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金沢大浦津軽世家

大浦光信

金沢大浦津軽世家
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▼津軽氏の出自

 名族の末裔や名門の多い東北地方の大名に於いて異彩を放つのが津軽氏である。その出自はおおよそ南部氏の支族であるという以外は詳らかでないというのが実状である。戦国末期に南部本宗から独立を果たした津軽為信という風雲児の観点から見るに於いては相応しく感じられる。

 それでも為信以前を伺うことは近世の津軽氏の公文書や伝承から行える。
 津軽氏は津軽為信を初代とする戦国末期に興った新しい氏族である。本姓は藤原姓で、『寛政重修諸家譜(以下寛政譜)』によれば大浦光信が近衛尚久の庶子であったとか、猶子であったといわれるが後世の創作である。
 津軽氏の前身である、大浦氏は戦国期「津軽の南部」と呼ばれた大光寺南部氏、浪岡御所とならぶ南部氏麾下の私郡規模の大名でである。現存する系譜を信用すると、奥州藤原氏の支族十三藤原氏や安倍氏に関連付けるものもある。これらは『寛政譜』と同様、津軽支配を公的に認知させた上で民衆に受け入れさせる作為的なものであることは確実で、津軽氏の系譜としては為信以前については全く信頼性が無い。

 津軽氏の祖である大浦氏の系譜として信頼できるのが『津軽一統志』付巻に収録されている「津軽屋形御先祖次第」である。ここにある金沢家光は年代的に男鹿安東氏が秋田湊にあった秋田城介を討ち一時的に秋田支配を実現した時期の人物である。その後の南部氏の攻勢によって、秋田・比内は南部氏の支配下となり、同地に子弟を配したのが始まりと云う。久慈南部氏に入嗣した則信の子左京亮を秋田郡司とし、仙北に右京亮を差置いたという。この右京亮は諱を元信とも言われ、応仁二年(一四六八)六月に小野寺、安東氏らに敗れて切腹している。

 右京亮を官途とする金沢南部氏は小笠原系南部氏と考えられ、久慈南部氏や九戸南部氏と同族と思われる。左京亮の官途は九戸氏が襲名しており、本家である久慈氏は備前守と名乗る。滅亡に際して脱出した家光と家信は実家である久慈氏を頼った。

▼金沢氏→大浦氏としての伝承にみる津軽前史

 伝承では三戸南部氏に疎まれて下久慈に捨扶持を与えられたといわれているが、久慈に勢力を及ぼしていない三戸南部氏がその様な裁断を行えるはずもなく、後世の誤伝と思われるが、金沢氏が久慈氏を頼ったのは確実である。家光、家信は共に口宣案によって右京亮に補任されていることでその実在が確認できる。

 久慈に僅かばかりの所領を得た家信の跡を嗣いだのが光信で、下久慈の屋敷で育った。若年は不遇であったようだが、三〇歳を過ぎた頃に八戸南部氏当主政経によって鼻和郡を与えられ、延徳三年(一四九一)種里城を築き、翌明応元年(一四九二)に赤石城を築いて実弟信建を入れて守りを固めた。新知を得た光信は南部氏の家臣としてではなく独立した氏族として活動しており、これは党的結合の中で八戸南部氏の支配力が絶対的でなかった(宗主権を確立していなかった)ことを示していると言えよう。津軽対策としての緩衝勢力の冊立であったとみるのが妥当か。光信の独立心を推し量る一例として嗣子問題がある。光信は惣領に抵抗する新庄信春の次子源二郎盛信を養嗣子に迎えている。この当時の八戸氏は比内・鹿角方面を重視しており、津軽方面は光信・盛信父子に任せっきりであった。

 光信の跡を盛信が家督するが、晩年の光信に血縁の子が生まれ、これへの溺愛を見て実子を別家させ、これを養子とした。盛信自身、『津軽郡中名字』に於いて「鼻和郡三千八百町ハ大浦ノ屋形、南部信州源盛信。平賀郡二千八百町ハ大光寺ノ屋形、南部遠州源政行。奥法郡二千町余、沼□保内一千貫ハ伊勢国司浪岡御所源具永卿」とあり、津軽三屋形として分担統治していたことが伺える。浪岡御所が伊勢国司の出張所の様な表記になっているのは浪岡御所が伊勢国司家の分家であることを顕している様にも取れる。ただし、多少の誇張がみられるので、全面的な肯定は出来ない。鼻和郡は最も西浜・外浜に近く、隣郡の北畠氏は安東氏と親密であり、大浦南部氏の立場は微妙であった。

