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難波田憲重 ?~天文15(1546)
 弾正忠。別名善銀。扇谷上杉朝興、朝定に仕えた。父は難波田弾正左衛門正直との説がある。娘は太田資正の妻になったという。
 憲重は上田政盛が北条方に寝返った後、城代として松山城に入った。天文6(1537)年4月27日朝興が武蔵河越城で没し、子・朝定が家督を継ぐと、北条氏綱は河越城へ向け進軍を開始した。朝興の弟・朝成は三ツ木でこれを迎え撃ったが敗れ上杉勢は総崩れとなり、7月15日には河越城が陥落したため松山城へ敗走した。このとき朝成は生け捕られている。松山城の憲重は朝定を迎え入れ、7月20日に北条勢と戦闘となったが難波田勢の活躍で辛くも撃退した。このとき憲重は北条方の山中主膳と「松山城風流歌合戦」を行っている。それは山中が「あしからじよかれとこそたゝかはめ など難波田のくずれ行らん」と詠み、憲重が「君をゝきてあだし心を我もたば すえの松山波もこえなん」と返すものであった。
 北条家は川越城に一門の北条綱成を配し守らせていた。天文15(1546)年、朝定は川越城を奪い返すため山内上杉憲政とともに古河公方・足利晴氏を説得して味方につけ、8万とも言われる軍勢で川越城を包囲した。城主・綱成の兵は僅かで、救援に来た氏康軍は8000人程度であったため、北条方から和議の申し入れがなされた。しかしそれに油断した上杉勢に氏康が夜襲をかけたため上杉勢は大混乱に陥った。その中で憲重は朝定以下の将士を激励して奮戦したが、最期は古井戸に落ちて死亡したという。

 二階堂輝行 ?~弘治3(1557)
 奥州二階堂家第16代当主で須賀川城主・二階堂晴行の子。家督を継いで第17代当主となった。室町幕府第13代将軍・足利義輝の偏諱を受け、輝行を名乗った。
 輝行が当主の頃の二階堂家は北に伊達、西に蘆名という大勢力の狭間にあり、苦境に立たされていた。そこで輝行は伊達稙宗の四女を娶り友好関係を築いた。ちなみに、稙宗の長女は相馬顕胤、次女は蘆名盛氏、五女は田村隆顕、六女は懸田俊宗に嫁いでいる。
 天文11(1542)年に稙宗と晴宗が争う天文の乱が起こると、輝行は田村隆顕とともに稙宗方につき、晴宗方の蘆名盛氏、岩城重隆を警戒した。しかし天文16(1547)年、田村家とは対立し、それによって稙宗方の足並みが乱れたことで蘆名盛氏が晴宗方に味方し、晴宗方が優勢となった。田村氏は晴宗方につく者が現れて分裂し、伊達家臣も多くが晴宗についた。大崎家中も分裂し、最上義守も晴宗に味方し、葛西家でも家臣の柏山氏が晴宗につくべく反乱を起した。尚、輝行は当初敵対していた白河義綱と天文17(1548)年に和解している。このように諸将が晴宗方についたことで一気に決着がつき、稙宗の隠居をもって乱は終息した。
 以後、輝行は勢力を拡大した蘆名盛氏に抗すべくもなく、徐々に従属せざるを得ない状況に陥っていった。輝行死後、子・盛義は永禄9年(1566)年に蘆名家に従属しその子・盛隆を人質としたが、幸運にも蘆名家の嫡流が断絶し盛隆を蘆名家の当主とすることに成功した。しかし、盛義が死に、盛隆が側近に殺された後の天正16(1588)年、伊達政宗によって滅ぼされた。

