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南部家

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南部家 盛岡新田(七戸)藩 丸に向かい鶴

                      1万1000石
陸奥上北郡七戸(青森県上北郡七戸町) 
               外様 城主格(安政5年)
移封加減増履歴・文政2年→陸奥盛岡新田1万1000石
江戸城詰席・柳之間 子爵   上屋敷・半蔵門外

■元禄7年(1694)に盛岡藩4代南部行信が弟の政信に5000石を分与したのが、七戸南部家の始まりである。安政5年(1858)に城主格となり、文久3年(1863)に七戸を城地と定め、明治2年(1869)に七戸藩となった。
4代信方はアメリカへ留学し、樹木類の菌を研究したことで知られる。

藩祖・信隣(のぶちか)
旗本南部信喜の子 母は某氏
生没・安永5年(1776)~文政4年(1821)
文政2年(1819)5000石の家督を継いでいたが、盛岡藩10代南部利敬より蔵米6000石を加増され、1万1000石の大名となる
従五位下播磨守
正室・旗本水野忠敞の娘
継室・旗本近藤寿用の娘
子女・2代信誉 女子→七日市藩前田利和室

2代・信誉(のぶのり)
信隣長男 母は某氏
生没・文化2年(1805)~文久2年(1862)
家督・文政5年(1822)相続
従五位下丹波守
正室・三日月藩森長義の娘
子女・養子信民(3代) 
養子謹敦(盛岡藩南部利済の子)

3代・信民(のぶたみ)
南部信也の四男 母は某氏
生没・天保4年(1833)~明治3年(1870)
家督・文久2年(1862)相続
奥羽越列藩同盟に参加していたため明治元年(1868)隠居を命ぜられ、1000石を減封される
従五位下美作守
正室・七日市藩前田利和の娘
継室・谷田部藩細川興建の娘
子女・養子信方(4代)

4代・信方(のぶかた)
盛岡藩南部利剛の三男 母は某氏 
生没・安政5年(1858)~大正12年(1923)
家督・明治2年(1869)相続
従五位
正室・刈谷藩土井利善の娘、後に離縁
継室・宇土藩細川行真の娘

南部家 八戸藩 丸に向かい鶴     2万石

陸奥三戸郡八戸(青森県八戸市) 
               外様 城主格(天保9年)
移封加減増履歴・寛文4年→陸奥八戸2万石
専売品&専売開始年・鉄(元禄9年) 塩(文化3年開始するも2ヵ月で中止、文政9年再開)
江戸城詰席・大広間 子爵
上屋敷・麻布市兵衛町

参勤・宝暦4年(1754)の例→八戸を3月19日発→江戸着4月5日 江戸藩邸には留守居中島武兵衛など18名が詰めていたという
人口・全領地総計7万1852人

                                     寛延2年(1749)現在 

藩祖・直房(なおふさ)
盛岡藩南部利直の七男 母は中里氏
生没・寛永5年(1628)~寛文8年(1668)
寛文4年(1664)兄重直が継嗣を定めず死没し、幕府の裁定により本家盛岡藩は8万石と2万石のニ分割にされ、直房に2万石が与えられる、ところが、分割の4年後の寛文8年に直房暗殺事件が起きてしまうのである
8万石は兄の重信に与えられ盛岡南部家を継いだのであるが、10万石の格式を失った盛岡南部家は新藩の八戸南部家の成立を嫌い、家臣団の編成に際して刺客を送り込み、直房を刺殺してしまう
八戸藩は直房の変死を病死として幕府へ届け、嫡子直政の家督相続を願い出る、しかし直房暗殺の噂は幕府にも伝わり、上使が江戸藩邸に訪れ問い質す、これに対し家老の中里弥次右衛門と山崎勘兵衛が病死と頑強に主張し続け、藩主暗殺による八戸藩除封の危機を免れたという
従五位下左衛門佐
正室・不詳
子女・2代直政 直常