 次代の政信は生来の我侭短慮で家臣に信望薄く、己が無理に仕掛けた戦で乱戦となり討死。知らずに全軍撤退となり、帰城の後主君不在で大騒ぎとなり、数日後幼君為則を擁立する始末だった。政信は後世津軽氏の祖とされた人物で、前述の通り近衛尚久に関連付けられた人物であるが、光信実子とするのが正しい。この政信の実在は危ぶまれ、系譜操作に於いて生み出された架空の人物である可能性がある。ちなみに、南部氏にも政信という架空の人物がおり、偶然の一致にしては面白い。

 幼いときに擁立された為則は病弱であったと伝えられ、元服後も実弟守信が執政したと言われている。この守信もかなり謂くのある人物で、実在を疑う説もある。守信は『津軽一統志』で為信の父であるといわれ、武田氏を継いだとあるが、守信が武田を名乗った文書はなく、また時期的にも蛎崎の乱以後であることなどから、蛎崎にいた武田氏の後裔かとも思われる。これが堀越に移り大浦氏に仕えたとすれば、ありえそうな話である。一説によると為信は石川高信の命で堀越武田氏へ入嗣したとも言われ、守信が養父であるならば、全ての伝承や文書の記述と符合するが結論とするには確証がない。この時期、八戸南部氏と三戸南部氏の間で傘下国人層の対立から党的結合の結束力が薄れ、その弱さを露呈し内紛であったと推測される。独立傾向にあった津軽の諸氏は三戸南部氏と結ぶことで党的結合を再結成したことも考えられ、のち「三戸の軛」という言葉が生まれた要素はこの頃に求められと考えられる。

 津軽郡は、本来八戸氏の所領であり、その管轄は堤氏である。近代の系譜に於いては、三戸氏の庶流の如き置かれ方であるが、三戸からの津軽方面へのルートは鹿角経由であり、七戸方面には七戸南部氏(八戸南部氏重臣)の存在があり、石川高信の配された平賀郡を考えても、比内――鹿角ルートであったことは簡単に窺える。

▼戦国の風雲児

 為信は永禄十年(一五六七)大浦為則の息女戌姫を娶ってその閨閥となり、実子のない為則の養嗣子となった。翌十一年(一五六八)為則が没し家督。元亀三年(一五七二)津軽郡代南部高信の居城石川城を攻略。大浦氏家督から僅か四年で独立戦争を始めたのである。南部高信の信頼を逆手に謀殺、天正六年(一五七八)には奥州北畠氏浪岡御所を滅ぼしてしまう。これは旧世紀の遺産である中世的権威を全く否定した実力本意の行動とみられてきた。しかし、この当時三戸氏は「屋裏の乱」の最中であり、信直と対立した当主晴政が、信直の勢力基盤である津軽郡を為信をして崩そうとしたとみることもできる。晴政の与党として九戸氏が筆頭であり、九戸氏に近大浦為信は晴政の与力であったと見るのが妥当だろう。

 晴政歿後、為信は自主独立の途を歩んだとみられる。しかし、この大浦氏の独立行動は中央政権と結託した南部氏との地方衝突ではなく、中央政府に対する反逆であるとされ、事実前田利家は南部信直に対して大浦氏を討伐の対象にしていることを手紙で知らせている。それに対し為信は強烈なアピールと近衛家と秀吉の結びつきを把握して同族としての中央工作を行っている。しかも、それによって朱印状を得ているのである。戦国に成り上がる風雲児の片鱗がこの辺りから伺える。津軽氏の津軽四郡及び西浜・外浜支配はこれを以って確立したといえる。この為、江戸時代を通じて津軽藩と盛岡藩は犬猿の仲であり、現在の青森県でも青森市と八戸市の対抗意識は薄れつつあるとはいえ、凄まじいものがある。

 以後の為信は中央の政情に深く立ち入り、本領と京都を幾度となく往復している。津軽氏の支配体制は非常に松前氏に似ている。米産地の少ない津軽地方では他の農産物や交易による利益を重視したようである。新しい家臣団が多く、いち早く石高制に切り替えた事といい、関ヶ原への直接動員といい、さながら大身の旗本である。

 『寛政譜』の作成にあたって幕府は諸藩に自家系譜の提出を求めたがその際旧交のある近衛家に曾々祖父光信を近衛尚久の猶子と系譜にすることを求め近衛家より藤原の姓と杏葉牡丹の家紋を下賜された。しかし、これは受理されず、猶子を庶子とすることで承認を得た。また、津軽氏は上野にも領土がありこれは関ヶ原の戦功に対して下賜されたと考えられるが、幕府側・津軽藩側の双方共に正式な解答を出せずに終わっている。のちに上野の領土は幕府に返還し分国された黒石津軽藩領を編入させている。

津軽家