0o0dグッ

大関高増

あ?

大関高増 大永7(1527)~慶長3(1598)
 那須七党の一つである大田原家当主の資清は、同じく那須七党の一つである大関宗増の讒言によって那須家を追放された。しかし24年後、資清は宇都宮家の助力を得て宗増の子・増次を奇襲により討ち取り、長男を宗増の養子として大関家を乗っ取ることに成功した。このとき大関家当主となった資清の長男が大関高増である。また、資清は那須七党の福原家にも次男・資孝を送り込んでいる。
 天文20(1551)年、那須家当主・高資が那須七党の千本資俊に討たれると高増は、高資の弟で自らの甥に当たる那須資胤を当主に立てることに成功した。永禄3(1560)年、父・資清の死で箍が外れた高増は、姉婿の佐久山義隆を殺害した。
 甥を那須家当主とし、邪魔者を次々に殺害した高増は絶頂にあったが、甥・資胤が反抗的な態度をとり出したため、2人の弟(福原資孝・大田原綱清)とともに佐竹義重に内通した。永禄9(1566)年、高増は義重の援軍を得て資胤を攻め、翌年、降伏させた。勝利を収めた義重は資胤を隠居させ、弟・義尚(那須資綱)を那須家当主に据えた。高増はそれと同時に隠居を命じられた。ちなみに、佐竹義尚は間もなく那須家を追放され、資胤の子・資晴が当主となっている。
 一度は義重に従い隠居した高増だったが、北条家佐竹家に対する攻撃が激化すると義重を裏切った。那須家に戻った高増は当主・資晴を操って、那須七党の伊王野家と蘆野家を取り込み、千本資俊・資政父子を殺害して七党をまとめあげた。
 天正18(1590)年、秀吉は小田原征伐に当たって諸大名に参陣を要請した。高増は資晴に秀吉への恭順を求めたが、資晴は応じなかった。そこで高増は資晴を見捨て、三弟・大田原綱清とともに秀吉の下に走り所領を安堵された。尚、資晴の子・資景は5000石を受けている。高増は慶長3(1598)年没するが、跡を継いだ資増は家康に所領を安堵され黒羽藩初代藩主となった。