2代・直政(なおまさ)
直房長男 母は川口氏
生没・寛文元年(1661)~元禄12年(1699)
家督・寛文8年(1668)相続
直政は名君であった、砂金で年貢を納入する制度や藩士が積金を出して江戸勤番の費用を融通する無尽制度など藩制の確立に尽力した、また外様でありながら異例の抜擢で将軍綱吉の側衆から側用人に昇格している、さらに盛岡南部家との和解にも心を砕き、正室に行信の娘を娶り、継嗣がいないことから重信の四男を養子に迎えている
元禄元年(1688)側用人に進む
元禄2年(1689)側用人を辞任
従五位下遠江守
正室・盛岡藩南部行信の娘
子女・養子通信(3代)

3代・通信(みちのぶ)
盛岡藩南部重信の四男 母は某氏
生没・延宝元年(1673)~享保元年(1716)
家督・元禄12年(1699)相続
従五位下遠江守
正室・大聖寺藩前田利明の娘
子女・4代広信 修理

4代・広信(ひろのぶ)
通信長男 母は桂氏 
生没・宝永3年(1706)~寛保元年(1741)
家督・享保元年(1716)相続
従五位下甲斐守
正室・亀山藩松平信庸の娘
子女・5代信興

5代・信興(のぶおき)
広信長男 母は遠山氏
生没・享保8年(1723)~安永2年(1773)
家督・寛保元年(1741)相続
従五位下左衛門尉
明和2年(1765)隠居
正室・芝村藩織田長亮の娘
子女・6代信依

6代・信依(のぶより)
信興長男 母は正室織田長亮の娘
生没・延享4年(1747)~天明元年(1781)
家督・明和2年(1765)相続
従五位下甲斐守
正室・伊予吉田藩伊達村信の娘
子女・7代信房 信真(信房養子、8代)

7代・信房(のぶふさ)
信依長男 母は某氏
生没・明和2年(1765)~天保6年(1835)
家督・天明元年(1781)相続
従五位下伊勢守
寛政8年(1796)隠居
正室・新発田藩溝口直養の娘
子女・養子信真(8代)

8代・信真(のぶまさ)
6代信依の三男 母は某氏
生没・安永7年(1778)~弘化3年(1846)
家督・寛政8年(1796)相続
従五位下左衛門尉
天保13年(1842)隠居
正室・小田原藩大久保忠顕の娘
子女・信経 信一 女子→西大路藩市橋長富室 
女子→高取藩植村家貴室 
養子信順(9代) 女子→信順室

9代・信順(のぶゆき)
薩摩藩島津重豪の五男 母は某氏
生没・文化10年(1813)~明治4年(1871)
家督・天保13年(1842)相続
従四位下遠江守
正室・信真の娘
子女・栄信 女子→櫛笥隆義室
女子→水口藩加藤明実室
養女→高取藩植村家壺室

南部家 盛岡藩 丸に向かい鶴  20万石格

陸奥岩手郡盛岡(岩手県盛岡市 )  外様 城主
正保城絵図・盛岡城
移封加減増履歴・陸奥盛岡10万石・寛文4年→8万石・天和3年→10万石・文化5年→20万石格
専売品&専売開始年・領内の全産物(弘化4年、産物会所・藩札会所による専売) 鉄(嘉永2年)
江戸城詰席・大広間 伯爵
上屋敷・外桜田、愛宕下三方小路
参勤・例年4月参府、享保6年幕府供人数制限令では10万石以上は、馬上10騎・足軽80人・中間人足140~150人と規定されたが、当家の供人数は江戸中期で500~600人、規定が改正された後期で300人ほど。江戸まで15日間の道中
人口・全領地総計35万8222人、この内男19万6612人、女1610人
盛岡城下町に限ると1万6909人、この内男9310人、女7599人 宝暦5年(1755)現在
当家の藩政改革はこちらを参照
南部家の祖は、新羅三郎源義光より6代の孫の南部光行である。初め甲州南部郷にあったが、源頼朝の奥州征伐以降は糠部郡三戸を本拠とした。
戦国末期には現在の青森県全域と岩手県東域を領していたが、藩祖利直の父信直の代に、青森県東域と岩手県のほぼ全域の10万石を領地とするよう豊臣秀吉に命じられている。
関ヶ原・大坂の陣では徳川方に属し、10万石の所領は安堵された。

