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太原崇孚(たいげん すうふ) 1496~1555 
○庵原氏 雪斎
◇父:庵原左衛門尉
 駿河・今川氏重臣。禅僧で駿河・臨済寺開祖。太原は字。今川義元の教育係を務め、その家督相続(花倉の乱)に貢献する。義元が当主となってからは軍師として諸戦に活躍、1548年小豆坂の戦いでは義元の将として尾張・織田信秀を敗り、捕まっていた松平元康を助けた。また、外交面にも力を発揮、武田、北条との甲相駿三国同盟“善徳寺の会盟”を成立させる。義元の片腕としてその繁栄を支えるが、60歳で没。以後今川氏も衰勢の一途をたどるが、雪斎が存命なら桶狭間の敗北はなかったとも…。


高橋興光(たかはし おきみつ) ????~1529 
○大九郎
◇父:高橋久光
 石見・藤掛城主。南北朝期、師光が北朝の高師泰に従い出雲・佐和顕連攻めの功にてその所領を得、祖父清光の時から出雲・尼子氏に仕える。父戦死後、その後を継ぐ。戦略には長けていたが、家政に疎く家中の離反を招き、従兄弟高橋盛光に討たれた。


高橋紹運(たかはし じょううん) 1548~1586 
○吉弘氏 弥七郎 鎮理 鎮種 主膳兵衛尉
◇父:吉弘鑑理 室:斎藤長実女 子:高橋統虎(立花宗茂)、民部少輔統増(直次)
 豊後・大友氏家臣。吉弘鑑理二男であるが、謀反を起こし跡絶えた高橋鑑種の跡を継ぎ筑前・宝満城に入る。1585年、侵攻する薩摩・島津軍5万余に支城岩屋城にて囲まれるが、寡兵7百余にてよく守り降伏にも応じなかった。しかし翌年、ついに残余の将兵50余名と共に、城内にて自刃して果てた。


高橋統虎(たかはし むねとら) 1569(1567?)~1642→立花宗茂


田北鑑重(たきた あきしげ) ????~1580
○勘解由左衛門尉 鑑富 紹鉄 大和守
◇父:田北親員 養父、兄:田北鑑生 養子:田北鎮周
 豊後・大友氏庶流の一族。日向・耳川の敗戦後、大友氏に反旗を返すが、筑前に逃亡中に戦死した。禅宗を信仰する田北氏が、キリスト教を擁護する大友氏に反発した為といわれる。


田北鑑生(たきた あきなり) ????~1561
○大和守
◇父:田北親員 養子:田北鑑重
 豊後・大友氏庶流の一族であり、加判衆も務めている。大友氏の筑前侵攻に大いに貢献し、秋月文種を討ち取る等多くの武功を挙げている。


田北鎮周(たきた しげかね) ????~1578
○弥十郎 相模守 刑部少輔
◇父:田北親員 養父、兄:田北鑑重 養子:田北(吉弘)統員
 豊後・大友氏庶流の一族であり、加判衆も務める。日向・耳川の合戦において渡河侵攻による積極論を主張したが、慎重派と意見が対立、意見がまとまらぬまま、なし崩しに戦端が開き戦死した。


滝野吉政(たきの よしまさ) ????~1602
○十郎
◇子:滝野亀之助
 清和源氏流。伊賀・柏原城を本拠とする豪族。1581年、第2次天正伊賀の乱に際しては総大将を務めて、織田信長の大軍を迎え撃つが、衆寡敵せず、降伏した。


武田勝頼(たけだ かつより) 1546~1582 
○四郎 諏訪氏 伊那氏
◇父:武田信玄 室:織田信長養女(遠山氏女)、北条氏康女 子:武田信勝、勝親(勝三)
 甲斐・武田氏一族。母の実家諏訪氏を継ぎ、信濃・高遠城主となる。兄義信の死により、子信勝が武田氏宗主となり、勝頼は"陣代"として実質的後継者となる。父死後家督を継承、1574年父も陥とせなかった駿河・高天神城を陥とす。1575年長篠にて家臣の反対を押し切って決戦、織田、徳川連合軍に大敗した。1578年越後上杉氏の後継問題に介入、上杉景勝を押したことから、上杉景虎を支援する相模・北条氏と対立した。駿河・高天神城陥落で家中の信望を完全に失い、木曽氏、穴山氏などに離反される。侵攻してきた織田、徳川軍を防ぎきれず、甲斐・天目山で一族と共に自害。


