0o0dグッ

山県昌景

山県昌景(やまがた まさかげ)
1529?~1575 
○飯富氏 源四郎 三郎兵衛尉

子:山県源四郎昌満、上村左兵衛昌久
養子:山県善右衛門(三枝守友)

 甲斐・武田氏の四名臣の1人。兄(実母弟とも)飯富虎昌が謀反を起こそうとした際には、これを当主信玄に知らせて信任を得た。その後、譜代の名家で誅絶していた、山県河内守虎清の跡を継いだ。軍装を赤で統一した部隊を率いて、諸戦で戦功を挙げ、駿河侵攻後は駿河・江尻城代となる。特に城攻の短期決戦はお家芸との定評があった。また軍事だけではなく、内政、外交等あらゆる面で手腕を発揮した。三方ヶ原の戦いでは先鋒を務めて徳川軍を攻撃、家康に死を覚悟させた程の働きを見せる。信玄の信頼厚く、その死に呼ばれ“明日は瀬田の唐橋に旗を立てよ”と遺命されたという。しかし、長篠の合戦において自重を進言するが容れられず、敵中突撃して銃弾を受け、馬上にて戦死。