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垪和氏続(はが うじつぐ) ????~????
○伊予守
◇子:垪和伯耆守康忠
 相模・北条氏臣。駿河・興国寺城代として、1571年甲斐・武田氏を撃退し、感状を受ける。


初鹿野忠次(はじかの ただつぐ) ????~1561
○源五郎
◇室:原虎胤女 養子:初鹿野(加藤)伝右衛門昌次
 甲斐・武田氏臣。越後・長尾氏に相模・北条氏が攻められた時は、この援軍に向かっている。川中島の合戦にて戦死。28歳。


畠山之照(はたけやま ゆきてる) ????~1582
○細川氏 六郎 石見守 仁木氏
◇父:細川真之 養父:畠山高政
 阿波守護細川氏一族。母方の阿波・上大野城主仁木氏の下で生まれ育ち、成人後は河内守護・畠山高政の養子となった。実祖父、父2代にわたる仇敵三好氏を滅ぼすため、土佐・長曾我部氏に与して中富川の戦いに従軍。しかし、主君元親の悪逆に愛想をつかして離反したため、長曾我部勢に攻められ上大野城で死んだ。


畠山義続(はたけやま よしつぐ) ????~1590
○左衛門佐
◇父:畠山修理大夫義総 兄:畠山次郎義繁 子:畠山義辰、義綱、義有、上条政繁
 兄は早世。その為、1542年能登守護畠山氏当主を継ぐ。河内・畠山氏の稙長が没した時、その後継に指名されたが、同年父義総も没し、これは実現せず。家臣の内乱が相次ぎ当主の実権は完全に失墜、畠山七人衆による合議制が敷かれた。家督を嫡子義綱に譲り復権を図るが、逆に重臣らに親子共に追放され、近江・坂本に逃れる。以後も能登奪回を試みるが達せず、失意の内に没した。


畠山義綱(はたけやま よしつな) ????~1593
○次郎 義則 義胤 修理大夫
◇父:畠山義続 室:六角義賢女 子:畠山義慶、二本松義隆(義有)、松波義親
 父より能登守護職を継いだ時には、実権は畠山七人衆に握られていた。1555年七人衆の最大の権力者温井総貞を誅し(弘治の内乱)、近臣を登用して一時的に権力を回復するが、却って重臣の反発を招いた。結局、父と共に追放され、近江・六角氏の下に逃れる。以後、越後・長尾氏の協力等を受け、一時は能登半国まで回復に至るが、成功には至らなかった。最期は近江・余呉にて没。


畠山義慶(はたけやま よしのり) ????~1574
○次郎 修理大夫
◇父:畠山義綱 室:三条氏女
 父が重臣らに追放されると、能登守護職に擁立されるが、傀儡でしかなかった。重臣間の内部分裂の中、何者かに毒殺された。一説には弟義隆とは同一人物ではないかともされる。


蜂須賀家政(はちすか いえまさ) 1559~1638
○彦右衛門 逢庵 阿波守
◇父:蜂須賀正勝 子:蜂須賀至鎮
 尾張・織田氏臣。幼少より、父に従い諸戦に参加。中国平定等に功有り。本能寺の変後も、羽柴秀吉の下で活躍した。阿波17万石領有。関ヶ原の合戦では、西軍に属したが、自身は病として不参加。東軍に子至鎮が属していたので、所領は安堵された。戦後家督を譲って剃髪。大坂の陣も荒天を理由に参陣しなかった。


蜂須賀正勝(はちすか まさかつ) 1526~1586
○小六 彦右衛門 修理大夫
◇父:蜂須賀正利 子:蜂須賀家
 尾張の土豪。美濃・斎藤氏、尾張・織田信賢を経、やがて尾張・織田信長及びその臣木下藤吉郎(秀吉)に仕える。以降諜略等に手腕を発揮して活躍。美濃・墨俣城築城、伊勢長島・一向一揆征伐等に功があった。また、戦のみでなく、徴税等の諸政にも力を入れる。四国長宗我部氏を降した際に阿波一国を受け、子家政がこれを継いだ。