武田信方(たけだ のぶかた) ????~1585?
○彦五郎
◇父:武田義豊
 若狭守護・武田氏一族。内紛が続く家中において、叔父信高が討死した跡を継ぐ。若狭・新保山城を拠点に勢力を伸ばし、兄義統に叛旗を翻そうとする程であった。1567年義統に替わって足利義昭からの上洛要請を受けるも、これを拒否。1570年織田信長の越前攻めに際しては、若狭で反信長勢力を結集して最後まで抵抗したが、1573年越前朝倉氏滅亡後、若狭に入部した丹羽長秀によって逐われた。後に甲斐武田氏を頼り、その滅亡時に生け捕られて殺害されたともいわれる。


武田信勝(たけだ のぶかつ) 1567~1582
○太郎
◇父:武田勝頼
 甲斐・武田氏一族。武田氏の当主として主立った働きをする前に、武田氏は天目山で滅亡、父と運命を共にした。


武田信廉(たけだ のぶかど) ????~1582 
○孫六 信連 信綱 逍遙軒 刑部少輔
◇父:武田信虎 子:武田信澄
 甲斐・武田氏一族。兄信玄を助け、主にその本陣守衛の任を担う。容貌が信玄に酷似していた為、その影武者を務めたといわれた。また、文化人として優れた面を見せ、多くの絵画、彫刻が残っている。長篠の合戦にも参加するが、最期は武田氏滅亡後に捕らえられて斬首された。



武田信豊(たけだ のぶとよ) 1514~???? 
○彦二郎 紹真 伊豆守 治部少輔
◇父:武田元光 室:六角定頼女 子:武田義統、元康、信方
 父に譲られ若狭守護・武田氏当主となる。1542年細川晴元に与し、河内・太平寺に三好長慶を攻めるが、武田軍の中心であった粟屋党を多数敗死させてしまう。1552年近江から旧臣粟屋右馬允らが攻め込むが、子信方を派遣してこれを撃退。1552年家督を子義統に譲るが、これと不和になる。一時近江に逐われ、1558年再入国を果たすべく、義統と戦うが叶わなかった。やがて義統と和して帰国している。祖父、父同様文芸に熱心であった。


武田信豊(たけだ のぶとよ) ????~1582
○長老 六郎次郎 左馬助 相模守
◇父:武田信繁 室:武田勝頼女 子:武田雅楽
 甲斐・武田氏一族。父子でともに典厩と呼ばれたので、後世各々を古典厩、後典厩と呼ぶ。父戦死後家督を相続、信濃小諸城を守る。長篠の合戦においては、当主勝頼を見捨て先に退却したことから、切腹させられそうになるが許される。尾張・織田氏の甲斐侵攻に際して死去。城代の下曽根覚雲斎に謀殺されたとも、武田氏滅亡の報に接して自害したともいわれる。


武田晴信(たけだ はるのぶ) 1521~1573 
○勝千代? 太郎 信玄 信濃守 左京大夫 大膳大夫
◇父:武田信虎 室:上杉朝興女、三条公頼女、諏訪頼重女、油川信友女、根津元直女 子:武田義信、海野信親、西保信之、武田勝頼、仁科盛信、葛山六郎信貞、安田三郎信清
 不和であった父を駿河に追放して甲斐・武田氏19代当主となる。信玄の名が有名。苦戦しながらも信濃諸豪族を攻略していくが、これを援ける越後・上杉謙信とは川中島にて5度戦い、容易に決着は付かなかった。又、内政面でも手腕を発揮し、分国法「甲州法度之次第」制定、信玄堤を築く等の実績を残す。相模・北条氏、駿河・今川氏とは三国同盟を結んでいたが、今川氏斜陽をみてこれを破棄、駿河に侵攻した。しかし、今川氏室を持つ嫡子義信がこれに反発、謀反を企てたことから幽閉して死なせている。駿河制圧後は京にも目を向けて、やがて大軍を率い西上の途につく。尾張・織田、三河・徳川連合軍を三方ヶ原に撃破する等順調に見えたが、その後発病、信濃まで引き返して53歳で没す。