 仁賀保挙誠 1560(永禄3)~1625(寛永2)
 仁賀保氏は、甲斐源氏小笠原氏流の大井朝光の裔と伝えられ、戦国期には出羽国山根館を拠点とし、国人連合・由利十二頭の中心的存在であった。由利十二頭は状況に応じて大宝寺、小野寺、安東などの戦国大名と結び保身を図っており、その十二家は明らかではないが、仁賀保、赤尾津(小助川)、滝沢(由利)、岩屋、打越、下村、石沢、禰々井(根井)、潟保、子吉、玉米、矢島(大井)などの諸氏であるという。挙誠は赤尾津家から仁賀保挙晴の養子となった。
 仁賀保氏は大宝寺氏と親密であり、小野寺氏と親密な矢島(大井)氏と抗争を繰り返していた。天正16(1588)年、挙誠は矢島満安の娘を娶り、友好関係を築こうとしたが抗争は終わらなかった。天正18(1590)年、仁賀保家は秀吉より自領と矢島領を併せて安堵されている。そして文禄元(1592)年、挙誠は他の由利衆とともに矢島満安を攻撃し、満安は小野寺茂道のもとに逃れたが、翌年小野寺義道の攻撃を受け滅亡した。
 慶長5(1600)年、挙誠は徳川家康上杉景勝征伐で功を挙げ、本領五千石を安堵された。慶長7(1602)年、常陸武田に移封されるが、大坂の陣で山城淀城を守衛するなどして、元和9(1623)年には旧領仁賀保に復帰して五千石を加増され、一万石の大名となった。挙誠が寛永2(1625)年に没すると、遺領は長男・良俊七千石、次男・誠政二千石、三男・誠次一千石に分封され、後に良俊流は断絶したが、誠政流、誠次流は明治まで存続した。

 波多野稙通 生没年不詳
 稙通の父・波多野秀長は応仁の乱で細川勝元方に属して各地を転戦し、勝元の子・政元から丹波多紀郡を与えられ、この地を中心に勢力を伸ばした。稙通は永正12(1515)年、朝治山に八上城を築き、本拠としている。
 大永6(1526)年に弟の香西元盛が細川高国の被官・細川尹賢の謀略で自害させられると、稙通はもうひとりの弟・柳本賢治とともに細川高国に反旗を翻し、細川晴元と結んだ。
 大永7(1527)年2月、賢治は阿波の三好勢と連合して、京都桂川川勝寺で高国・尹賢軍を破った。高国は将軍・足利義晴を擁して近江朽木谷に逃亡し、賢治は入京して京都の支配権を掌握した。3月には三好元長が足利義晴の弟・義維を擁して渡海してきたが入京はせず、堺に止まった。
 一方、八上城にいた稙通は天文2(1533)年、晴元方の赤沢景盛を母坪城で破り、天文7(1538)年には晴元に味方して、三好政長とともに守護代・内藤国貞の八木城を落とした。そして天文14(1545)年、三好長慶とともに内藤顕勝の関城を陥れ、丹波一帯の支配に成功したのである。

 鉢屋弥之三郎 生没年不詳
 鉢屋衆は平安末期から存在していた窃盗集団で、平将門の乱で反乱軍に加勢したため都を追われた。様々な悪行をはたらき万人に恐れられたが、空也上人に教化されて後は上人の推めで盗賊追捕の役に付き、諸国に散った。弥之三郎はその中でも因幡、伯耆、出雲、石見の鉢屋を束ねていた忍者である。
 文明3(1485)年、弥之三郎は当時浪人であった尼子経久から援助の要請を受けた。事の次第は次のようである。
 尼子経久は出雲守護・京極政経の被官で守護代を務めていたが、尼子家の権力拡大を図り関銭の横領などを行った。ために政経の怒りを買い、文明16(1484)年、月山富田城を逐われたのであった。経久が去った後の富田城には塩冶掃部介が守護代として入った。富田城奪回を目指す経久は翌年、山中勘兵衛らをはじめとする旧臣たちを集め策を練った。そして富田城下在住の鉢屋衆に援助を要請したのである。
 富田城では鉢屋衆が毎年元旦、城内で千秋万歳を舞う習慣になっていた。経久はこれを利用した。文明18(1486)年元旦、鉢屋衆70名は楽曲を奏でつつ城門へと進んだ。城方は何の疑いもなくこれを通し鉢屋衆は城内へ入った。一方、亀井秀綱、真木上野介、山中勘兵衛ら旧臣は弥之三郎の子・治郎三郎と兵衛三郎の協力で搦手より忍び込んだ。そして鉢屋衆が狼煙を上げると、尼子勢が乱入し、楽曲を奏でていた鉢屋衆も隠し持っていた武器を取り出し塩冶勢に襲いかかったのである。掃部介は自害して果て、経久は富田城主に返り咲くことができたのだ。この功で弥之三郎は本丸の北にある鉢屋平に長屋を与えられて住み「やぐら下組」と呼ばれるようになった。