馬場信春(ばば のぶはる) 1515?~1575 
○教来石氏 景政 信房 信勝 氏勝 氏房 政光 信武 信政 玄蕃 美濃守 民部少輔 民部大輔
◇父:教来石遠江守信保 弟、養子:馬場信頼 子:馬場民部丞昌房
 甲斐源氏流。甲斐・武田信玄の重臣。誅絶されていた馬場伊豆守虎貞の跡を継いで馬場氏を名乗った。主に信濃方面攻略に軍功を重ね、"鬼美濃"こと原虎胤の後を受けて美濃守を許された。駿河・今川氏攻略の際は、財宝略奪の下命に対し反発、財宝を火中に投じて信玄を諫めた。長篠合戦では、当主勝頼に、陣を引くことを進言するが容れられず敗走、殿を務めた後、引き返して自殺的突撃を行って討死した。生涯戦場で全く傷を負わなかったと言われる勇将。61歳。


羽生道成(はぶ みちなり) ????~????
○丹波守
◇祖父:羽生道将
 土佐・一条氏家老。遊興に耽る当主兼定を他の家臣と共に豊後へ追放する。


林 秀貞(はやし ひでさだ) ????~????
○新五郎 通勝 佐渡守
◇父:林主計通安 弟:林美作守通具 子:林新次郎通政、新三郎光時、光之、宗信、千賀信親、林信家
 林氏は伊予・河野氏流。尾張・織田信長付筆頭家老。しかし信長の人柄と合わず、その弟信行擁立を弟通具や柴田勝家と画策するが、1556年稲生の戦いで敗れる。許されその地位にとどまるが、1580年突然追放。かつての信行擁立の件がその理由という。


速水守久(はやみ もりひさ) ????~1615 
○時久 種久 種之 甲斐守
◇子:速水出来麿
 近江・浅井郡の土豪。近江・浅井氏に仕え、主家滅亡後は羽柴秀吉に従い近習頭となる。小牧・長久手の戦い、小田原征伐、朝鮮出兵に従軍。秀吉死後はその子秀頼に仕え、関ヶ原の戦い後、七手組頭筆頭となった。1614年に方広鐘銘問題が起こり、同朋片桐且元が内通を疑われると、その調停に尽力するが、結局且元は大坂城から退去。その後も、豊臣家中の不和の調停に努める。大坂冬の陣では、鴫野の戦いで上杉景勝の軍勢相手に奮戦。夏の陣の天王寺の戦いでは遊軍として真田幸村隊の後方に陣を構え、藤堂高虎を破る等奮戦したが、結局豊臣勢は敗れて大坂城へ戻る。この時、秀頼が敵中突撃しようとするところを止めて城内に引き返させている。秀頼らの助命を求めるが容れられず、秀頼に殉死。


原 虎胤(はら とらたね) 1497~1564 
○虎種 清岩 美濃守
◇父:原能登守友胤 子:横田十郎兵衛康景、原四郎盛胤、直胤
 上総守護原(千葉)氏一族。父友胤の時、抗争に敗れて一族は国を追われ、親子は甲斐・武田氏に仕官した。1521年甲斐・飯田河原の合戦では、福島正成を討ち取る働きを見せる。"鬼美濃"として怖れられ、生涯受けた傷は53ヶ所といわれる。特に城攻めの巧みさは有名だった。また、戦場で負傷した敵将を、肩を貸して送り届けた逸話もある。1553年日蓮宗と浄土宗の法論に巻き込まれ追放され、相模・北条氏に身を寄せたこともあったが、3年で許され戻っている。一説には隠密として赴いたとも言われる。鉄砲傷が元で68歳で亡くなった。


原 治頼(はら はるより) 1502~1556
○土岐氏 源次郎? 美作守
◇父:土岐政房 継父:原修理亮景成? 子:土岐治英、岡見越前守頼勝?
 美濃・土岐氏一族だが、南北朝末期に始まる庶流の原氏を継ぎ、常陸・江戸崎城主となる。上杉氏に従って小田氏と度々争い、一時期江戸崎を逐われるが、やがて回復し、さらに勢力を拡大する。宗家美濃守護・土岐氏が滅亡してからは土岐氏に復する。


原 昌胤(はら まさたね) ????~1574
○昌勝 国房? 胤之? 胤元? 隼人正
◇父:原加賀守昌俊 子:原隼人正昌栄、三左衛門?
 甲斐の旧族で甲斐・武田氏臣。父譲りの冷静沈着機を見るに敏な切れ者で、陣馬奉行を務めてその手腕を発揮して当主信玄に賞された。鬼神の子という逸話を持つ。長篠合戦で銃弾を受け戦死。


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