武田光和(たけだ みつかず) 1502~1534
○太郎 光貞 刑部少輔
◇父:武田元繁 室:吉川元経女、熊谷信直女 養子:武田信実
 安芸守護・武田氏当主。周防・大内氏の下去就を再三している。安芸・毛利氏と争うが若くして病死。


武田元明(たけだ もとあき) 1552~1583
○孫八郎 元次
◇父:武田義統 室:三淵伊賀守晴員女、京極高佳女 子:木下勝俊、利房?
 父義統没後、若狭守護・武田氏当主となるが、すでに実権は有力重臣に握られ、家中の統制はとれなかった。1568年越前・朝倉氏に侵攻され、抵抗するが敗北。戦後殺されず、越前に幽閉された。1573年朝倉氏が尾張・織田信長により滅ぶと、若狭に帰国したといわれるが、朝倉に与したとして殺害されそうになり、旧臣粟屋氏らの嘆願により助命される。若狭を領する丹羽長秀の一武将として、後に3千石を与えられた。本能寺の変で信長が家臣明智光秀に殺された時、光秀に加担して、丹羽長秀の佐和山城を攻め落とした為、光秀滅亡後、呼び出されて切腹を強いられた。


武田元繁(たけだ もとしげ) ????~1517
○元重 刑部少輔
◇父:武田元綱 室:義興養女 子:武田光和、伴繁清
 安芸守護・武田氏当主。周防・大内氏の勢力に押され、その下に従う。安芸・小倉山城の吉川氏を攻めた時、これを援ける安芸・毛利氏との間で有田合戦が起こり、数で優位に立っていたが、不意に流れ矢に当たり戦死したという。


武田元信(たけだ もとのぶ) 1455~1521 
○彦次郎 紹壮 伊豆守 治部少輔 大膳大夫
◇父:武田国信 子:武田元光、信孝
 若狭守護・武田氏。父没後、家督継承。1491年将軍義材の近江出征に従軍。その後の管領・細川政元と与し、将軍義材を廃嫡する(明応の政変)。幕府や管領細川氏の信厚く、若狭武田氏最盛期を築いた。しかし、幕府近侍して出兵が重なった為、領国経営は苦しく、1502年若狭で土一揆が起こり、一族が討たれている。この不満の解消すべく、1506年丹後・一色義有の攻略にかかるが、戦いは長期化し、政元らの援軍を得るもこれを達せなかった。1517年今度は丹後・一色軍が若狭に侵攻するが、越前・朝倉氏の支援を得て、逆に丹後の一部を攻略に成功した。騎射等に優れて「武家故実」を作成する一方、文芸面でも大いに活躍し、歌道、歌舞、猿楽、古典籍等多芸に秀で、当代一流の文化人とも交流深かった。


武田元光(たけだ もとみつ) 1493~1551 
○彦次郞 元言 伊豆守 大膳大夫
◇父:武田元信 子:武田信親、信豊、信実、信高
 父が出家したことから家督継承、若狭守護・武田氏当主となるが、丹後・一色氏との抗争、重臣間の内紛等難題を抱えていた。細川高国の援けて出兵し、1527年京・西七条において三好勝長、柳本賢治らの軍勢を迎撃するが、激戦の末大敗し、高国と共に将軍義晴を奉じて近江へ落ちた。この敗北により領国経営が不安定となり、海岸線を丹後の海賊衆に襲撃されるが、何とかこれを撃退した。また、重臣粟屋元隆が離反し、1538年これと争う等内紛が絶えず、弟信孝を擁する一派が越前から若狭へ侵攻しようとした時、幕府を通して越前・朝倉氏にその制止を要請、これを断念させている。父同様、和歌等芸術面に優れていたという。


武田義統(たけだ よしずみ?) 1526~1567
○彦ニ郎 義元?信統? 治部少輔 伊豆守 大膳大夫
◇父:武田信豊 室:足利義晴女 子:武田元明、義頼
 家督相続で父信豊と争うが、信豊を支持する叔父信高が没すると、信豊は隠居し、若狭守護・武田氏当主となる。1558年再び揉め、信豊は近江・六角氏を頼って出国し、態勢を整え若狭に攻め込まれ、後にこれと和する。1561年重臣栗屋勝久、逸見昌経らの反乱が起き、越前・朝倉氏の支援を得て一時的に撃退するものの、粟屋氏は事実上独立し、逸見氏は1566年義統の子元明を擁立して叛乱を起こし、再び父子の争いとなった。これに対しても再び朝倉氏の援軍を得て、逸見氏を撃破する。この時足利義昭が若狭に頼ってくるが、武田氏の内紛を見て入洛を断念し、朝倉氏の下へ赴いている。


