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山中鹿之介

山中鹿之介
天文14(1545)~天正6(1578)

 天文14(1545)年、鹿之介は出雲国新宮山中屋敷で山中三河守満幸の次男として誕生した。
 天文23(1554)年、尼子家当主晴久により新宮党の尼子国久が粛清されたが、後に鹿之介が擁立することになる幼い勝久(国久の孫)は密かに逃がされた。弘治2(1556)年に晴久嫡男の義久の近習となり、永禄3(1560)年には幸盛と名を改めた。同年、伯耆尾高城攻めでは敵方の驍将菊池音八正茂を一騎討ちで破った。
 毛利元就の尼子攻めが始まると、晴久は謎の死を遂げ義久が家督を相続した。毛利軍は月山富田城の支城を次々に陥れ、遂に月山富田城を残すのみとなった。元就は富田城を包囲し、兵糧攻めの作戦を採った。そのような状況の中で、鹿之介は毛利方の品川大善(木或木狼之介勝盛)と一騎討ちをしてこれを破っている。尚、品川大善は益田藤兼の配下である。
 永禄9(1566)年、尼子義久が降伏し幽閉されると、尼子家臣の多くは毛利家に従ったが、鹿之介は叔父の立原源太兵衛久綱や隠岐水軍の奈佐日本之助らとともに尼子家を再興すべく動き始める。まず鹿之介は、久綱の計らいで織田信長の援助を受け、京で僧になっていた尼子誠久の遺児を還俗させ、尼子勝久と名乗らせた。尼子家再興の旗頭としたのである。
 元就が九州の大友攻めに向かうと、鹿之介らはその隙を突いて、月山富田城に迫った。富田城には尼子方の7分の1の兵力しか毛利勢がおらず、城将天野隆重は早速降伏を申し入れてきた。しかし、鹿之介らがこれを受け入れ、兵を入城させ始めると、隆重がこれに一斉攻撃をかけたため多くの犠牲を出した。また、この頃、大内輝弘(大内義興の甥との説もある)も山口に攻め込んでいる。一方の元就は高橋鑑種、秋月種実、立花鑑載を寝返らせ、立花城を陥れる快進撃を続けていた。しかし、勝久、輝弘の侵攻を知ると、吉川元春、小早川隆景の反対を押し切って立花城を捨て、兵力を中国に送った。尼子勝久軍6700は毛利輝元軍15000と元亀元(1570)年2月14日、月山南方の布部山で激突した。しかし、戦いは数で勝る毛利軍の勝利となり、鹿之介は捕らえられた。鹿之介は下痢と偽り、厠に何度も入り、肥え壺を通って脱出する事に成功した。
 天正2(1574)年9月、鹿之介らは毛利入道浄意の僅かな兵しかいない因幡鳥取城を陥落させた。しかし、信長が毛利輝元と和睦したため泣く泣く兵を引いた。
 天正5(1577)年、鹿之介らは秀吉の中国攻めの先鋒をつとめた。秀吉は上月城を陥れると、これを鹿之介らに与え守りにつかせた。しかし、毛利の反応は素早く、吉川元春、小早川隆景が数万の大軍を率いて来寇した。尼子方は秀吉の来援まで持ちこたえられず、勝久は自刃し、鹿之介は捕らえられた。鹿之介は最期まで諦めず、元春の首を狙ったが護送途中に殺害された。