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宇喜田能家

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宇喜田能家 ?~天文3(1534)
 宇喜田久家の子。能家は備前守護代・浦上家に3代に渡って仕えた。備前の守護は赤松家で、浦上家はその家臣である。
 明応6(1497)年、浦上家当主則宗の嫡男・宗助は松田元勝の支城・富山城を攻めたが、敗れて逆に口山城に包囲された。このとき能家は奇抜な策略で宗助を救出した。明応8(1499)年、浦上則宗が一族の浦上村国に敗れたときは、則宗の家臣に村国につく愚を説き離反を未然に防いだ。
 能家は文亀2(1502)年、矢津峠で金川城主・松田元勝と戦い、翌年にも牧石河原で戦って破っている。
 文亀2(1502)年に浦上家を継いだ村宗は、守護・赤松義村と不和であり、永正15(1518)年、居城三石城を攻められた。主家の攻撃に恐れをなした者は逃亡したが、能家はこの者たちを説得し兵の流出を最小限に食い止めた。その結果、村宗は義村の撃退に成功した。翌年、村宗の弟で香登城主の浦上宗久が義村と結び謀反を企てたが、この異変にいち早く気付いた能家は村宗の応援で宗久を追放し、香登城を預かった。永正17(1520)年、三石城が容易に落ちないと見た義村は、美作の浦上方の諸城を攻撃した。能家は僅かな兵で飯岡原において義村の大軍と戦い、勝利を得た。
 大永2(1522)年、村宗に追放されていた浦上村国、小寺藤兵衛が播磨に戻ったため、村宗は翌年播磨に兵を送った。能家も参戦したが、この戦いで次男を殺された能家は常ならぬ奮戦を見せ、勝利した。この奮戦を聞いた管領・細川高国は名馬と名釜を能家に送っている。
 能家は村宗が細川晴元、三好元長と戦い討死した後、砥石城に隠退し、薙髪して常玖と号した。しかし天文3(1534)年、自らの浦上家中での権力拡大を図る島村盛実(貫阿弥)に攻められ、自害した。