義久女
 薩摩・島津義弘の2男。父と共に朝鮮出征に参加するが、陣中において病死した。日本軍の兵糧不足による栄養失調の為といわれる。21歳。


島津以久(しまづ もちひさ) 1550~1610 
○又四郎 幸久 征久 行久 右馬頭
◇父:島津忠将 室:北郷時久女、原氏女、松本氏女、岩本氏女 子:島津守右衛門彰久、入来院弾正少弼重時、島津右馬頭忠興
 薩摩・島津氏一族。各地を転戦し功をたてる。島津豊久が関ヶ原の合戦で戦死し、絶えた佐土原島津家の後を継いで佐土原藩初代藩主となる。居城、城下の整備を行い、諸士禄高に応じ「田免征矢」を納めさせる等、理財に長じていた。


島津義久(しまづ よしひさ) 1533~1611 
○虎寿丸 又三郎 忠良 義辰 龍伯 三郎左衛門尉 修理大夫
◇父:島津貴久 室:種子島時堯女(島津忠良養女)、島津忠良女
 第16代薩摩守護島津氏当主。弟義弘と協力して、豊後・大友氏、肥前・龍造寺氏ら有力大名を打ち破り九州を掌中にする。しかし、豊臣秀吉の九州征伐を受け、抗戦するも敵わず降伏し、薩摩・大隅2国と日向の一部を安堵された。関ヶ原の戦いでは、西軍につき敗戦した義弘に代わり上京、家康に謝罪している。古今伝授を受け、教養高い武将でもあった。


島津義弘(しまづ よしひろ) 1535~1619 
○又四郎 忠平 義珍 惟新斎 兵庫頭 少将 参議 羽柴薩摩侍従
◇父:島津貴久 養父:島津尾張守忠親 室:北郷忠孝女、広瀬助宗養女(園田清左衛門女) 子:島津鶴寿丸、久保、忠恒、万千代丸、忠清
 薩摩・島津氏一族。当主の兄義久を助け、各地を転戦武名を轟かせた。その武名を知る、日向・伊東氏との戦いに苦戦する豊州家島津忠親に請われ養子となり、その戦いを助け日向攻略に貢献する。豊臣秀吉の朝鮮出征の際には、泗川の戦いにおいて10倍以上の朝鮮軍を敗り、“鬼石蔓津”と怖れられた。関ヶ原の戦いではやむなく西軍につくが、大勢が決するや敵中突破退却した。家中の信望厚く義弘が亡くなった際は、木脇祐秀、折田和泉ら13名が後を追い禁制の殉死を遂げている。


清水宗治(しみず むねはる) 1537~1582 
○長左衛門尉
◇室:石川久孝女 子:清水宗之(行宗?)、景治
 備中・高松城主となり、安芸・毛利氏傘下の武将となる。尾張・織田氏の部将羽柴秀吉に攻められたとき、3万の兵に囲まれ籠城するが、水攻めに遭う。毛利の援軍は中々近づけず、高松城は堅く容易に落ちなかったものの、脱出は不可能であった。戦線は膠着し、本能寺の変が発生したこともあって講和が成ったが、その条件として宗治は城から小舟に乗って出、潔く自刃した。


清水康英(しみず やすひで) ????~1591
○康実 太郎左衛門尉 上野介
◇子:清水正次
 相模・北条氏の評定衆として軍務内政に参画。伊豆衆筆頭。豊臣秀吉の小田原征伐を前に、伊豆・下田城主となる。しかし、長宗我部元親、脇坂安治の大水軍の攻撃を受けて、籠城戦の末開城。小田原落城の翌年死去。


新庄直頼(しんじょう なおより) 1538~1612
○新三郎 駿河守
◇父:新庄直昌 室:佐久間盛重女?前田利太女? 弟:新庄直房(直忠?) 子:新庄越前守直定、堀因幡守秀信
 北近江・浅井氏臣。藤原秀郷流と称す。姉川の合戦では第4陣を任せられ参加している。その後、織田信長、豊臣秀吉に仕え、摂津・高槻城3万石を得るが、関ヶ原の戦いでは西軍についた為、所領を没収される。会津・蒲生氏預かりの身となるが、その後許され、常陸・麻生藩初代藩主となった。


進藤賢盛(しんどう かたもり) ????~????
○小太郎 秀盛? 山城守
◇父:進藤盛高?
 南近江・六角氏の二大家老として、後藤氏と並んで“両藤”と呼ばれた実力者。幕府との渉外等を担当するが、1563年当主六角義治は、日頃から煙たく思っていた両藤の1人、後藤賢豊を謀殺したため、これに怒って他の家臣と共に観音寺城外へ退去するという“観音寺騒動”を起こした。後に六角氏と和するが、1568年尾張・織田信長が侵攻してくると、六角氏を見限って信長に臣従し、佐久間信盛の与力となる。信盛が追放後は、信長の旗本として伊賀攻め等に参加。本能寺の変後は織田信雄に仕えたという。


上条政繁(じょうじょう まさしげ) ????~1625?
○畠山氏 弥五郎 義春 入庵 織部 山城守
◇父:畠山義続 室:長尾政景女 子:畠山弥五郎景広、上杉源四郎長員、畠山下総守義真、小山田源兵衛義広
 能登守護畠山義続2男。19歳で越後・上杉謙信の下に人質として赴くが、やがて上条上杉氏を継いで一門衆として重きをなす。上野等中心に転戦活躍した。謙信死後は景勝を助けて働くが、信濃統治を巡り意見が対立、出奔する。関ヶ原の合戦では東軍に属し参加。後に上杉氏に帰参し、畠山姓に戻っている。


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