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穂田元清(ほいた もときよ) 1551~1597
○毛利氏 伊予守 少輔四郎 治部大輔
◇父:毛利元就 養父:穂田民部大輔元資 室:村上武吉養女(来島通康女) 子:穂田宮鶴丸、毛利甲斐守秀元、穂田宮吉丸
 安芸・毛利元就四男。備中・猿掛城主穂田元資の養子となり東方の戦に活躍した。1578年、尼子氏臣山中幸盛の拠る播磨・上月城を陥落させ、1582年には侵攻してきた羽柴秀吉の軍と戦っている。1589年広島城及び城下の普請奉行を務める。


北条氏勝(ほうじょう うじかつ) 1559~1611
○左衛門大夫
◇父:北条氏繁 子:北条氏明 養子:北条繁広、氏重(保科正直男)
 相模・北条氏一門衆。兄氏舜の死で家督を継ぐ。相模・玉縄、下総・岩富城主。1590年豊臣秀吉の小田原征伐においては、伊豆・山中城に籠城。からくも脱出して玉縄城に退くが、徳川家康に降伏。岩富1万石を得た。


北条氏邦(ほうじょう うじくに) 1541~1597 
○乙千代丸 新太郎 氏吉 安房守 秩父氏 藤田氏
◇父:北条氏康 室:藤田康邦(重利)女 養子:北条新太郎直定(氏定)
 相模・北条氏一族。武蔵・鉢形、上野・箕輪城主。越相同盟の交渉責任者として尽力、1569年これを成功させる。北条氏の上野攻略の拠点となり、甲斐・武田氏、越後・上杉氏等と戦いを繰り返す。山川、戸張宿城の合戦や神流川の合戦で大活躍。1590年豊臣秀吉の小田原征伐においては、出撃を主張するが容れられず、鉢形城に籠城するも前田利家の軍に降伏。剃髪し加賀・金沢で没。


北条氏繁(ほうじょう うじしげ) 1536~1578 
○善九郎 康成 常陸介 左衛門大夫
◇父:北条綱成 室:北条氏康女 子:北条氏舜、氏勝、氏成、千葉氏常、北条繁広
 相模・北条氏の同門衆として遇される。相模・玉縄城主。武勇に優れ、羽生城攻略、第2次国府台合戦、関宿城攻略等に功があった。1561年の越後・上杉謙信及び1569年の甲斐・武田信玄の小田原攻略の際にも、玉縄城に籠城して、守り抜いている。


北条氏綱(ほうじょう うじつな) 1486~1541 
○伊勢氏 伊豆千代丸 新九郎 左京大夫
◇父:伊勢長氏(北条早雲) 室:近衛尚通女 子:北条氏康、彦九郎為昌、左衛門佐氏堯 養子:北条綱成、綱高
 相模・北条氏当主。北条姓を名乗るのは氏綱が最初。鎌倉幕府執権北条氏にあやかったと思われ、これと区別して後北条氏と呼ばれる。関東攻略に尽力し、1524年扇谷上杉氏を攻め江戸城を陥落させ、1538年には下総・国府台にて足利・里見連合軍を敗った。「氏綱公御書置」の家訓を残す。55歳で没。


北条氏照(ほうじょう うじてる) 1540?~1590 
○藤菊丸 源三 由井氏 大石氏 陸奥守
◇父:北条氏康 養父:大石定久 室:大石定久女 養子:北条采女
 相模・北条氏康2男。一時山内上杉氏の武蔵守護代大石氏の養子となって、大石氏を名乗るが後に復す。思慮深い兄氏政とは対照的で、直情剛毅な性格であった。兄の片腕として軍を指揮、北関東、信濃方面等多くの戦場を駆け巡って、家中随一の戦上手といわれた。一方で、越後・上杉氏との外交も担当している。豊臣秀吉の小田原征伐の時には抗戦を主張して、居城武蔵・八王子城を出て小田原城に籠城するが、敵わず降伏、その責を取って自害した。


北条氏直(ほうじょう うじなお) 1562~1591
○国王丸 新九郎 見性斎 左京大夫
◇父:北条氏政 室:徳川家康
 相模・北条氏最期の当主。実際に実権は父氏政が握っていたようである。1582年滝川一益を上野・神流川に敗る。その後、三河・徳川氏と和を結んで、甲斐・武田氏の旧領を分けて上野を領する。1589年真田昌幸の上野・名胡桃城を攻めたことから、豊臣秀吉の小田原征伐の口実を与えた。氏直は一族の氏規と共に和平派であったが、父氏政や氏照ら主戦派に押されて、結局秀吉の侵攻を籠城戦で迎えるが、内部の一致を欠き降伏、高野山配流となった。翌年30歳で没。