 比叡山覚恕 永正18(1521)~天正2(1574)
 永正18(1521)年12月12日、後奈良天皇の第一皇子として生まれた。母は伊予局(小槻雅久女)。正親町天皇の異母兄に当たる。
 曼殊院で得度し、山科言継、朝山日乗、村井貞勝らと親交を持ったようである。元亀元(1570)年4月23日に比叡山第166世天台座主となり、6月10日六角義賢、義治父子が柴田勝家に生け捕られたときには助命嘆願を行っている。
 元亀元(1571)年9月、比叡山延暦寺は信長の焼討に遭うが覚恕は山上に居らず難を逃れた。が、後に責任を追及され天台座主の座を退いている。元亀4(1573)年には信玄の上洛に同行した。信玄が没したとき、家臣団は信玄の死を秘すため、これを覚恕の死として荼毘に附したともいわれている。実際には天正2(1574)年1月3日に没した。

 平野長泰 永禄2(1559)~寛永5(1628)
 尾張に生まれ、天正8(1580)年から秀吉に仕えた。
 賤ヶ岳の戦いでは小原新七、松村友十郎を討ち取り七本槍のひとりに数えられた。この功で三千石を賜っている。長久手の戦いでは、羽柴方は敗れたが長泰は敵の首級をあげる活躍を見せた。文禄3(1594)年、大和田原に五千石を賜り、慶長3(1598)年には従五位下遠江守に叙せられ豊臣姓を賜った。
 関ヶ原の戦いでは東軍に属すが加増はなかった。以降は幕府の普請命令を積極的に請け、家康、秀忠から感状を授かっている。大坂の陣では豊家恩顧の武将ゆえに江戸留守居役を命じられた。幕府内では老中直属の交代寄合の地位を獲得した。寛永5(1628)年5月7日死去。

 福島正則 永禄4(1561)~寛永元(1624)
 幼名は市松。秀吉と同郷であることから幼少期から仕え、寵愛された。天正6(1578)年の播磨三木城攻めで初陣を飾っている。
 賤ヶ岳の戦いでは拝郷五衛門を討ち取る功をあげ、賤ヶ岳七本槍のひとりに数えられた。戦後、正則を除く七本槍はいずれも三千石を加増されたが、正則は近江、河内に五千石を加増された。
 その後、九州征伐の功では伊予湯築十一万三千石を賜り、秀吉の関白就任時には従五位下左衛門大夫に叙任され播磨竜野城主となった。文禄4(1595)年には、切腹した豊臣秀次に代わり清洲二十四万石を領し、従四位下侍従に昇進、更に羽柴姓を賜った。
 関ヶ原の戦いに際しては、高台院(秀吉正室)の勧めと三成憎しの思いから、小山軍議で東軍参加を表明した。豊臣恩顧の正則が東軍についたことで諸将は次々と家康に靡いた。岐阜城戦や本戦で勇猛振りを発揮した正則は戦後、安芸一国と備後の一部を加増され四十九万石を領有した。
 その後も正則は旧主・豊臣家への忠誠は忘れず、度々大阪城に赴いた。そのため、大坂の陣のときは江戸に押し込められていた。元和5(1619)年、幕府内での権力抗争を見誤った正則は、広島城無断改修の罪で信濃川中島四万石に減封され、蟄居を命じられた。福島家は正則の死後改易となっている。