武田義信(たけだ よしのぶ) 1538~1567 
○太郎
◇父:武田信玄 室:今川義元女
 甲斐・武田信玄嫡男。信濃・知久氏攻めで初陣を飾る。妻の実家、駿河・今川氏の弱体化と共に、今川氏を攻略して南進を図る父と対立する。1565年叛意を問われ幽閉され、後に自害した。尚、信玄は翌年より駿河侵攻を開始する。


竹中重門(たけなか しげかど) 1573~1631 
○丹後守
◇父:竹中重治
 羽柴秀吉の下、12歳で、小牧の戦いに参加。1592年文禄の役では肥前・名護屋駐屯。関ヶ原の合戦では、はじめ西軍に属していたものの、後に東軍に加わって、西軍の将小西行長を捕らえる働きを見せた。林羅山に和漢を学び、文芸にも優れていた。著書に秀吉の一代記「豊鑑」がある。


竹中重治(たけなか しげはる) 1544~1579 
○半兵衛尉 重虎
◇父:竹中遠江守重元 室:安藤守就女 弟:竹中久作重矩、与右衛門、彦八郎 子:竹中重門、重次、重利
 美濃・斎藤氏に仕える。当主龍興を諫めるため、わずかな手勢を率いて稲葉山城を乗っ取ったことからその名をあげた。その後城は龍興に返還し、近江・浅井氏に仕えた。その後尾張・織田氏の美濃平定に際してその家臣となり、羽柴秀吉に仕える。そして、近江攻め、長篠合戦などで軍師として、功をあげた。しかし、播磨・三木氏攻略中、陣中にて若くして病死した。秀吉はその死を惜しみ、深く嘆いたといわれる。


竹俣慶綱(たけのまた よしつな) 1524~1582 
○太郎 右兵衛尉 三河守
◇父:竹俣為綱 子:竹俣勝綱
 越後・長尾氏臣。1561年の川中島の合戦では、乗馬武具を失いながら奮戦し賞されている。越中・魚津城において山本寺孝長ら12将と共に織田信長の軍と戦い討死。


多田満頼(ただ みつより) ????~1563 
○三八郎 昌澄 昌利 淡路守
◇子:多田新八郎、三八郎満俊、三吉
 美濃の出。甲斐・武田氏臣。地獄の妖婆"火車鬼"を退治した逸話を持つ勇者。特に夜襲戦に定評があった。1563年病死。


立原久綱(たちはら ひさつな) 1531~1613 
○源太兵衛
◇父:立原備前守幸綱 兄:立原幸隆 子:立原充忠
 出雲・尼子氏臣。尼子氏が安芸・毛利氏に降伏すると、毛利氏の仕官を蹴って上洛。尼子氏の一族勝久を甥山中幸盛らと擁立し、主家再興の為、織田信長の援助を受けて、毛利氏と戦う。播磨・上月城籠城には反対するが、結局共に籠もって敗れ、吉川元春に捕られたが脱走。後に阿波の蜂須賀氏の下の女婿福屋高兼を頼った。


立花鑑載(たちばな あきとし) ????~1568
○弥十郎 山城守
 豊後・大友貞載の末流で“西大友”と呼ばれた。筑前・立花城主。1565年大友本家に謀反を起こすが、吉弘鑑理らに攻められ追放された。しかし後に許され戻るが、安芸・毛利氏、高橋鑑種の誘いで再び謀反した。この時は戸次鑑連に攻められ敗北、逃走したが殺された。


立花道雪(たちばな どうせつ) 1513~1585 
○戸次氏 八幡丸 孫次郎 鑑連 伯耆守 左衛門大夫
◇父:戸次親家 室:入田丹後守女、問注所統景女、宗像氏貞女 養子:戸次鎮連、立花宗茂(高橋統虎)
 豊後・大友氏臣。若い頃、落雷による負傷で下半身不随となり、合戦では家臣に駕籠を担がせて指揮を執った。生涯のほとんどを戦場で過ごし、多々良川の戦いにおいては数に勝る安芸・毛利軍を撃退し武名をあげる。大友一門の筑前・立花鑑載が安芸・毛利氏に通じて裏切った時、これを討ち後に立花氏を継ぐこととなった。しかし男子に恵まれず、一時は一人娘を男装させ立花城主としたが、やがて高橋統虎を婿に迎えて後嗣として厳しく育て上げた。筑前・秋月種実の柳川城攻略を前にして73歳で亡くなった。