北条氏規(ほうじょう うじのり) 1545~1600 
○助五郎 左馬佐 美濃守
◇父:北条氏康 室:北条綱成女 子:北条美濃守氏盛、菊千代、勘十郎、松千代
 相模・北条氏一族。伊豆・韮山、相模・三崎城主。幼少時は駿河・今川氏に人質として赴き、その際同じ境遇だった松平元康(徳川家康)と親交を持つ。1576年甲相越三国同盟を成立させ、豊臣、徳川等の他氏との交渉にあたり、外交手腕に優れていた。また、氏政、氏照ら兄と違い、親徳川、豊臣派であった。1588年当主氏直に代わり上洛、和睦に尽力する。小田原征伐の際は、韮山城に籠もるが徳川家康の説得で開城、氏直に和平を説く。戦後は氏直に従い高野山に入った。裔は狭山藩主として存続。


北条氏房(ほうじょう うじふさ) ????~1592
○十郎 太田氏?
◇父:北条氏政
 相模・北条氏一族。兄太田源五郎が戦死後、跡を継いで武蔵・岩槻城主となる。小田原征伐の際には小田原城に篭城し小峰口を守った。しかし、家臣伊達房成等が守る岩槻城は落城し、小田原城も降伏。氏房は高野山に蟄居となり、やがて寺沢広高に預けられるが、若くして病死した。


北条氏政(ほうじょう うじまさ) 1538~1590 
○乙千代丸 截流斎 左京大夫 相模守
◇父:北条氏康 室:武田信玄女 子:北条氏直、太田源五郎、北条十郎氏房、千葉七郎直重、北条新太郎直定、采女、勝千代
 氏康2男。父存命中に相模・北条氏家督を継ぐ。父死後は、越後・上杉氏と手を切って、甲斐・武田氏と結び、常陸・佐竹氏、下野・小山氏ら北関東に弟氏照を司令官として派し、その勢力を拡げた。氏政は武より文に秀いで、「北条氏所領役帳」を作成する等内政面で実績を残している。しかし豊臣秀吉の上洛命令に応じなかった為、小田原征伐を招き籠城するが、内応者が現れて結束を乱して降伏、責を取って自害した。享年52歳。父氏康は氏政が飯に汁を数回かけて食べているのを見て、“一杯の飯にかける汁の分量を量れずして、国盗りを量れようか”として氏政は将器でない旨嘆いたという。


北条氏康(ほうじょう うじやす) 1515~1571 
○伊豆千代丸 新九郎 万松軒 左京大夫 相模守
◇父:北条氏綱 室:今川氏親女、松田氏女 子:北条新九郎、氏政、氏照、氏邦、氏規、六郎、(佐野)左衛門佐氏忠、右衛門佐氏光、氏秀(上杉景虎)
 父死後、相模・北条氏当主となる。1546年来襲した関東公方足利氏、山内扇谷上杉両氏らの約8万の連合軍を、周到な準備の上わずか8千の兵で奇襲を掛けてこれを敗り(河越の野戦)、武名を響かせた。又、甲斐・武田氏、駿河・今川氏と三国同盟を結び(善徳寺の会盟)、関東において圧倒的優位を築いた。1561年関東管領を譲られた越後・上杉謙信が11万の兵で来攻し、小田原城を囲むが、氏康は正面決戦を避けて1ヶ月半の籠城戦で撤退に追い込んだ。その後も謙信は再三出兵してくるが、その度にうまく避けて、謙信撤退後すぐに旧領を復した。その後武田氏の今川氏攻略によって三国同盟が破れると、今度は謙信と結んでいる。又、民政にもその手腕を発揮し、税制の整備、貨幣の統一、検地の施行等に実績を残すと共に、文化人としても和歌に優れた素養を見せる等、文武に秀でた名将であった。56歳で没。


北条綱成(ほうじょう つなしげ) 1516~1587 
○福島氏 勝千代 孫九郎 道感 左衛門大夫 上総介
◇父:福島正成 室:北条氏綱女 弟:福島弁千代勝広(北条綱房) 子:北条氏繁、治部少輔氏秀(康元)
 相模・北条氏臣。父は駿河・今川氏臣。父戦死後、北条氏の下に身を寄せて、これに仕え相模・玉縄城主となる。1546年河越の野戦、1564年国府台の合戦等、数々の戦いを勝利に導いて武勇を響かせた。北条氏五色備の黄備を担当し、黄色の練の四隅に八幡の2字を墨書した旗指物を用いて“地黄八幡”と呼ばれた。後に外交面を担当して、諸大名に対する講和、諜略に手腕を発揮した。義兄氏康死後、出家して家督を子に譲った。