 細川氏綱 ?~永禄6(1563)
 細川氏庶流典厩家尹賢の子で細川高国の養子となった。
 応仁の乱で三管領のうち斯波、畠山の二家が没落したのちの管領職は細川氏により独占され、いわゆる京兆専制体制が確立された。京兆とは細川氏代々の官職・右京大夫の唐名で、細川宗家を指す。京兆専制の最初の管領・細川政元は将軍すげ替えを駆使して実権を手中にしたが実子がなく、九条政基の子・澄之、細川(阿波守護家)義春の子・澄元、細川政春の子・高国を養子に迎えた。しかし、澄之と澄元の間で家督争いが起こり、それに巻き込まれて政元は謀殺された。
 その後、家督継承者は澄元と決まったが、今度は澄元と高国の間で同様に争いが起こった。澄元は足利義澄を擁したが、高国は足利義材を擁する大内義興を味方につけてこれを破った。義澄は没し、澄元が高国に代わり義材を擁立したが、戦ではまたも高国が勝利した。澄元没後、高国は足利義澄の子・義晴を将軍に擁立し、自らの子・稙国に管領職を譲ったが稙国は間もなく没し、氏綱が養子に迎えられたのである。
 しかし、三好元長が足利義維(義晴の弟)、細川晴元(澄元の弟)を擁し、堺を拠点に勢力を伸ばしたため高国は享禄4(1531)年、天王寺でこれと戦うが、敗れて捕らえられ自害させられた(大物崩れ)。
 だが高国が没すると義維を擁する三好元長と義晴を擁する細川晴元の対立が表面化し、早くも翌享禄5(1532)年、合戦が起こった。この戦いでは晴元が木沢長政、茨木長隆らの国人と本願寺勢力を味方につけ勝利し、敗れた元長は自害した。
 晴元は傀儡・義晴のもと幕政を牛耳った。しかし天文12(1543)年、高国旧臣に擁された細川氏綱が挙兵した。抗争は長期化したが戦闘開始から5年後、晴元臣・三好長慶が寝返ったため氏綱方が優勢となり、晴元を義晴、義藤(義晴の子)ともども京から追放した。
 天文21(1552)年、足利義藤と和解した氏綱は長慶とともに京に入り、従五位下右京大夫次いで管領に任じられた。
 長慶の傀儡として管領の地位にあった氏綱は、その後長慶の命で摂津淀城に移送され永禄6(1563)年、同地で没した。
    ┏…澄之          ┏義勝               
細川政元╋…澄元━━晴元 足利義教━╋義政━━義尚           
    ┗…高国┳━稙国      ┣政知━┳茶々丸    ┏義藤(義輝)
        ┗…氏綱      ┃   ┗義澄━┳義晴━┻義昭   
                  ┗義視━━義材 ┗義維━━義栄   


内藤興盛(ないとう おきもり) ????~1554 
○下野守
◇父:内藤弘春 子:内藤隆時、隆春
 周防・大内氏重臣として長門守護代を務める。当主義興の代から仕え、家中にて大きな力を持つ。同じ重臣陶隆房が当主義隆に謀反した際には、これに与したが積極的に動くことはしなかった。


内藤隆春(ないとう たかはる) 1528~1600
○隆通
◇父:内藤興盛 室:吉見隆頼女 養子:内藤元盛(佐野道可)
 周防・大内氏重臣内藤興盛の5男。同じ重臣陶隆房が当主義隆に謀反し、これを滅ぼしたことから、安芸・毛利氏を頼る。毛利氏の下、防長に侵攻して活躍、所領を安堵された。


内藤隆世(ないとう たかよ) ????~1557
◇父:内藤興盛? 内藤隆時?
 周防・大内氏臣。姉婿の重臣陶隆房(晴賢)が当主義隆に謀反した際には、これに与して次期当主義長に仕えた。しかし、晴賢が安芸・毛利氏に敗死して、その侵攻を受けると、義長を守って長門・且山城で戦う。この時、隆世の命と引換に義長の命を助ける約で、自刃して果てた。又、義長も約に反して、開城後長福寺にて攻められ自刃して果てている。


内藤昌秀(ないとう まさひで) 1521?~1575 
○工藤氏 源左衛門 昌豊 祐長 修理亮
◇父:工藤下総守虎豊 養子:内藤(保科)大和守昌月、源助正重
 鎌倉期からの名族。甲斐・武田氏臣であった父が誅殺された為、兄長門守と共に出奔、信玄の時復帰。以後主要な合戦には殆ど参加し、武功は抜きん出ていたが、信玄は“修理亮程の者なら常人以上の働きあって当然”として絶大に信頼し、1枚の感状さえなかった程である。昌豊も個人の功等、歯牙にも掛けず、武田信繁と共に、“武田の副将軍”と呼ばれた。上野・箕輪城攻略後、東の備の要となり、父と同様絶えていた内藤相模守虎貞の跡を継いで内藤氏を名乗った。長篠の合戦においては他の老臣と同じく、力攻めの不利を説くが容れられず、敵中突撃して戦死した。川中島合戦の戦死者に内藤修理の名があるが別人。


