0o0dグッ

浅井亮政

あ?

浅井亮政 ?~天文11(1542)
 亮政は浅井分家の直種の子で本家・直政の女婿となって家督を継いだと考えられる。浅井家は北近江の守護・京極家の一家臣で、亮政は京極高清に仕えた。
 大永3(1523)年、高清は京極家の家督を2人の子のどちらに譲るべきかを協議するため家臣団を集めた。この会議では当時権勢を誇っていた守護代・上坂信光が弟・高吉を推したため、継承者はあっさり決まった。(ちなみに、高吉の子・高次は亮政の曾孫を娶っている。) しかし、京極家臣団には上坂信光を快く思わない者が多く、京極家臣の浅見貞則を中心とする国人領主たちは、兄・高延を擁立して京極高清、上坂信光と敵対した。このとき、亮政も国人領主の一人として浅見貞則に加担した。先制攻撃をかけたのは上坂信光だったが、国人一揆が反撃に転じたため信光は今浜城まで退き、そこで戦いとなった。信光は勢いに乗る国人一揆の攻撃を支えることができず、城を捨てて逃亡した。
 今浜城の戦い後、浅見貞則が権力を握り専横を極めたため、今度は貞則に対する不満が高まりつつあった。これを見た亮政は、貞則に不満を持つ国人領主たちを糾合し、大永5(1525)年、貞則を倒すことに成功した。しかし間もなく南近江の六角定頼の攻撃を受け、窮地に立たされた。亮政はこの難局を乗り切るため越前の朝倉孝景を頼った。孝景も一向一揆と交戦する関係上、浅井家を敵にまわしたくは無かったため、これを受けた。亮政は朝倉教景の援助を受けたが、戦後出奔した。尚、亮政はこの後も朝倉家に度々援助を受けている。
 翌大永6(1526)年、亮政は復帰し、享禄元(1528)年8月、上坂信光が京極高吉を擁して侵攻して来ると、京極高延に従いこれを内保河原で破った。享禄4(1531)年4月には、細川晴元の要請に応じ箕浦表で六角定頼と戦うが敗れた。
 天文3(1534)年8月20日、亮政は小谷城に京極高清、高弥父子を招いて饗応した。これによって完全に北近江の実権を握った亮政は自ら知行安堵状の発行を行い、掟を定めるようになった。天文4(1535)年正月、六角家に寝返った京極家臣・多賀貞隆を京極高延が討とうとして敗北したため、亮政は六角定頼の攻撃を受けた。天文7(1538)年9月にも六角家と海津で戦い敗れている。天文10(1541)年、実権を握る亮政を煙たく感じていた高延が挙兵し、その戦争中の天文11(1542)年正月6日、亮政は急死した。
 その後、亮政の子・久政は六角家に臣従し、孫・長政の代に独立して信長と結ぶが、大恩ある朝倉家との関係を清算できず3代で滅んだ。