北条綱高(ほうじょう つなたか) ????~????
○高橋氏 綱種? 将監 常陸介
◇父:高橋高種? 養父:北条氏綱 弟:高橋民部小輔氏高? 子:高橋常陸介康種?
 母は相模・北条早雲女。高橋家は早雲家臣団の伊豆衆二十一家に数えられる豪族。1564年、第二次国府台の戦いに参加。後に氏綱の猶子となり相模・玉縄城代を務めた。北条五色備「赤備」の大将。


北条長綱(ほうじょう ながつな) 1493~1589? 
○菊寿丸 幻庵
◇父:伊勢長氏(北条早雲) 子:北条三郎綱重、新三郎氏信、長順 養子:北条(上杉)氏秀、氏光
 相模・北条氏一族にて、一族の長老的存在を務める。箱根権現第40代別当。1542年甥為昌死後、その旧臣、三浦衆を統率。古今集にも造詣深く、文人としても優れていた。吉良氏朝に嫁ぐ氏康の娘に、礼式作法の心得書として「幻庵おほへ書」を記して持たしている。


法華津則延(ほけつ のりのぶ) ????~1575
○播磨守
 南伊予豪族。豊後に流されていた一条兼定の土佐奪還に協力するが、土佐・長宗我部軍と戦い敗死した。


保科正俊(ほしな まさとし) 1509~1592 
○甚四郎 弾正忠
◇父:保科正則 子:保科正直、内藤源蔵昌月
 信濃・高遠城主。1552年頃甲斐・武田氏に仕える。武田氏滅亡後は三河・徳川氏に仕えた。武勇に優れ、槍を得意としたことから、"槍弾正"と呼ばれた。


細川氏綱(ほそかわ うじつな) ????~1563
○次郎 家綱? 右京大夫 摂津守護 管領
◇父:細川尹賢 養父:細川高国
 管領・細川高国養子。高国を細川晴元に討たれると、これと激しく争う。1548年晴元側の有力者三好長慶が寝返ったことから、晴元を逐って管領に就任した。しかし実権は長慶が握ったため、その傀儡でしかなかった。後に長慶の命で摂津・淀城に移され死去。室町幕府最後の管領。


細川勝忠(ほそかわ かつただ) ????~1520
◇父:細川尚春 子:細川忠若丸
 淡路守護の父尚春が三好之長に殺されると、一族細川高国を頼った。翌1520年、三好氏の侵攻を受け、養宜(ヤギ)館にて滅んだ。


細川真之(ほそかわ さねゆき) ????~1582
○六郎 掃部頭
◇父:細川持隆 室:仁木伊賀守女 子:細川隆之、允之、畠山之照
 父である阿波守護細川持隆は家臣三好義賢に殺される。幼少の真之はその義賢に傀儡として擁立された。やがて義賢が急死すると、その子(異父弟)長治に不満を持つ国人衆を糾合し、土佐・長宗我部氏の援助を受けて独立を図り、長治を敗死させた。しかし、長治の弟十河存保に攻められて敗れ、阿波・仁宇山にて自刃。


細川澄元(ほそかわ すみもと) 1489~1520
○聡明六郎 右京大夫 摂津守護 丹波守護
◇父:細川讃岐守義春 養父:細川右京大夫政元 子:細川晴元
 父は阿波守護家。管領政元の養子となる。しかし、政元には他にも澄之、高国の2人の養子がいた為、家督相続を巡って争いとなった。1508年足利義稙を擁する高国に敗れると、近江、そして阿波に脱出。1519年三好之長の援けで再挙して高国に勝つも、翌年逆に之長は高国に敗れ、澄元も阿波に戻り、やがて亡くなった。


細川澄之(ほそかわ すみゆき) 1489~1507
○聡明丸 九郎 丹波守護
◇父:九条政基 養父:細川右京大夫政元
 実父は関白九条政基。生後2歳にして京兆家細川政元の養子となる。1506年丹波守護となり、一族の細川政賢とともに丹後守護・一色義有と戦う。政元に廃嫡されたことから不和となり、1507年配下の香西元長、薬師寺長忠らが、政元を殺害。さらに政元のもう1人の養子澄元を近江に逐った。将軍足利義澄から京兆家の家督を認められるが、澄元に与した細川高国、政賢、淡路守護細川尚春らに攻められて自害した。