内藤元盛(ないとう もともり) ????~1615
○佐野道可
◇父:宍戸元秀 養父:内藤隆春 子:内藤元珍、粟屋元豊
 安芸・毛利氏重臣宍戸元秀2男だが、嗣子のなかった内藤家に入嗣。1万石を領有。大坂の陣では、当主秀元らにより、家康の死等の理由で、万一大坂方が勝った時の布石として、大坂城入城する。しかし、戦後捕縛され毛利氏重臣であることが露見。あくまで個人的に豊臣に恩義を感じて取った行動であると主張し通し、2人の息子もまた、父が勝手に取った行動と主張し通したので、毛利氏の策謀までは露見しなかった。山城・鷲巣寺にて切腹。しかし、事情を知る2人の息子も、毛利氏により密かに切腹させられる。重臣福原広俊は、夏の陣寸前にこのことに気づき、無用の策謀と非難したという。


直江兼続(なおえ かねつぐ) 1560~1619 
○樋口氏 与六 重光 山城守
◇父:樋口伊予守兼豊 室:直江実綱女(直江信綱室) 弟:大国与七実頼、樋口秀兼 子:直江平八景明、将監兼高? 養子:本庄主馬長房、直江勝吉(本多安房守政重)
 越後・長尾(上杉)氏下士の出。その才を認められ近習となった。絶えた直江氏を継ぐ。豊臣秀吉に降った後、上杉氏が会津120万石を得ると、兼続は米沢30万石を得る。関ヶ原の戦いでは石田三成と結んで、当主景勝を西軍につけ、徳川家康に戦いを挑んだが失敗。以後は上杉氏存続に尽くした。文学、農政等に幅広く通じた智勇兼備の名将。


直江実綱(なおえ さねつな) ????~1577
○神五郎 与兵衛 政綱 景綱 酒椿斎 大和守
◇父:直江親綱 養子:直江信綱
 越後・長尾氏重臣。越後・与板城主。智勇兼備の将で、政軍事に活躍して信頼厚かった。1561年川中島の戦いでは、武田信繁隊を敗走させている。70余歳で没。


直江信綱(なおえ のぶつな) ????~1582
○藤九郎 与兵衛 景孝
◇父:長尾景貞 養父:直江実綱 室:直江実綱女
 越後・上杉氏臣直江氏の後を継いで与板城主となる。しかし、春日山城内の槿の間において、山崎秀仙と政務打ち合わせ中、御舘の乱の恩賞のもつれから秀仙に恨みを持つ毛利秀広(弘?)が乱入、秀広は秀仙を刺殺。信綱は脇差で身を守ろうとしたが、まきぞいを食い同じく秀広に斬殺された。信綱に嗣子なく、名門直江氏が絶えることを惜しまれた為、信綱の未亡人に樋口兼続が入婿し、直江氏を継いだ。


中条藤資(なかじょう ふじすけ) ????~1568
○弾正左衛門尉 越前守
◇父:中条定資 養子:中条(吉江)越前守景泰
 三浦和田氏流。越後守護上杉氏臣だが、実際には守護代長尾氏に従い、政軍事共に活躍する。1561年川中島の合戦で奮戦し感状を受けている。


長井道利(ながい みちとし) ????~1571
○隼人佐
◇父:斎藤道三 養父:長井直利? 子:井上忠右衛門尉道勝、半右衛門定次、小左衛門定利
 斎藤道三の庶子か。義龍の謀反に加担して父道三を死に追いやる。以後斎藤氏の下尾張・織田氏と戦い、斎藤氏滅亡後は将軍家足利氏に仕えるが、摂津・白川河原にて戦死。