立花宗茂(たちばな むねしげ) 1569(1567?)~1642 
○高橋氏 千熊丸 弥七郎 統虎 鎮虎 宗虎 正成 親成 尚政 俊正 経正 信正 立斎 左近将監 飛騨守 羽柴侍従
◇父:高橋紹運 養父:立花道雪 室:立花道雪女、矢嶋秀行女、葉原頼宣女 養子:立花(高橋)忠茂
 豊後・大友氏臣。立花道雪の婿養子となって立花城に入り、厳しい教育を受ける。羽柴秀吉の九州征伐後、羽柴の姓を与えられ大友氏から独立、、筑後柳川13万2千石に封ぜられた。朝鮮出征に活躍し、加藤清正を救う等して武名を高める。関ヶ原の戦いでは西軍につき、西軍敗走後、居城に籠もるが降伏し改易される。しかし、宗茂の人柄を惜しむ声が多く、3年後に奥州棚倉1万石に返り咲き、大坂の陣で戦功をあげ、旧領柳河11万9千石を回復する。島原の乱では有馬城を攻略した。


立石正賀(たていし まさよし) 1565~????
○助兵衛
◇父:立石右京進
 土佐・一条氏臣、後に土佐・長宗我部氏に仕える。伊予攻めに功があった。関ヶ原の戦いでは降伏の使者を務めた。


田中吉政(たなか よしまさ) 1548?~1609 
○宇竹 久次 久兵衛 宗政 長政 パルトロメヨ 兵部大輔 侍従 筑後守
◇父:田中重政 子:田中民部少輔吉次、主膳則政、又兵衛康政、隼人忠政
 近江・浅井氏臣。宮部継潤の下で働き、やがて、羽柴秀吉に仕える。関ヶ原の合戦では東軍に属して、戦後石田三成を捕らえた功で、筑後・柳川城主32万石を得た。領内のキリスト教を保護し、自らも帰依した。


谷 忠澄(たに ただずみ) 1533~1600 
○忠兵衛
◇弟:滝本寺非有 子:谷彦十郎、加兵衛
 元は土佐一宮神社神官だったが、武略、外交等の才知を買われ、土佐・長宗我部元親の家老となる。羽柴秀吉との戦いでは、いち早く秀吉の強さを認め、元親を諫めて和議を勧めた。1586年戸次川合戦従軍、この際、土佐兵戦死者を弔って石塔婆を建立している。幡多郡中村城代となり、そこで没した。


谷 衛好(たに もりよし) 1529~1578 
○福田氏 小太郎 大膳亮
◇父:福田六兵衛尉正之 養父:谷衛之 子:谷孫一郎、出羽守衛友
 美濃の出であるが、近江・浅井亮政傘下の豪族谷衛之の養子に入る。養父戦死後、その跡を継ぐが、後に美濃に戻り斎藤氏に仕えた。斎藤氏滅亡後は、尾張・織田氏臣羽柴秀吉に従い、1576年大坂本願寺との石山合戦等で戦功を挙げ、播磨・平田に6千石を得た。播磨・三木城別所氏攻略の際、籠城する別所氏の糧道を断っていたところ、夜襲を受けて奮戦するも衆寡敵せず戦死した。衛好は、試刀術の達人で、子衛友に“谷流”奥義を伝えたという。


為松若狭守(ためまつ わかさのかみ) ????~????
 土佐・一条氏家老。遊興に耽る当主兼定を他の家臣と共に豊後へ追放するが、その後専横な振る舞いが目立ち、これに反発した国人衆に討たれた。


田屋明政(たや あきまさ) ????~????
○新三郎 石見守 浅井氏
◇父:田屋清政? 養父:浅井亮政 室:浅井亮政女 養子:田屋(田尾)政高
 近江・高島の土豪田屋氏の出。近江・浅井氏当主亮政の養子となるが、実子久政誕生に伴い田屋氏に戻る。亮政の死によって、義弟久政と対立し、近江北半国の守護・京極氏の支援を受けるが、近江南半国の守護・六角氏と盟した久政に敗れた。次女は浅井長政女・茶々らの乳母を務めた饗庭局。


