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津軽建広(つがる たけひろ) ????~????
○大河内氏 左馬助
◇室:津軽為信女 子:津軽建次、建義
 藤原氏流と称す。相模・小田原の医者の子で相模・北条氏臣であったが、後に浪人した。その後陸奥・津軽氏に仕えて為信に気に入られ、その三女を娶って津軽氏に改姓する。為信死後、その嫡孫熊千代と三男信建の間で家督争いが起こるが、建広は熊千代派の先頭であった。しかし、徳川幕府の裁定は信枚相続に決定し、建広らは叛逆の罪に問われて、津軽から追放、江戸に上った。


津軽為信(つがる ためのぶ) 1550~1607 
○大浦氏?久慈氏? 扇 弥四郎 右京大夫
◇父:大浦守信?久慈治義? 養父:大浦為則? 室:大浦為則女? 子:津軽信建、信堅、信枚 養子:津軽建広
 元陸奥・南部氏臣。南部氏一族の内紛を突いて津軽郡代石川氏、浪岡御所北畠氏らを攻略して、津軽一円を掌握、南部氏から独立して以後南部氏、安東氏らと争った。一方中央と早くから繋がりを持って家臣を派遣する等して、豊臣秀吉の小田原征伐の時には、少数の供でいち早く謁見、津軽所領安堵を得て南部氏を扼腕させた。関ヶ原の合戦では、西軍に嫡子信建を参加させて自らは東軍に味方し、家名を存続させた。一方で民政にも手腕を見せ、産業開発に力を注いでいる。58歳京で没。


津軽信建(つがる のぶたけ) 1574~1607
○平太郎 宮内
◇父:津軽為信 室:松前慶広女(喜庭直信室)、秋田実季女? 子:津軽熊千代、弁千代
 陸奥・津軽為信嫡長男。烏帽子親は石田三成。関ヶ原の合戦では、東軍についた父の指示で西軍に付いた。敗戦後は蟄居するが、やがて病死する。


津軽信枚(つがる のぶひら) 1586~1631 
○平蔵 越中守
◇父:津軽為信 室:徳川家康養女(松平康元女)、石田三成女 子:津軽信義、信英
 陸奥・津軽為信三男。父の死後、長兄の遺児熊千代との間で家督争いが生じるが、為信の遺言、幕府との繋がりから当主の座についた。弘前城に移して城下の整備を行い、商業振興、灌漑整備等に力を注いで、国力の増強に努めた。46歳で没。


土屋昌次(つちや まさつぐ) ????~1575 
○金丸氏 平八郎 晴綱 直村 信親 右衛門尉
◇父:金丸筑前守虎義 弟:秋山左衛門佐景詮、金丸昌義、土屋惣蔵昌恒、正猶、秋山景氏
 元は甲斐の旧族金丸氏。土屋氏は平氏流。川中島の激戦が初陣で、当主武田信玄の側を離れず守り、激賞される。やがて、信遠が戦死して以降絶えていた土屋氏を継いだ。三方ヶ原の戦いでは三河・松平氏の勇将鳥居信元(忠元か)を一騎打ちで討ち取り勇名を馳せた。信玄が病死した時には殉死を願い出るが、説得されて留まった。長篠合戦においては尾張・織田氏臣滝川勢を撃破するが、馬止めの柵に阻まれ、柵上に登ったところを鉄砲隊の射撃を受けて華々しく散った。31歳。


筒井順慶(つつい じゅんけい) 1549~1584 
○藤勝丸 藤政 陽舜房 権少僧都
◇父:筒井順昭 室:摂家九条氏養女、斎藤秀龍(道三)女 養子:筒井(明智)十次郎定頼、定次、主殿頭定慶、紀伊守慶之、藤六郎重政
 大和守護代筒井氏に生まれるが、父順昭を3歳にて失う。この時、順昭と声の似た木阿弥という琵琶弾き僧を、順昭に仕立て喪を秘し、“元の木阿弥”との語が生まれたともいわれる。越智氏ら反筒井勢力の国衆と戦い、また、大和に侵攻してきた三好長慶重臣松永久秀と争うが、やがて上洛してきた織田信長に臣従する。その重臣明智光秀に仕え各地を転戦するが、光秀は信長を討ち独立。光秀は同じ信長重臣羽柴秀吉と争い、恩顧をかけていた順慶に協力を求めるが、順慶はこれを断り、光秀は山崎の合戦で敗れた。この時順慶は、洞ヶ峠において戦局を傍観、秀吉勝利と見るや、直ちに峠を下り秀吉に味方したことから、日和見の代名詞”洞ヶ峠をきめこむ”の語を生むが、実際には、順慶は洞ヶ峠には出陣していない。その後、秀吉配下となるが、36歳の若さで肺結核で亡くなった。謡曲、茶湯に優れ教養高い武将であった。


筒井順昭(つつい じゅんしょう) 1523~1550
○藤松 栄舜房
◇父:筒井順興 室:山田順貞妹 子:筒井順吉、順慶、城之介
 大和守護代である大和・興福寺僧兵筒井氏当主。対立する越智氏等の国衆を押さえ台頭していく。1549年隠居して比叡山に入り、翌年亡くなった。


筒井定次(つつい ていじ) 1562~1615 
○小泉氏 藤松 四郎 藤四郎 伊賀守 羽柴氏
◇父:筒井順国 養父:筒井順慶 室:織田信長女 子:筒井宮内少輔順定、春次
 大和郡山城主筒井順慶に子がなかった為、その養子となり跡を継ぐが、羽柴秀吉に伊賀上野城に転封された。関ヶ原の戦いでは東軍徳川家康方に属したが、その後、豊臣秀頼の臣大野治長、古田織部らと交誼を続け、また、秀頼に年賀の礼をとるなどしていた。その為、これを苦々しく思っていた家康に、定次はキリシタンである、という家老中坊秀祐の訴えを好機として改易される。その後、陸奥岩城の鳥居忠政に預けられるが、大坂城の豊臣方と連絡をとっていたことが発覚、大坂夏の陣直前に切腹を命ぜられた。


津野定勝(つの さだかつ) ????~????
◇父:津野基高 子:津野勝興
 土佐七雄の一氏。落目となっていた土佐国司一条氏に味方し、同じ七雄長宗我部氏に敵対しようとしたが、長宗我部氏に降る事を望む家臣が、子勝興をまつりあげ、定勝は伊予に追放された。


津野親忠(つの ちかただ) 1572~1600
○長宗我部氏 孫次郎
◇父:長宗我部元親 養父:津野勝興 室:三宮平左衛門女
 土佐・長宗我部元親三男で、土佐七雄の一つ津野氏を継ぐ。朝鮮の役で功があった。長兄信親戦死後、父の溺愛を受け跡を継いだ弟盛親と不仲となった。関ヶ原の合戦時、盛親より、国元において謀反の嫌疑を受け29歳で自害した。親忠切腹の地は、今でも交通事故多発地帯で、親忠の呪いとも…。


角隈石宗(つのくま せきそう) ????~1578 
○越前守
 豊後・大友氏の軍師。古今東西の軍学に通じて諸将の信頼厚く、立花道雪もその弟子となっている。日向出兵の際、今は時期でない事を進言して容れられず、秘伝の書を焼き捨て決死の覚悟で出陣した。耳川の合戦において慎重論を唱えて積極派と意見が対立、方針定まらぬまま戦い討死した。キリシタンに批判的でフロイスに“不明の徒”と評されている。


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