藩祖・利直(としなお)
南部信直の長男 母は某氏
生没・天正4年(1576)~寛永9年(1632)
従四位下信濃守
家督・慶長4年(1599)相続
正室・蒲生氏郷の義妹(氏郷は会津92万石の国主、正室は織田信長の娘、氏郷没後に子秀行は宇都宮12万石へ減知移封、関ヶ原の戦いで家康方に与し会津60万石を与えられる、が、秀行を継いだ子忠郷に継嗣なく除封となるところ母が家康の娘であったため忠郷の弟忠知の相続が許され伊予松山24万石へ減知移封、が、忠知に継嗣なく蒲生氏は除封断絶となる)
子女・2代重直 女子→最上義俊室(出羽山形57万石の藩主だったが家中騒動から除封、名跡相続として近江大森1万石が与えられるも、さらに5000石減知となり旗本[交代寄合]として存続する)、その後に離縁
重信(重直養子、3代) 直房(別家八戸藩藩祖)
2代・重直(しげなお)
利直長男 母は蒲生氏郷の義妹
生没・慶長11年(1606)~寛文4年(1664)
家督・寛永9年(1632)相続
継嗣を定めずに死没したため無嗣除封の危機に陥るも、古来からの名家により、弟の重信に8万石、直房に2万石を分け与えることになる
従五位下山城守
正室・水口藩加藤嘉明の娘
子女・養子勝直(佐倉藩藩祖堀田正俊の弟) 
養子重信(3代)
3代・重信(しげのぶ)
藩祖利直の五男 母は某氏
生没・元和2年(1616)~元禄5年(1692)
家督・寛文4年(1664)相続
従四位下大膳大夫
正室・家臣玉山秀久の娘
子女・4代行信 女子→鳥取藩池田綱清室
女子→播磨山崎藩本多忠英室、後に有馬豊祐室(豊祐は筑後松崎藩主だったが親類大名家の家中騒動を相談されたにも拘らず放置したため除封)
政信(別家) 勝信(別家)
通信(八戸藩南部直政養子)

4代・行信(ゆきのぶ)
重信長男 母は某氏
生没・寛永19年(1642)~元禄15年(1702)
家督・元禄5年(1692)相続
従四位下信濃守
正室・長門府中藩毛利光広の娘
子女・女子→郡上藩青山幸督室 
女子→丹後田辺藩牧野英成室 
女子→八戸藩南部直政室
女子→豊後佐伯藩毛利高久室 5代信恩 
利幹(信恩養子、6代) 
女子→福岡藩黒田宣政室
5代・信恩(のぶおき)
行信三男 母は某氏 
生没・延宝6年(1678)~宝永4年(1707)
家督・元禄15年(1702)相続
従五位下備前守
正室・長門府中藩毛利綱元の娘
子女・女子→高槻藩永井直期室 
養子利幹(6代) 利視(利幹養子、7代)
6代・利幹(としもと)
4代行信の四男 母は某氏 
生没・元禄2年(1689)~享保10年(1725)
家督・宝永4年(1707)相続
従五位下大膳亮
正室・蜂須賀隆長の養女(隆長は阿波富田藩2代藩主、富田藩は3代続いた後に本家併合・廃藩)
子女・養子利視(7代) 利雄(7代利視養子)

7代・利視(としみ)
5代信恩の三男 母は某氏 
生没・宝永5年(1708)~宝暦2年(1752)
家督・享保10年(1725)相続
従四位下大膳大夫
正室・高田藩榊原政邦の娘
子女・養子利雄(8代) 
女子→丹後田辺藩牧野惟成室 
利正(利雄養子、9代)