長野具藤(ながの ともふじ) ????~1576
○北畠氏 次郎 政成? 藤教?
◇父:北畠具教 養父:長野大和守藤定 室:長野藤定女
 伊勢国司・北畠氏一族だが、1558年再三攻防を続けていた北畠氏と在地の土豪・長野氏が和すると、北畠氏から養子入りして長野氏を嗣ぐが、家中の信頼を得るには足らなかったらしい。尾張・織田信長が伊勢へ侵攻してくると、これと戦うが、降伏。信長の弟信包が長野氏を嗣いだ為、長野氏を逐われて北畠氏を頼った。やがて、父具教を信長によって暗殺されると、再び北畠姓を名乗り挙兵するも、信長の攻撃に、田丸城にて自害した。


長尾景連(ながお かげのぶ) ????~1562
○謙忠 弾正
◇父:長尾為繁
 越後守護代長尾氏一族。当主景虎(上杉謙信)の従弟。1559年上野・長野氏に従い甲斐・武田氏と戦う。1561年上杉勢が要衝厩橋城を落とすと、同城主に返り咲いた。しかし、長尾氏を離れて相模・北条氏を頼って独立を謀った疑いで、切腹させられた。


長尾景信(ながお かげのぶ) ????~1578
○十郎 上杉氏
◇父:長尾豊前守房景
 古志長尾氏当主。通称古志十郎。1561年長尾景虎(謙信)の上杉改姓に従い上杉姓を名乗る。甲斐・武田氏との戦い等に参陣、家中で重きを得た。謙信死後、御館の乱では上杉景虎方に味方するが、山浦国清と居多浜で戦い敗死した。


長尾為景(ながお ためかげ) ????~1536 
○六郎 弾正左衛門尉 信濃守 弾正少弼
◇父:長尾信濃守能景 室:長尾顕吉女 子:長尾晴景、景康、景房、竹鶴丸(快叟良慶)、景虎(上杉謙信)
 越後守護代長尾氏当主。守護上杉房能に叛いてこれを討ち、その養子定実を傀儡とする。このことに怒った房能の兄関東管領上杉顕定の来攻を受け、一時は佐渡に逃げるが、後にこれも敗死させて越後の実権を握る。越中攻略中、栴檀野の戦いにおいて、一向一揆衆の奇計にかかって討死した。


長尾晴景(ながお はるかげ) 1510~1553 
○道一丸 弥六郎 道景 定景? 弾正左衛門尉
◇父:長尾為景 子:長尾猿千代
 越後守護代長尾氏当主。しかし軍事より芸事を好み、家中の信望を失う。末弟景虎(上杉謙信)と争って敗れ、1548年、守護上杉定実の調停で景虎に家督を譲って隠居。44歳で病没した。


長尾政景(ながお まさかげ) 1527~1564?
○六郎?新六?新五郎? 越前守
◇父:長尾越前守房長 室:長尾為景女 子:長尾義景、顕景(上杉景勝)
 上田長尾氏当主。長尾晴景、景虎(上杉謙信)兄弟が争った際には、晴景に味方し景虎に再三抵抗したが、景虎が家督を継ぎ地盤を固めると、これに和して以後はよく補佐した。1556年景虎が隠遁した際には、真っ先に説得に行き翻意させている。景虎の出陣中は留守をよく任され、一族の筆頭として働いた。宇佐美定満と船遊び中に溺死したといわれている。


長倉祐政(ながくら すけまさ) ????~???? 
○勘解由左衛門 新七郎
◇父:長倉能登守祐有 子:伊東近江守
 日向・伊東氏臣。父祐有は度々当主義祐に反抗的態度を示した為、謀られて討たれている。薩摩・島津氏から度々侵攻を受け、山田匡徳らと抵抗を続けた。伊東氏が没落して豊後に逃れた後も、遺臣を糾合し都於郡城奪回を試みるが、多くの犠牲を出して失敗した。


鯰江貞景(なまずえ さだかげ) ????~????
○満介 備前守 定秀
◇父:鯰江(三条)為定 子:森備前守定春、政次、毛利九郎左衛門高次 近江・六角氏臣。鯰江城主。尾張・織田信長の侵攻を受けて、観音寺城から逃れた義賢父子らを迎え入れる。さらに六角旧臣や湖東三山百済寺等の支援を受けて信長に抵抗を続けるが、1573年落城した。


浪岡顕忠(なみおか あきただ) ????~????
○左近
◇父:浪岡顕範 子:浪岡弾正顕則、秋田右近慶好、山崎顕佐、浪岡顕行
 津軽・浪岡氏一族。1578年浪岡氏滅亡の際、南部氏の下に逃れる。