田原親賢(たわら ちかかた) ????~1600 
○奈多氏 紹忍 尾張守 近江守 民部大輔
◇父:奈多鑑基 養父:田原近江守親資 養子:田原(柳原)親虎、(大友)親盛
 妹が豊後・大友義鎮室であったことから重用され、加判衆も務める。豊後・武蔵田原氏の養子となって本家田原氏をも凌ぐ力を振るった。豊前方面の支配に貢献し、安芸・毛利氏侵攻にも多々良川の合戦等に参加、毛利氏を破っている。日向・耳川の合戦においては養子親盛と共に総大将格として参加するが、諸将をまとめきれず惨敗、引責して所領を失った。その後隠居したが、後に、豊後に入封した中川秀成に大禄で仕える。関ヶ原の戦いでは、西軍に付いて敗れた大友義統を降伏させ、自身は東軍としての旗幟を明らかにする為、豊後・臼杵城の太田飛騨守一吉を寡兵にて攻め、戦死した。


田原親貫(たわら ちかつら) ????~1580
○長野氏 右馬頭
◇養父:田原常陸介親宏 室:田原親宏女 養子:田原(大友)親家
 元は豊前・長野氏の出。豊後・大友氏庶流田原氏本家。日向・耳川の敗戦の翌年、田北鑑重らと謀り反旗を挙げる。しかし、養子の親家らに攻められて敗北した。


大道寺直次(だいどうじ なおつぐ) 1571~1651
○内蔵助 遠山長右衛門
◇父:大道寺政繁 養子:大道寺直数
 相模・北条氏重臣にて大道寺政繁4男。1590年豊臣秀吉の小田原征伐参陣。北条氏没落後は遠山長右衛門と改名し、黒田長政、豊臣秀次に仕える。秀次死後は福島正則に属し、関ヶ原の合戦にも参加。正則改易後は徳川家光に召される。以後大道寺氏に復姓した。


大道寺政繁(だいどうじ まさしげ) 1533~1590 
○孫九郎 政重 駿河守
◇父:大道寺蔵人盛昌 子:大道寺直繁、直重、弁誉、直次、直英
 大道寺氏は相模・後北条氏創始以来の功臣の家柄「御由緒家」6家の一つで、早雲の甥大道寺盛昌の孫。河越衆筆頭。金融商人次原氏の起用で、川越城下の経営に辣腕を振るった。また、各地の戦いで先陣を務め功を重ねる。豊臣秀吉の小田原征伐の際は上野・松井田城主を守ったが、大軍に攻略されて降伏。以後道案内を務めて武蔵・忍城攻めに参加した。これが秀吉の気に障り、切腹させられる。


伊達実元(だて さねもと) 1527~1587 
○時宗丸 藤五郎 直元 棲安斎 雄山 兵部大輔
◇父:伊達稙宗 室:伊達晴宗女 子:伊達成実
 出羽・伊達氏一族。陸奥・大森城主。越後守護・上杉定実に入嗣する予定であったが、直前に兄晴宗に妨げられ、父稙宗を幽閉される“天文の大乱”が勃発した。この時父稙宗側に属して戦ったが、結果的に晴宗側が勝ち、上杉氏入嗣の話も消える。1574年二本松義継の陸奥・八丁目城を攻略し、その城主となった。1584年子成実に家督を譲り隠居するが、以後も伊達氏の重鎮として、外交等に大いに活躍した。


伊達成実(だて しげざね) 1568~1646 
○時宗丸 藤五郎 兵部 安房守
◇父:伊達実元 室:亘理重宗女、二階堂盛義女 子:伊達小僧丸 養子:伊達宗実
 出羽・伊達氏一族。亘理城主。1585年人取橋合戦、1588年郡山合戦、1589年摺上原合戦等、歴戦に活躍する。“決して後退りしない”の意を示す百足の前立が付いた兜を愛用し、自ら“勇武無双”と称した。朝鮮出兵にも従軍。しかし帰国後の1593年、当主政宗との確執により、出奔して高野山に入り、抵抗した角田城は政宗に落とされた。越後・上杉氏に招かれるがこれを固辞し、後に片倉景綱、留守政景らの説得により帰参する。再び政宗に忠誠を誓い、晩年、政宗の一代を記録した「成実記」を著す。