8代・利雄(としかつ)
6代利幹の次男 母は某氏
生没・享保10年(1725)~安永8年(1779)
家督・宝暦2年(1752)相続
従四位下大膳大夫
正室・加賀藩前田吉徳の養女
子女・利謹(嫡子を辞退) 養子利正(9代)
女子→熊本新田藩細川利庸室

9代・利正(としまさ)
7代利視の七男 母は某氏
生没・宝暦2年(1752)~天明4年(1784)
家督・安永3年(1774)利雄の養子となり、安永9年(1780)相続
正室・一門南部信起の娘
子女・女子→彦根藩井伊直中室 10代利敬
女子→高崎藩松平輝延室

10代・利敬(としのり)
利正次男 母は某氏
生没・安永8年(1779)~文政3年(1820)
家督・天明4年(1784)相続
正室・広島藩浅野重晟の娘
子女・養女(高崎藩松平輝延の娘)
養子利用(11代・前) 
養子利用(11代・後)
11代・前・利用(としもち)
一門南部信丞の長男 母は某氏 
生没・文化4年(1807)~文政4年(1821)
家督・文政3年(1820)相続
正室・なし
子女・なし
11代・後・利用(としもち)
一門南部信浄の三男 母は某氏
生没・享和3年(1803)~文政8年(1825)
家督・文政4年(1821)利用の急死により身代わりとして参府、そのまま相続
正室・加賀藩前田斉広?の娘
子女・養子利済(12代)
12代・利済(としただ)
8代利雄の子利謹の次男 母は某氏 
生没・寛政9年(1797)~安政2年(1855)
家督・文政8年(1825)相続
従四位下信濃守
嘉永元年(1848)隠居
正室・10代利敬の養女
継室・家老楢山隆冀の妹
子女・13代利義 利剛(利義養子、14代) 
謹敦(盛岡新田藩南部信誉養子)

13代・利義(としとも)
利済長男 母は某氏  
生没・文政6年(1823)~明治21年(1888)
家督・嘉永元年(1848)相続
正四位甲斐守
嘉永2年(1849)隠居
正室・彦根藩井伊直亮の娘
子女・養子利剛(14代)

14代・利剛(としひさ)
利済次男 母は某氏  
生没・文政9年(1826)~明治29年(1896)
家督・嘉永2年(1849)相続
奥羽列藩同盟に参加していたため、明治元年(1868)隠居を命ぜられ領地を収公される
正三位美濃守
正室・水戸藩徳川斉昭の娘
子女・女子→華頂宮博経親王室 15代利恭
英麿(大隈重信養子) 
信方(盛岡新田藩南部信民養子) 
女子→肥前小城藩鍋島直虎室
15代・利恭(としゆき)
利剛長男 母は某氏 
生没・安政2年(1855)~明治36年(1903)
家督・明治元年(1868)相続、陸前白石13万石が新たに与えられ、明治2年(1869)版籍奉還後に盛岡へ復す
従二位甲斐守
正室・宇和島藩伊達宗城の娘
継室・新発田藩溝口直溥の娘
継室・浅野懋昭の娘(広島藩13代長勲の妹)

南部家 八戸藩 丸に向かい鶴     2万石

陸奥三戸郡八戸(青森県八戸市) 
               外様 城主格(天保9年)
移封加減増履歴・寛文4年→陸奥八戸2万石
専売品&専売開始年・鉄(元禄9年) 塩(文化3年開始するも2ヵ月で中止、文政9年再開)
江戸城詰席・大広間 子爵
上屋敷・麻布市兵衛町

