0o0dグッ

木賀家

木賀家

…源頼朝に仕える御家人であった。(木賀家自体が源氏の一派から分流している?)木賀善司吉成(きが ぜんじ よしなり)という人は、文武に優れながらも病にかかり、箱根の温泉で療養したところ回復し、その温泉は“木賀温泉”と名づけられた。その後胤が新潟・妙高に落ち延び、そこで一大庄屋となり、(良い意味で)権勢を振るっていた。家紋は“蔦”。

もともとは、源頼朝に仕える御家人(初代は木賀善司吉成か?)でした。最近調べたところでは、木賀家自体が源氏の一派(後醍醐天皇の第3皇子である、宗良親王の末裔)から分流しているようです。(ただし、何故に発祥する時期が後醍醐天皇の登場してくる時代という、鎌倉幕府の終焉期の話になるのか…?)家紋は“蔦”。

まずは、木賀温泉について。『七湯枝折』で次のように書かれています。
「往昔源頼朝公のみうちに、木賀善司吉成といへる人あり、文武の佳名世に聞へて五常を正しく行ひ、又三宝をたうとめり、しかるに齢ひ半に過ぬる頃、俄に風の心地ありて漸々四躰のはたらきを失ふ、是によつて幾許の医療を加へしかどもしるしを得ず、死に近かりけり、時に一人の老僧来りて…(中略)…老僧岩間をゆびさして涌甘露消湯咸除衆病悩ととなへ給へば、指さす所に随て温泉涌出たり、吉成あまりに尊く覚へて御跡を三たひ礼拝して温泉に浴す、初めの七日に血さわぎたち、次の七日には血おさまりて、病全くいえぬ、…」
つまり…源頼朝の(身内or御内)の木賀善司吉成は、文武に優れ五常(儒教で言う仁・義・礼・智・信)を正しくとりおこない、また三宝(仏・法・僧)を尊んでいた武将であった。ところが、年齢も半ばになった時、にわかに気分が優れず徐々に病が悪化し、いくつもの治療を施しても全く効果がなく、死に向かう一方であった。その時、一人の老僧が現れて「涌甘露消湯咸除衆病悩」と唱えた後、指さす先には温泉が涌き出てきた。とてもありがたく思い、何度も礼をしてその温泉に入ると、最初の七日間は血がさわぎたち、次の七日間はさわぎたつのがおさまり、病は完全に癒えた。
このような出来事があり、この温泉は“木賀温泉”と名づけられ、現在は温泉宿こそ無いものの、地名として、そして箱根七湯の一つとして、はっきり残っています。

木賀温泉付近にある“木賀の里”バス停

↑このような標識柱もたっている

詳細は定かではありませんが、新潟県妙高村で発行された“妙高村史”には、新田義貞に従って箱根湯本の戦いで敗れたため、樽本の地へ逃げ込んだとあります。(ちなみに、)確かに、家のつくりなどに武家であったというような点が見られます。(例:築地はただ土を盛っただけではなく、そこに笹を植えることで―笹は、葉が触れ合うと“カサカサ”と音を立てるためであろう―敵の侵入をいち早く察知できるようにした。また、多くの刀など、武器を所持していた。)そして、代々“木賀又兵衛”を名乗ってきたようです。

※最近調べたところ、室町時代・応永年間に、足利氏満の家臣として“木賀彦六左衛門尉入道秀澄”の名前が見られました。

この間の資料(江戸期のもの?)を一部。これらは、木賀家の資料と言うだけでなく、豊葦地区の資料とも言えるのではないでしょうか。

↑樽本村役元の長櫃鍵?です。木賀本家である又兵衛家が断絶したため、現在は小出家が所蔵。

次に、九條殿御用の木札(表側)です。荘園関係ではないかと言われています。(小出家所蔵)

↑上と同じく、九條殿御用の木札(裏側)です。焼印がついています。

↑浄土真宗・本願寺第8世蓮如の子供であり本願寺第9世である、実如の御裏書・花押(現代語で一言にすればサイン)がある、大きめの阿弥陀如来像掛軸です。(小出家所蔵)

こうして、江戸期は樽本村の一大庄屋として活躍していきます。

天保12年4月6日、木賀三四郎という人が生まれます。この人が、木賀家歴史でもっとも輝かしい、偉業を成し遂げた人といっても過言ではないかと思います。そして、豊葦村(妙高村の前身の一つ)に一番貢献した人ではないかと思います。しかし、三四郎と三四郎がおこなった事業に関しては、“妙高村史”では一切触れられておらず、また、他の歴史書などでも触れられていないような気がします。さて、その事業とは一体何か…。それは、私財を投げうって樽本の山を刳り貫き、樽本の地に灌漑用水(峠隧道用水)を建設したということです。