伊達稙宗(だて たねむね) 1488~1565 
○次郎 受天 左京太夫 陸奥守護
◇父:伊達大膳大夫尚宗 室:芦名盛高女、下館氏女、中館氏女、亘理兵庫頭宗隆女、中条定資女? 子:伊達晴宗大崎義宣伊達実元、玄蕃丸、宗澄、桑折四郎、葛西晴清梁川宗清村田宗殖、清三郎(宗栄)、亘理綱宗、元宗、大有康甫、伊達七郎
 陸奥・伊達氏第14代当主。陸奥・梁川城主。「棟役日記」「段銭古帳」を作成して徴税の体系化等、内政に尽力すると共に、分国法「塵芥集」を制定し、戦国大名としての権力確立を図る。また、子の多くを近隣諸家に入嗣、入嫁させ、奥州における伊達氏の地位を築くが、子実元を越後・上杉氏に入嗣させようとして、これに反対する嫡男晴宗と対立する。急進的な稙宗の政策に反発した国人衆は、晴宗に味方し、全奥州を巻き込む大乱(天文の大乱)に発展する。この乱に敗れて丸森に隠退し、同地で没した。


伊達輝宗(だて てるむね) 1544~1585
○彦太郎 総次郎 受心 左京大夫
◇父:伊達晴宗 室:最上義守女 子:伊達政宗、小次郎(政道?)、鶴若(秀雄)
 出羽・伊達氏第16代家当主。父同様、血縁関係により近隣諸家と友好関係を結ぶ。1584年、子政宗が18歳の時に家督を譲り、若くして隠居し、舘山城に移る。しかし翌年、講和を持ちかけてきた二本松城主・二本松義継に拉致され人質となり、二本松城までの途に高田ケ原において、これを追跡して来た伊達勢により、義継と共に死を遂げた。


伊達晴宗(だて はるむね) 1519~1577
○次郎 道祐 左京大夫 奥州探題
◇父:伊達稙宗 室:岩城重隆女 子:岩城親隆伊達輝宗留守政景石川昭光国分盛重、杉目宮内直宗
 出羽・伊達氏第15代当主。弟実元の越後・上杉氏入嗣に反対して父稙宗を幽閉(天文の大乱)。後、居城を米沢に移し、父同様子女を近隣諸家に入嗣、入嫁させて勢力拡大に努める。しかし、乱後に重用した中野宗時の専横を招いて、子輝宗との対立した。後に杉目城へ隠退し、同地で没する。


伊達政宗(だて まさむね) 1567~1636 
○梵天丸 藤次郎 美作守 越前守 陸奥守 左京大夫 侍従 右近衛権少将 参議 中納言
◇父:伊達輝宗 室:田村清顕女、飯坂宗康女、塙団右衛門女、柴田宗義女、芝多常弘女、多田吉廣女、村上内膳正重女、高田次郎右衛門女? 子:伊達秀宗、陸奥守忠宗、飯坂宗清、亘理宗根?、伊達三河守宗泰、宗綱、宗信、右衛門尉宗高、松竹丸、宗実、兵部大輔宗勝
 出羽・伊達氏第17代当主。米沢城主。幼少期痘痕で片目を失明している。1584年若干18歳にて家督を継ぐが、翌年二本松義継により父輝宗を拉致され、これを失う。その後勢力を拡大して、1589年には会津・蘆名氏を摺上原合戦で破り、近隣諸家を尽く勢力下に置いた。しかし、羽柴秀吉の小田原征伐に際してこれに参陣し、会津等所領の大半を失う。秀吉死後は、徳川家康に接近し、関ヶ原合戦では越後・上杉氏と戦うが、一方で一揆を扇動した疑いを掛けられ、詰問されている。


伊達宗実(だて むねざね) 1613~1665
○喝食丸 治部大輔 安房守
◇父:伊達政宗 養父:伊達成実 室:白川右京義実女 子:伊達宗成
 出羽・伊達氏一族。亘理要害館主。1639年一族の重鎮成実の養子となる。大力で、水練、銃術に優れると共に、和歌を能くして文武に秀でる。また、不祥事にて家臣の切腹を当主忠宗から命じられた時、最後まで庇っている。


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