浪岡顕範(なみおか あきのり) ????~????
○左衛門尉
◇父:浪岡具統 子:浪岡顕忠
 津軽・浪岡氏一族。領地の境界などをめぐって河原御所具信と対立。1562年具信が謀反し、当主の兄具運が殺害されると、逆に水木館にて具信を討った。その後幼年の当主具愛を後見する。


浪岡具運(なみおか ともかず?) ????~1562
○式部少輔 左中将
◇父:浪岡具統 室:平杢之助俊忠女 子:浪岡具愛
 浪岡御所北畠氏9代当主。南部氏が津軽進出に従い、その支配下に入り勢力を維持する。寺社修築に力を入れるが、これが財政悪化を引き起こした。河原御所具信と不和になり、1562年具信らが挨拶に来た際、不意に斬り殺された。


浪岡具愛(なみおか ともちか) 1558~1578?
○顕村 顕宗? 三郎兵衛尉 左中将
◇父:浪岡具運 室:浪岡顕範女、安東愛季女
 5歳で父を失い、浪岡御所北畠氏10代当主となるが、家中が治まらず、また京への貢物に領民に重税を課した為、領民の信頼も失った。1578年南部氏から独立した大浦為信によって攻略され、助命を条件に降伏した。しかし、約束は守られず、切腹したとも、安東愛季を頼って逃れ、これに仕えたともいわれる。


浪岡具信(なみおか とものぶ) ????~1562
○弾正少弼
◇父:浪岡具永 子:浪岡顕重、溝城刑部正?
 父具永によって、断絶していた河原御所を復興し、4代当主となる。甥具運と不仲になり、謀反を起こしてこれを殺害するが、同年、具運の弟顕範によって殺された。「津軽郡中名字」を著す。


浪岡具統(なみおか ともむね) ????~1555
○弾正少弼
◇父:浪岡左中将具永 子:浪岡具運  
 浪岡御所北畠氏8代当主。八戸氏の津軽進出に伴って所領を拡げ、大光寺氏・大浦氏と共に津軽を分割統治した。その後八戸氏の支配から離脱を図って三戸氏と親密になり、“三戸の軛”と呼ばれた。また1546年には、弟具信により断絶していた河原御所が復興されている。


成田氏長(なりた うじなが) 1542~1595
○下総守
◇父:成田長泰 弟:小田伊賀守家時
 藤原氏流と称す。父と家督相続で争いになるが、1566年家督を継いで武蔵・忍城主となった。相模・北条氏に従う。豊臣秀吉の小田原攻めの際には早くからこれと内通していたが、小田原城籠城に参加していた為、内通を知らされていない忍城兵は、攻め寄せた石田三成の水攻めに対し抗戦、これを撃退してしまう。戦後内応失敗の責を問われるが、金品の献上により恭順を許され下野・烏山に封を得た。秀吉の側室に娘を差し出したともいわれる。文禄の役では、肥前・名護屋駐屯。京で没後は弟長忠(泰親)が遺領を継いだ。


名和宗安(なわ むねやす) ????~1575
○那波とも 無理介
◇父:名和宗元
 上野の名族。越後・長尾氏に逐われ、甲斐・武田氏臣となった豪傑。縄で編んだ羽織を鎧の上からまとい無理を通すことから、無理介と異称された。長篠合戦において三河・松平軍の夜襲を受けて混乱の中、討たれた。なお、弟顕宗は越後・長尾氏に仕える。


南部安信(なんぶ やすのぶ) ????~????
○右馬允 大膳大夫
◇父:南部右馬頭政康 子:南部晴政
 陸奥・三戸南部氏23代当主。1524年家臣三代主水が反乱を起こし津軽郡代堤光康を逐うと、弟高信に兵を与えて鎮圧する。さらに、北畠顕家の裔、浪岡氏を攻略。弟らを各地に配し、西の安東氏に備えては、高信に津軽地方を任せ、秀範を毛馬内城に置き、南の斯波氏に大しては信房に不来方城を守らせ、長義には浅水城を守らせる等して勢力の拡大と維持を果たした。


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