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一条房家

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一条房家 文明7(1475)~天文8(1539)
 一条房家は、近代古典研究発展の礎を築き関白をも勤めた一条兼良の孫にあたる。
 兼良の嫡子で房家の父である教房も関白となったが、応仁の乱の勃発に伴い奈良の大乗院へ避難し、更に応仁2(1468)年10月土佐幡多荘回復のために中村に下向した。教房は中村館に居を構え、京都を模した都市建設を行った。中村では大文字の送り火も催され、小京都として発展した。それと同時に一条家は公卿から戦国大名に転じていったのである。
 房家は当初上洛して仏門に入る予定であったが、父・教房が死に、何らかの理由で上京が中止となり土佐一条家を継承することになった。
 土佐一条家の基盤は房家の代に築かれ、全盛期を現出したのも房家であった。房家は周辺諸豪族を屈服させ、家臣団へと編制していった。
 また、永正5(1508)年に長宗我部兼序が本山・吉良・大平連合軍によって居城・岡豊城を攻められ自刃すると、その嫡子国親を庇護した。国親が房家の庇護下にあったとき、房家が「高楼から飛び降りたら家名を再興させてやる」と言うと国親は本気で飛び降りようとしたという逸話が残っている。
 既に明応3(1494)年に正五位下左近衛少将に昇っていた房家は、永正6(1509)年に従四位上、永正7(1510)年に従三位、永正8(1511)年に右近中将、永正10(1513)年に権中納言と次々に昇進し、永正13(1516)年には上洛して権大納言に任じられた。また、一条本家に子・房通を入嗣させている。
 そして永正15(1518)年、房家は長宗我部の所領を分配占領していた諸豪族を説得し、本領三千貫を取り返し国親に与えた。
 その後も、永正17(1520)年に正三位、大永元(1521)年に従二位、大永6(1526)年に正二位と昇進を重ねた房家は、天文8(1539)12月13日死去した。土佐一条家は房家の曾孫の兼定のとき、長宗我部家に恩を仇で返される形で滅ぼされた。