まず、樽本地区(上樽本)は標高700m前後に位置する部落です。険しい山中のため農業用水は乏しく、これが原因となり水田開発は大変な遅れを見せていました。木賀三四郎家(木賀本家)や、その他の三地主・自作農家の20数戸は飯米以外の残った米を換金することが出来たものの、先の農家以外30数戸はようやく飯米を確保する程度でした。そのため、多くの人々が山に分け入り、炭焼きを行なったり、畑作に力を入れたりしていました。
樽本地区には完全に川が無いというわけではありませんでしたが、すべて農業用水としては不向きで、殆どの水田が湧水や溜池の水を使っていました。しかし、溜池は雪融け水や雨水を利用したものであったため、日照り続きの年などは、大打撃を受けていました。
そこで明治19年に、斑尾川からの灌漑用水を引くため、木賀三四郎は国鉄高崎線の延長(後の信越本線・横軽区間)上にある、碓氷トンネルの工事にヒントを得て、私費でこの難事業を起こしたというわけです。

ちなみに、何故に碓氷トンネルか…実は、瑞泉寺というお寺の世話人をしていた木賀三四郎は、たまたまこのお寺の用事で数回ほど東京へ出向くこととなりました。当然、今のように鉄道網や道路網が整備されているはずもなく、高崎までは往復とも徒歩であったということだそうな。そこで見たものこそが、国鉄高崎線の延長工事、すなわち、信越本線碓氷峠のトンネル工事であった。

明治19年…測量を行ない、木賀三四郎らにより事業が起こされる
明治20年1月…着工(岩盤に石のみが打ち込まれる。坑口は幅1.2m、高さ1.8m)
 *岩盤が硬く、大変な難工事となり、この期間に石工・坑夫が相次いで逃げ出し、工事は一時的に中断。
明治21年…木賀三四郎、中頸城郡豊葦村(大区小区制でいう、第十大区小壱区四番組)の村長となる
明治21年12月…一時中断していた工事が再開される・峠呑用水約定証が完成(後に破棄)
 ※峠呑用水約定証とは…工夫への賃金、土地に関すること、平均5日は労役に就くこと、用水使用のきまり、これら4つ(それぞれ大意)の事項を定めたもの。
 *極度に硬い岩盤にあたり、1日にわずか5cm進行という状況であった。坑夫らが逃げ出すのを、少しでも防ごうと、未婚の坑夫に対しては嫁の世話をした。しかし、またもや坑夫の逃亡が相次ぎ、工事が中断。
明治22年…中断していた工事を再開。これが3度目の正直となり、ついに隧道部分が開通。村内約定が再び結ばれ、ようやく部落全体の事業となる
 *隧道開通時、途中で1.8mもの段差があったが、左右の狂いはなく、ただ上下のずれのみで、しかも奇跡的に取り入れ側が高かった。当時の発達していない測量技術ではあったが、隧道工事はここに無事完工した。
明治23年…幹線および支流路の工事が部落全体で実行に移される
明治26年5月…木賀三四郎が起工してから7年、峠隧道用水がついに完成
大正元年8月…木賀三四郎を称える石碑を建立

こうして、用水は何とか開通し、樽本の地を今まで以上に潤したのでした。
用水計画当時の上樽本の水田は、約15.4haでした。そのうちの3.5haを溜池から灌漑用水へ切り替え、新規開田の7haをあわせた10.5haの夢は、20年後の大正元年にはなんと1haも上回る勢いを見せ、その後も開発が進み大正末期には27ha、多いときには約40haまでをも見たのでした。
つまり、わずかな収入で耐えてきた農家が、一気に水田耕作農家へ転身したというわけです。

先に挙げていますが、これを記念した石碑も、樽本には建っています。しかし、これもひどい話で、現在通っている道は新道、旧道側に向けて建てられた石碑は、新道建設の際に向きが変えられず、そのため現在の道に背を向けてしまっているのです。

↑後ろに車が見えるとおり、新道に対して背を向けてしまっている。

また、木賀三四郎は、家に盗賊が入った際に刀で応戦し(江戸期の話)、負傷しながらも盗賊を斬り、その首を庭に埋めたといわれています。

こうして現代に至り、平成14年に木賀本家である又兵衛家は跡継ぎがいなく、断絶という形になってしまいました。(私の祖母とその妹1人の計2人が、又兵衛家直系最後の人間。なお、又兵衛家の血に近いものは、私も含んでまだ多くいる。)
木賀家に関しては、歴史的価値のあるものや古文書の殆どが、豪雪による木賀家住宅倒壊やそのどさくさに紛れて入った泥棒に盗まれたり、戦時中に曾祖父が関東へ出ていた際に遭った空襲で紛失あるいは先のようにどさくさに紛れて入った泥棒に盗まれているため、詳細は掴み難くなってしまっています。なお、ほんの一部のものは、私の家に保管されています。

※なお、一部の古文書類に関しては、旧妙高村役場へ行ったきり戻ってこない、と言う説もあります。…以前役場へ聞いたときには、「すべて返却済み」ということらしいんですがねぇ。
ちなみに、あるはずなのに現物未確認なものが、豊葦地区の謎を解く上で、かなりの重要度を誇っているっていう…(例:沼集落七十軒の事、小出家の事etc.)

<関連リンク

 ・神奈川県箱根町

 ・箱根町観光協会