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総理がいなくてもやっていける日本――フィナンシャル・タイムズ

総理がいなくてもやっていける日本――フィナンシャル・タイムズ

(フィナンシャル・タイムズ 2007年9月19日初出 翻訳gooニュース) FT東京支局長デビッド・ピリング

テレビドラマ「The West Wing(ザ・ホワイトハウス)」に、作中の米大統領ジェド・バートレットが撃たれて緊急手術を受けるという話がある。大統領は間もなく回復するが、その後、大論争が持ち上がる。大統領が手術を受けていた間、いったい誰が国を動かしていたのか、というのだ。全ては平常に戻るが、大統領が麻酔をかけられていた数時間、実は憲法上の危機が起きていたのではないかという議論が後からぶりかえす。というのもあの数時間の間、アメリカには正当な最高権力者がいなかったからだ。

現実の日本では、安倍晋三という若すぎた首相が12日に辞任表明。52歳という年齢は首相には若すぎたと言われてしまったが、辞任の本当の理由はまだ全てが明らかになっていない。23日には、与党・自由民主党の新しい総裁が決まり、25日には国会で総理大臣として指名される。辞意を表明した翌日、くたびれきった安倍氏は入院し、政府から退場した。とするとこの国を動かしているのは、正確にはいったい誰なのだ?

と言うことを、誰も気にしていない。あるいはほとんど気づいてもいない。そしてそのこと自体が、日本における権力と民主主義の本質について、なかなか興味深い点をいくつか浮き彫りにしている。

結局のところ、安倍氏は国民に選挙で選ばれた首相ではなく、半世紀にわたって権力を独占してきた政党に選ばれた首相だったというわけだ。ということは、安倍氏というのはベネズエラのチャベス大統領の日本版だったのか?——と思われるかもしれない。しかし日本の首相というのはベネズエラの大統領とは全く違う。確かに数年前から、内閣は少しずつ権限を強めてはいるが、日本の総理大臣というのは先進国の中でもきわめて力の弱い指導者のひとりなのだ。

カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は1989年発表の名著「日本権力構造の謎」で、このパラドックスを詳しく分析した。あの本が発表されて以来、日本の政界は二転三転しているが、混乱の末にやがて何が新しく生まれてくるのか、誰もはっきり見通せないままだ。

1993年に自民党は9カ月間、政権の座を追われた。野に放り出されたこのわずかにして唯一の経験の後、自民党は他党との連立に頼ることで権力にしがみついてきた。そしてこの不安定な状況下の日本では、まもなく二大政党制が成立するのではないかという憶測がさかんに飛び交うようになった。

二大政党制成立の予測は、実現しつつあるように見えるかもしれない。2001年に首相となった小泉純一郎氏は、自分の党を「ぶっ壊す」と掲げて出馬。「自民党をぶっ壊す」というこのスローガンはあるいは、自民党が権力を握り続けるための最高の手法だったのかもしれない。小泉氏はこれで地すべり勝利を収めたのだから。そして2007年7月には、民主党の小沢一郎代表が同じスローガンを掲げて参院選を戦った。小沢氏も自民党をぶっ壊すと主張し、そして小沢氏も大勝した。ということはつまり、自民党の命運は途絶えたということなのだろうか?

手短かな答えはノーだ。というのも自民党は、確かにあからさまな問題をたくさん抱え込んではいるが、見た目と違って、決して政治的に破たんはしていないからだ。日本は確かに未だに、一党支配の国かもしれない。しかしそれでもどうにかして、民主国家であり続けているのだ。

日本が一党支配下の民主国家だという証拠は、先週の政界の動きからも明らかだった。というのも、国民は安倍氏が嫌いだった。だから国民は、安倍氏を辞任させたのだ。もって回ったやり方になったのは、安倍総理が自民党総裁だったからで、自民党総裁である以上、2009年9月には必ずやらなくてはならなかった衆院選まで、その立場は理屈の上では安泰だったからだ。安倍氏は、空気が読めないと批判されていた。しかし当の自民党は、空気を読むことができた。だから安倍氏は速やかに退場となったのだ。

いつもこういう展開になる。自民党は確かに、日本国民よりも保守色の強い保守政党だ。しかし自民党の政策は、世論の大きな動きをきっちり追いかけている。たとえば1970年代にひどい公害問題に対して国民の不安が高まると、自民党は社会党のお家芸を盗んで、一夜にして環境重視の党に変身した。あるいはバブル崩壊後の長引く不況対策として民主党が自由市場主義を持ち出してくるや、自民党はそれに対抗して小泉氏を作り出し、民主党の政策を掲げて出馬させた。

今回の総裁選で、ほとんどの党内派閥が結集して福田康夫氏をこぞって支援している光景は、確かに「古い悪い自民党」復活の兆しなのかもしれない。しかし派閥同士が密室であれこれ取り引きしている今のこの状況でさえ、世論の意向を反映したものだと言える。日本国民は、麻生氏の個性的な人柄が好きだが、それでもやはり総理大臣には福田氏の穏健で落ち着いた安定ぶりを好んでいるのだ。

なのでもしかしたら、日本は確実に二大政党制に近づいているというお題目は、妄想に過ぎなかったという結末になるかもしれない。それよりもむしろ可能性としてあり得るのは、福田氏の下で自民党が今一度、世論を反映する形で自らを作り変えるという展開だ。これはなかなか厄介な作業になる。小泉前首相による市場主導の改革を継続しつつも、改革に取り残されたと感じている人々を支援しなくてはならないからだ。

あるいは別の可能性として、自民党は次の選挙で負けるかもしれない。しかしそうするとかえって、もっと大々的な政界再編成につながるかもしれない。そしてその結果として、はっきりと主義主張の異なる二大政党が出現するよりも、様々な勢力がひとつの当選しやすい政党に結集するという結果になりかねない。その「当選しやすい政党」が自民党と名乗るか、別の名前にするかは、本質とはあまり関係のないことだ。

そしてひるがえって自民党総裁、別名「日本の総理大臣」のことだが。小泉氏がさかんに努力したにもかかわらず、権力のほとんどを握っているのは、総理大臣ではない。

日本における権力の一部は自民党が、そして一部は大企業が握っている。そしてさらに一部は、政官財という「鉄の三角形」のもう一角、つまり官庁が握っている。1990年代に度重なるスキャンダルや政策の失敗ですっかり面目を失った官僚たちは、今はじっと鳴りを潜めている。確かに往時の勢いはないかもしれないが、しかしそれでも官僚の影響力はおそらく今でも、政治家のそれを上回るはずだ。

たとえば今なら、貧しい地域にいる有権者の不満を解消するという政治的な要請に応えるならば、公共投資の拡大が当然ということになる。しかし官僚たちが、国の財布のひもを緩める気配はまったくない。

つまりだからこそ、安倍氏がモーニングジャケットを脱いで入院着に着替えても、誰もパニックしなかったのだ。自民党は見た目以上に権力をがっしり握りしめている。しかしその手に握った権力の実態というのは、見た目ほど強固なものではないのだ。


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