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バブル崩壊

総括・平成大不況

[1] バブルへのプレリュ-ド

バブル崩壊」というマスコミ用語が示すように平成の大不況は、バブルの崩壊によって生じた。そこでまずこの[1]では、バブル発生の前兆を述べ、次の[2]でバブル発生の直接的原因とその崩壊の要因を、そして[3]で、なぜ10年にもおよぶ長い不況に陥ったのかが明らかにされる。これによって上記のマスコミ用語の意味内容も理解されよう。

プラザ合意 - レ-ガノミックスによって米国の双子の赤字(財政と貿易)の累積が国内の資金需要を逼迫させ、異常な高金利を生んだ。その高金利を目当てに海外から外国資本が流入しドル高を招き、それが米国の輸出競争力を阻害し、国際収支の赤字がますます累積し、85年には世界最大の債務国に転落した。これがドルに対する不信を募らせドル暴落に危機に直面した。これが世界経済に悪影響を及ぼすことを心配したG5(日米独英仏)は、85年9月ニュ-ヨ-クのプラザ・ホテルでドルの協調的切り下げに合意し、穏やかなドル高是正を図ろうとした。(81年成立したレ-ガン政権は「強いアメリカの再生」を目指し、国防支出拡大、大幅減税を行った結果、双子の赤字を生んだ)

円高不況 - しかし、予想以上のドル安(円高)が生じ、86年に日本経済は輸出低迷によって、経済成長率は前年の4.1%から3.1%に落ち、いわゆる円高不況に陥ったが、5%だった公定歩合の順次引き下げに対応して当時必要とされていた情報化投資等の増加によって景気は急速に回復に向かった。また円高を回避する海外生産のための投資も活発化し、当時は産業の空洞化が懸念されたが、金融や生産面での利益が日本にもたらされ日本経済の成長に寄与した。

ル-ブル合意 -87年になってもドル安(円高)傾向は止まらなかったので、同年2月G7(+カナダ、イタリア)は、パリの旧ル-ブル王宮跡の大蔵省の会議で、ドル相場維持のため米金利高、日独金利安の合意をし、日銀は公定歩合をさらに引き下げ、史上最低の2.5%(87年2月)になった。このような引き下げによる設備投資(情報化投資)の増加や日銀のドル買い(円売り)の円高抑制および企業努力(海外進出=産業の空洞化懸念)等によって景気は回復に向かった。

史上最低の公定歩合維持 -景気は上昇を始めたが、米高官のドル安容認発言がきっかけとなりコンピュ-タ-取引による一斉の株売り行動が、87年10月19日(月)のニュ-ヨ-ク株式市場で起こり、株価を大暴落させた(米23%、日15%の記録的な下落-ブラック・マンデ-)。これがドルを急落させたので、ドル暴落、世界同時不況という昭和恐慌(昭和4、5年頃)を心配した日銀は史上最低の公定歩合を維持しながらドル買い(円売り)を行うという金融緩和策を取った。その結果87年度の設備投資はさらに増加し、経済成長率は4.8%の高い水準を回復した。このような強い成長と金融緩和維持によって、国内にもたらされた過剰貨幣供給は株や土地のバブルを発生させるようになった。そして株や土地の値上がり益(キャピタル・ゲイン)による消費の拡大(資産効果)や設備投資に牽引された内需主導で、88年度は6%という高い経済成長を達成した。この年も金融緩和が維持された理由は、高い経済成長と一般物価の安定が両立していたこともあげられる。

バブル経済は花見酒の経済 - 野村證券が初の利益日本一、四大証券がベストテン入り(87年)
 

[2] 平成不況の第一ラウンド

1) バブルはなぜ発生したか <バブルとは>

Bubbleとは本来は泡のことであるが、経済では資産価格がファンダメンタル(経済の基礎的条件)より決まる価値以上に期待などによって膨れ上がることをいう。花見酒の経済ともいわれる。