参勤・宝暦4年(1754)の例→八戸を3月19日発→江戸着4月5日 江戸藩邸には留守居中島武兵衛など18名が詰めていたという
人口・全領地総計7万1852人

                                     寛延2年(1749)現在 

藩祖・直房(なおふさ)
盛岡藩南部利直の七男 母は中里氏
生没・寛永5年(1628)~寛文8年(1668)
寛文4年(1664)兄重直が継嗣を定めず死没し、幕府の裁定により本家盛岡藩は8万石と2万石のニ分割にされ、直房に2万石が与えられる、ところが、分割の4年後の寛文8年に直房暗殺事件が起きてしまうのである
8万石は兄の重信に与えられ盛岡南部家を継いだのであるが、10万石の格式を失った盛岡南部家は新藩の八戸南部家の成立を嫌い、家臣団の編成に際して刺客を送り込み、直房を刺殺してしまう
八戸藩は直房の変死を病死として幕府へ届け、嫡子直政の家督相続を願い出る、しかし直房暗殺の噂は幕府にも伝わり、上使が江戸藩邸に訪れ問い質す、これに対し家老の中里弥次右衛門と山崎勘兵衛が病死と頑強に主張し続け、藩主暗殺による八戸藩除封の危機を免れたという
従五位下左衛門佐
正室・不詳
子女・2代直政 直常

2代・直政(なおまさ)
直房長男 母は川口氏
生没・寛文元年(1661)~元禄12年(1699)
家督・寛文8年(1668)相続
直政は名君であった、砂金で年貢を納入する制度や藩士が積金を出して江戸勤番の費用を融通する無尽制度など藩制の確立に尽力した、また外様でありながら異例の抜擢で将軍綱吉の側衆から側用人に昇格している、さらに盛岡南部家との和解にも心を砕き、正室に行信の娘を娶り、継嗣がいないことから重信の四男を養子に迎えている
元禄元年(1688)側用人に進む
元禄2年(1689)側用人を辞任
従五位下遠江守
正室・盛岡藩南部行信の娘
子女・養子通信(3代)

3代・通信(みちのぶ)
盛岡藩南部重信の四男 母は某氏
生没・延宝元年(1673)~享保元年(1716)
家督・元禄12年(1699)相続
従五位下遠江守
正室・大聖寺藩前田利明の娘
子女・4代広信 修理

4代・広信(ひろのぶ)
通信長男 母は桂氏 
生没・宝永3年(1706)~寛保元年(1741)
家督・享保元年(1716)相続
従五位下甲斐守
正室・亀山藩松平信庸の娘
子女・5代信興

5代・信興(のぶおき)
広信長男 母は遠山氏
生没・享保8年(1723)~安永2年(1773)
家督・寛保元年(1741)相続
従五位下左衛門尉
明和2年(1765)隠居
正室・芝村藩織田長亮の娘
子女・6代信依

6代・信依(のぶより)
信興長男 母は正室織田長亮の娘
生没・延享4年(1747)~天明元年(1781)
家督・明和2年(1765)相続
従五位下甲斐守
正室・伊予吉田藩伊達村信の娘
子女・7代信房 信真(信房養子、8代)

7代・信房(のぶふさ)
信依長男 母は某氏
生没・明和2年(1765)~天保6年(1835)
家督・天明元年(1781)相続
従五位下伊勢守
寛政8年(1796)隠居
正室・新発田藩溝口直養の娘
子女・養子信真(8代)

8代・信真(のぶまさ)
6代信依の三男 母は某氏
生没・安永7年(1778)~弘化3年(1846)
家督・寛政8年(1796)相続
従五位下左衛門尉
天保13年(1842)隠居
正室・小田原藩大久保忠顕の娘
子女・信経 信一 女子→西大路藩市橋長富室 
女子→高取藩植村家貴室 
養子信順(9代) 女子→信順室

9代・信順(のぶゆき)
薩摩藩島津重豪の五男 母は某氏
生没・文化10年(1813)~明治4年(1871)
家督・天保13年(1842)相続
従四位下遠江守
正室・信真の娘
子女・栄信 女子→櫛笥隆義室
女子→水口藩加藤明実室
養女→高取藩植村家壺室

大名