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渡辺了

渡辺了(わたなべ さとる)
1562~1640
勘兵衛 吉光? 印斎 水庵
父・渡辺右京
養父・渡辺任(周防守)
室・阿閉貞征妹
子・渡辺長兵衛守

近江・山本山城主阿閉貞征に仕える。その後、羽柴秀吉に仕え、秀吉の養子秀勝(織田信長四男)付きとなり、山崎の合戦、賤ヶ岳の合戦等に参加。秀勝死後は、近江・水口城主中村一氏に仕えて小田原征伐に参加し戦功をたて、秀吉から「捨てても一万石は取るべきもの」と賞された。戦後、恩賞の不服から中村家を去って後、大和・郡山城主増田長盛に家老として仕えるが、長盛は関ヶ原の戦いにて西軍についた為、高野山追放処分となる。この時郡山城を守っていた了は、長盛の書状が来るまで頑として開城しなかった。この時郡山城に入った旧知の藤堂高虎から、総石高の1割にもあたる2万石で迎えられるが、大坂の陣にて高虎と戦術面で意見の衝突から怒りを買って改易され、他家奉公も差し止められる。後に藤堂氏から帰参の申し入れが再三あったが、幕府直臣以外は受けぬとしてこれを固辞し、諸大名の捨て扶持を受けながら過ごした。