金融緩和の長期化 -円高不況克服とル-ブル合意から87年2月に2.5%という史上最低(当時)の公定歩合が実現した。これによって当時必要とされていた情報化のための投資等が活発化し、景気は力強い上昇をみせた。それに伴って株価や地価が上昇し、このキャピタル・ゲインを背景に消費も拡大した。これはいわゆる内需主導型の経済への移行を示すものでもあった。このような状態から日銀はインフレを未然に防ぐために金利の高め誘導を始めたが、同年10月19日のいわゆるブラック・マンデ-による世界同時不況を心配し史上最低の公定歩合は維持された。その後この低金利策はこれはなんと89年(平成元年)の5月まで、27ヶ月(2年半弱)もの長い間続けられた。このような金融緩和維持は国内に過剰な貨幣供給をもたらし株や土地のバブルを発生させたが、当初は高い経済成長と一般物価の安定が両立していたためバブルだとは考えられていなかった。しかし、その年には有効求人倍率が1.3倍と列島改造ブ-ムに沸く73年に次ぐ高い水準になったことや円安傾向(輸出増傾向)が出てきたため、景気の過熱を心配し5月より公定歩合は順次引き上げられるようになった。だがその後も株価は上昇を続け、平成元年12月29日に日経平均株価は3万8915円と最高値をつけた。なおこのときの公定歩合は4.25%(1.75%上昇)であった。

日本的経営賛美-バブル発生は長期に渡った金融緩和策という説明が一般的(経済白書)であるが、緩和策だけでは説明が不充分である(現在の公定歩合は0.5%)。潤沢な貨幣供給の裏付けと共に期待感がなければバブルは発生しない。当時は2度の石油ショックを乗り越え、さらに円高不況も短期的に克服した日本的経営が賛美されていた(しかもこれまでの不況時は一つの例外を除けば3%程度の経済成長はあった)。このような自信が経済成長に裏づけされバブルを生んだ。その背景には戦後の長い成長過程から信じられていた土地神話や株価神話があったことはいうまでもない。日本的経営の特徴(終身雇用・年功序列賃金、企業別組合、企業系列、株式持ち合い、メインバンク制)

銀行の過剰融資 - 神話と含み益が企業が生産の為に必要とする以上の融資をもたらせた。企業はその資金を資産運用に用い土地や株をかった。これが地価や株価の高騰、すなわちバブル(財テク)を引き起こし、これがまた担保価値を増大させ、更なる融資を行わせた。また銀行は潤沢な資金を直接不動産業に貸し付けたり、さらには系列の住専に融資した。これらが地価のバブル(土地転がし)を生んだのである。
 

2) バブル崩壊のきっかけ

平成2年初め米国金利上昇 - 日本の株、債券、円のトリプル安。平成2年3月末には3万円を下回った。この背景には、日本の景気の後退をいち早く察知した投資家の資金が米国へ流出し始めたためである。

公定歩合の引き上げ - 同年8月2日イラク軍のクウェ-ト侵攻(湾岸戦争)による石油価格の上昇によるインフレ懸念を未然に防ぐため8月30日に6%に引き上げた。バブルの行き過ぎを察知しての行動。これにより10月には株価は2万円まで急落した。これは元年の最高値から5割近い下落で株価神話の崩壊を感じさせるものであった。

不動産貸出の総量規制 - 同年3月に大蔵省より銀行等に出された規制によって地価が下落を始めた。地価上昇の行き過ぎを察知しての行動(土地神話の崩壊)。
 

3) 複合不況はなぜ長引いたのか - H.3(91).2からH.5(93).10(32ヶ月)

<複合不況とは>

在庫循環的不況にバブルの崩壊による不況が合成された新型不況である。在庫循環的不況の主要因としては、自動車や住宅等の耐久消費財の在庫過剰が上げられる。特に自動車産業の年間生産能力は平成2年度に1300万台まで膨れ上がり約300万台の過剰在庫を作ったといわれている。不況の1年目は2.9%、2年目は0.4%、3年目は0.5%とこれまでに経験したことのない低成長率で、長さは戦後2番目あった。低成長率は不況の深刻さを示し、長さはこの新型不況に対する政府の認識の甘さや対策の遅れを示しているといえよう。