細川高国(ほそかわ たかくに) 1484~1531
○六郎 民部少輔 右京大夫 武蔵守 管領
◇父:細川政春 養父:細川右京大夫政元 子:細川稙国 養子:細川氏綱
 摂津守護家細川氏一族。管領細川政元の養子。政元が廃嫡した養子澄之に殺されると、政元のもう1人の養子澄元らと共にこれを討った。その後、足利義稙と結んで将軍足利義澄や澄元を近江に逐い、幕政を独占して管領職に就くと共に摂津、丹波、讃岐、土佐の守護職を兼務した。高国の専横を嫌った義稙が阿波へ逃れると、新たに義澄の子義晴を将軍に迎える。1527年澄元の遺児晴元、三好元長らに敗れ、京都を逐われた。摂津・尼崎にて酒倉に隠れているところを発見され自刃。


細川稙国(ほそかわ たねくに) 1508~1525
○六郎 摂津守護 丹波守護 管領
◇父:細川高国 子:細川頼国
 管領・細川高国嫡子。42歳厄年を迎え、隠居を決意した父から管領職を譲られるが、同年急死。


細川晴国(ほそかわ はるくに) ????~1536
○八郎 晴総
◇父:細川政春 子:細川輝政、通薫
 管領細川高国弟。1532年丹波・波多野稙通の支援を受け、細川晴元方と再三戦う。その後、摂津・三宅国村に担がれて、晴元に抗するが、形勢不利を見た国村に裏切られ、自殺を強いられた。


細川晴元(ほそかわ はるもと) 1514~1563
○聡明丸 右京大夫 管領
◇父:細川澄元 室:三条公頼女、六角定頼女 子:細川右京大夫昭元
 室町幕府管領として勢力を伸ばす。しかし、家臣三好長慶に逐われ将軍義輝、前将軍義晴らと近江に逃れる。その後も復権を図るが果たせず、長慶と和して隠居。失意の中摂津にて病死。


細川尚春(ほそかわ ひさはる) ????~1519
◇父:細川成春 子:細川勝忠 養子:細川彦四郎
 父の死により細川氏淡路守護家最後の当主となる。1505年淡路に侵攻するが、三好之長らに撃退される。1507年細川澄元、高国らに味方して細川澄之を討つが、後には高国と争う。後、再度高国に和すが、澄元に従う三好之長に攻められ、阿波で殺された。


細川藤賢(ほそかわ ふじかた) 1517~1590
○四郎 右馬頭
◇父:細川尹賢 子:細川元賢
 室町幕府奉行衆にして将軍足利義輝臣。義輝死後は、松永久秀に与して、1566年三好長慶と戦うが敗れる。義輝の弟義昭が上洛すると、これに仕えた。義昭が織田信長に対して挙兵すると、これを諌めるが、義昭には容れられなかった。義昭が追放後は、信長に許されて近江・坂本城を守った。


細川通董(ほそかわ みちただ) ????~1589
◇父:細川晴国 養父:細川通政 室:宮氏女 子:浅口元通
 伊予・川之江城主。備中を逃れた叔父細川通政を受け入れ、7代目備中守護細川氏を嗣ぐ。安芸・毛利氏の助力にて旧領備中・浅口の地を回復に成功するが、すでに守護職としての権威はなく、毛利氏傘下の一客将として各地の戦いに参陣する。豊臣秀吉の九州征伐に際し、毛利氏の下参陣するが、その途上病没。


細川通政(ほそかわ みちまさ) ????~????
◇父:細川政春 養子:細川通董
 細川頼之の孫満国から始まる備中守護細川氏6代目。備中・鴨山城主。兄の跡を継ぐが、通政の頃には守護職は名目化して実権は全くなく、備中を捨てて伊予に逃れた。同地にて死没。


細川持隆(ほそかわ もちたか) ????~1553
○持重? 讃岐守 兵部大輔 右京大夫
◇父:細川讃岐守之持 室:大内義興女、岡本美作守清宗女 子:細川真之
 父の跡を継いで細川氏阿波守護家当主となる。1531年には畿内に出陣して管領細川晴元を援護した。1534年足利義冬を阿波に迎え、阿波公方とした。播磨・赤松晴政(妹婿か?)が尼子晴久に居城を逐われた時は、これを保護し、播磨奪還の援兵を出すが、晴久の軍勢と戦って敗北している。後、足利将軍家の後継問題で家臣三好義賢と対立して殺害された。


細川元定(ほそかわ もとさだ) 1537~1595
○助左衛門 上総守
◇父:細川駿河守昌勝 子:細川全隆
 1575年織田信長に仕え、300石を得る。以後、細川京兆家細川昭元の目付役を務めた。信長没後は剃髪して洛北に隠居した。その後豊臣秀吉に仕え、山城・愛宕に所領を得た。


細川頼国(ほそかわ よりくに) ????~????
○九郎
◇父:細川稙国
 管領細川氏一族だが、頼国が成人する前にすでに細川氏は没落、流浪。後に陸奥・最上氏庶流黒川氏に仕えたという。


堀 秀治(ほり ひではる) 1576~1606
○久太郎 侍従
◇父:堀秀政 子:堀越前守忠俊、鶴千代、三郎兵衛季郷
 1590年豊臣秀吉に従って、小田原征伐参加。その中、父が病死し、家督相続。文禄の役では肥前・名護屋駐屯。1593年山城・伏見城、大和・多門城普請に携わる。1598年越後・春日山城主として30万石領有。関ヶ原の合戦では東軍として、会津・上杉景勝一揆軍を平定した。


堀 秀政(ほり ひでまさ) 1553~1590 
○菊千代 久太郎 左衛門督 侍従
◇父:堀掃部大夫秀重 子:堀秀治、美作守親良、村上但馬守、近藤政成
 美濃の出。鎮守大将軍藤原利仁流。"名人久太郎"と呼ばれた戦上手。早くから尾張・織田信長に仕え、側近として信頼を得た。越前・一向一揆討伐、紀伊・雑賀一揆戦等に参戦。1580年信長の子信忠に従って、謀反した摂津・荒木村重討伐に参加。1582年羽柴秀吉の備中・松山城攻めに目付として同行。本能寺の変後は、秀吉を支持し、山崎の合戦では先鋒も務めた。信長の側近であった彼の支持が与える影響は大きく、秀吉より厚遇された。長久手の戦いでは、池田恒興、森 長可らの軍が崩れる中、奮戦活躍し、徳川軍の攻勢をよく支えた。1590年相模・小田原征伐中、病死。


堀江景忠(ほりえ かげただ) ????~????
○七郎 藤秀 左衛門三郎 中務丞
◇父:堀江中務丞景用 室:武田中務大輔元度女 子:堀江利茂
 越前・朝倉氏に従う。坂井郡を在地とする朝倉氏をも凌ぐ名族である。讒言により主家との関係悪化に伴い、1567年加賀の一向一揆を誘い朝倉氏に叛く。しかし、逆に越前追放となって能登・隈木に逃れた。尾張・織田信長により朝倉氏が滅亡すると、再び越前に戻り旧領を回復すると共に、信長に通じたが、その後の恩賞のもつれから謀殺されたという。


堀江頼忠(ほりえ よりただ) ????~1617
○能登守
 安房・里見氏家老として1352石を有す。1614年里見氏は改易され、伯耆・倉吉へ配流された当主忠義に従い、同地にて病没。


本庄繁長(ほんじょう しげなが) 1539~1613 
○千代猪丸 弥次郎 雨順斎全長 越前守 大和守
◇父:本庄大和守房長 子:本庄豊後守顕長、大宝寺出羽守義勝、本庄長房、久長、竹丸重長
 桓武平氏流畠山重忠弟重宗後裔。越後・村上城主。父房長を討ったその実弟小川長資を敗死させ当主となる。1558年以後、越後・長尾氏に仕え功を重ねた。1568年甲斐・武田氏に誘われ叛き、1年に亘り籠城を続けた末和睦する。1578年御舘の乱では、子顕長が景虎方についたのに対し、景勝方に与した。1588年、出羽庄内攻めにおいても、抜群の働きを示し、最上義光等の軍勢を討ち破る。後に一時浪人するが、上杉氏の会津移封後帰参、米沢移封後は信夫郡福島城代となり、攻め寄せる伊達政宗の大軍を奇策にて散々に討ち破った。


本庄秀綱(ほんじょう ひでつな) ????~????
○清七郎
◇父:本庄美作守慶秀
 越後・長尾氏臣。本庄実仍の後を継ぎ、越後・栃尾城主となる。主に関東方面にて軍役を負担する。御館の乱では景虎方について戦い敗走、会津に逃れた。


本城常光(ほんじょう つねみつ) ????~1561 
○越中守
◇子:本城太郎左衛門、大蔵左衛門尉
 出雲・尼子氏臣。一時、周防・大内氏に仕えるが帰参する。石見・大森銀山を支配し安芸・毛利氏の侵攻を撃退する。後に出雲での加増を条件に毛利に降り、他の尼子方国人衆が毛利氏に次々と寝返るきっかけとなる。その後傲慢な振る舞い多く、謀殺された。


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