景気判定のミス - 越智通雄経済企画庁長官は平成3年9月にいわゆる「景気は引き続き拡大している」といざなぎ景気(57ヶ月)超えを宣言した。

バブル影響の過小評価 -バブルについて本格的に述べたのは平成3年度版の経済白書であるが、そこでは「バブルの崩壊の実体経済に与える影響はないわけではないが過度に恐れる必要はない」と楽観的な見通しをしていた。それは平成2年度にバブルは崩壊したが、技術革新、省力化等の投資増があって、その年度の経済成長率は前年度の4.4%よりも高い5.5%であったことなどが影響し正しい認識がなされなかったといえよう。このような政府の判断ミスや過小評価のために経済対策の決定は翌年の8月までなされず、回復を遅らせることになった。一方日銀はバブルを生じさせたという反省もあってか、その年の7月に公定歩合を6%から0.5%下げ、その後も順次引き下げ、政府よりすばやい対応を示したが、しかしこのような従来型の金利引下げだけでは今回のような新型不況には対処できなかった。これが後に日銀の政策を窮地に追い込んで行くことになる。それは何故か?

証券不祥事の影響 - 株価は平成3年3月に一端2万7千円台まで回復したが、6月に損失補填等が発覚し、一般の投資家の不信感を募らせ株価は再び急落し痛手を大きくした。

銀行の不良債権隠し - バブル崩壊で土地を担保とした貸出の多くが不良債権(担保割れや回収見込みがない債権等)を抱えた銀行には信用不安が発生し、経営者の責任問題が起きる。したがって、銀行はそれを隠そうとした。そのために再生の見込みが不安視されていても関連会社などには利子返済のための融資を行ない不良債権に見せないような操作などがされた。これは再生の見込みのないような企業の延命にしかならず、真に資金を必要としている発展可能性のある企業に資金が回らないという貸し渋り現象が起き、景気回復の足を引っ張るだけでなく、中小企業などを連鎖倒産という窮地に追い込み景気をさらに悪化させた。不良債権問題が表面化し始めた平成4年には、銀行の不良債権隠しへの不信から、株価は1万4千円台まで下落した(その年8月)。これはピ-ク時から実に60%ので、昭和恐慌に匹敵する大暴落であった。地価は株価よりも遅れて下落したが、平成2(90)年のピ-ク時から平成4(92)年までは約40%ものこれまでにない大幅下落を経験した。この年に出版された宮崎義一の「複合不況」はベストセラ-になった。

不良債権処理の遅れ - 認識の甘さ(資産価格はやがてまた上昇するだろういう楽観予測)、処理の難しさ(国民負担、経営者のモラルハザ-ド)さらに長い間の保護行政の下でのもたれあい(大蔵省の監督不行き届きの責任や銀行の政府依存体質)などで不良債権処理の本格化は平成10(98)年まで持ち越されることになる。このような問題の先送りが景気の回復の足を引っ張り、やがて第二の平成不況を生むことになるのである。
 
[3] 平成不況の第ニラウンド

1)好況感なき景気(拡張期) - H.5(93).10からH.9(97).3(41ヶ月)

大規模な経済対策 - 不況の3年目の平成5年度に入ってことの深刻さを認識した政府は4、9月そして平成6年2月に財政支出を伴う経済政策を行なった。そして日銀は次々と公定歩合を下げ、その年の9月には史上最低(当時)の1.75%になった。これまでの政府の深刻な不況に対する対応の甘さや遅れは、選挙にも表れ、その年7月の総選挙では、38年間続いた自民党単独政権が終わり、非自民の細川連立政権が誕生した。平成6年度は前年度に行なわれた合計約34兆円にも及ぶ大規模な経済対策にもかかわらず経済成長率は0.6%であった。そこで政府は平成7年度に総計約21兆円の経済対策を追加した。

その他の要因 - 耐久消費財などの一部に在庫循環の上昇局面が表れだしたこと、アメリカやアジアの好景気などが外需を高めたこと。これらの影響が景気を回復させ平成7年度は3.0%、平成8年度は4.4%と成長率を高めた。
 

2)なぜ突如戦後最大の不況がはじまったのか-H.9(97).3から

大幅な増税 - 景気が完全に回復軌道に乗ったと判断した政府は、こまでの景気対策の為に膨れ上がった赤字財政を改善するために平成9年度より消費税の2%引き上げ、特別減税の廃止、医療費の自己負担率の引き上げなどを次々実行した。このような大幅な増税策が消費を落ち込ませる直接の引き金になった。不良債権の根本処理がされないままであったので、これまで景気を下支えしていたのは大規模な財政政策であったが、そのことを忘れ平成7年9月以降その対策を止めてしまったばかりか逆に増税をしてしまうという政府の愚策。

財政構造改革 - さらに平成9年11月に景気対策よりの財政再建を優先させる法案を成立させ、次年度の一般歳出を1.3%も削減するという緊縮予算を組み、景気をさらに悪化させるという失敗。これは翌年の5月改正されるが、このような失敗によって景気がますます悪化してしまったことなどにより、平成10年7月の参院選挙で自民党は大敗し橋本政権は退陣させられた。

不良債権の未処理の表面化 - くしくもその平成9年11月に北海道拓殖銀行、山一證券、三洋証券が不良債権の重圧に耐え兼ねて破綻した。その翌年の後半には長銀、日債銀などが破綻に追い込まれた。これは今回の不況の主要因である不良債権の根本原因を解決せずにきた付けの表れである。つまりその問題を先延ばしにしている間に不況がさらにひどくなり不良債権はますます膨れ上がったのである。これはなにも金融機関だけの問題ではなく、一般企業にもいえることで、これは一層の信用不安を引き起こし、株価などを下落させので、不良債権がさらに増え、銀行はそれをまともにこうむることになる。そうなると銀行は単に貸出が制限されるというばかりでなく、貸付けに臆病になる。これがいわゆる「貸し渋り問題」である。そうなるとますます景気が悪くなるという悪循環を引き起こすことになる。本格的な不良債権処理問題の議論が始まったのは平成10年になってからである。

リストラの問題 - 長期間の不況より生産減少や物価の低下が常態化したため、過剰設備や過剰雇用を解消して事業を再構築する、すなわち企業のリストラクチャリングが起こった。その結果、投資需要は抑制されるので利子率が低下してもそれは盛り上がらない。また過剰雇用は失業を生み、所得の低下やその不安を国民に与え、消費が押さえられた。
 

<政府の役割>

 企業はバブルの時の強気の設備投資が今ではそれが過剰になり、また本業のために銀行などから資金を借りるのではなく、土地や株の値上がりで儲けるために過大な借金をした。このような過剰投資や過剰債務を抱えた企業に対して、日銀がいくら利子率を下げても、投資のための資金需要は盛り上がらない。

 また、家計はリストラの不安から、利子率の低下が貯蓄を減らし消費を増やすという方向には向かわず、逆に貯蓄をふやし消費を控えさせている。

 したがって、このような状況下では、日銀が行う金融政策よりも政府が行う財政政策の役割が重要となる。つまり、簡単にいえば、国民がお金使わない分を政府が使うという経済対策に効果が期待されるが、これも今回の不況の直接の原因である銀行の不良債権問題を早期に解決させなければ、十分な効果を発し得ない。

<経営の変化>

この長い不況は、日本経済が高度成長期から決別する構造変化を伴った。したがって、高度成長過程で可能だった、終身雇用・年功序列賃金体系など日本的経営といわれてきたものが崩壊しようとしている。これからは、賃金の支払われ方が年齢給でなく、業績に見合ったいわゆる実力主義的になろうとしている。

<学生の変化>

 これまでの学生の就職は「業種選び」よりも「会社選び」であった。それは終身雇用制のもとでは、最初に就職した会社に一生勤めるという可能性が高いので、自分の適正に合った業種を選ぶというよりも企業名にこだわっていた。また企業でもそのような状況下では、文科系では特定の能力よりも「ジェネラリスト」を必要とした。それは大学生に特に専門的な学問を学ばせる動機を失わせ、大学生を遊ばせる土壌を生んだ。

  しかし、終身雇用制の崩壊・実力主義は、最初に入った会社に一生勤めるか否かわからなくなるので、「就社」よりも自分の適正に合った「業種」を選ぶ時代になる。自分の実力を発揮できる業種を選んでおけば、例え企業が倒産しても、自分自身は生きていけるのである。

  このような時代になると学生は単に基礎学力(=偏差値)を上げるということでなく、自分の適正に合った学問を修めることが重要となる。そうなると、これからの大学生は実力をつけるために今までのようにのん気に遊んでいられなくなり、大学の授業に期待するようになる。教師の方は、それに答えなければ、学生から見捨てられる時代がくる。