歴史・人名

「推古紀の十二年のずれ」について-河西良浩(Historical)

九州王朝説論争(Historical)

「推古紀の十二年のずれ」について

所謂「十二年のずれ」問題は、賛否共にあまり多くの議論を見ませんが、川村明氏の批判を受けて、私も少し論じてみたいと思います。この議論は川村氏の暫定版「推古朝の謎」を承けたもので、川村氏の同論文は、現在正式公開版として改訂されています。

「推古朝の遣隋使」という言葉がある。これに対して異を唱えたのは、古田武彦だ。『法隆寺の中の九州王朝』の中で、推古紀の中国への遣使は、全て「唐」と示されていることを根拠に、推古紀の遣使記事は、十二年ずれているとしたのである(古田武彦前掲書、また河西「九州王朝とは」参照)。これに対し、再批判を加えたのは川村明である(「推古朝の謎」)。川村の主な批判点を挙げ、それについて吟味しよう。
(1)「宝命」問題

古田は、推古紀において、裴世清の持参した国書に「宝命」の語が使われていることから、「宝命」の語義を考慮すれば「第二代である隋の煬帝」の言葉としてふさわしくなく、むしろ「第一代である唐の高祖」に用例があることから、この国書は隋の煬帝が記したものではなく、唐の高祖が記したものだと考えるほうがふさわしいとした。推古紀が十二年ずれていることの微証だというのである。

   朕、宝命を欽承して、区宇に臨仰す。<推古紀、十六年八月>
   朕、天命を祇承す。<隋書、高祖下>
   朕、宝暦を粛膺し、纂ぎて万邦に臨む。<隋書、煬帝上>
   朕、宝命を恭膺し、卒土に君臨す。<旧唐書、高麗伝、高祖の高麗王建武に賜う書>

川村は、これに対して、「宝命」は普通名詞であり、問題は「それをどうした」という動詞の方にあるのだという。推古紀では「欽承」、旧唐書では「恭膺」であり、「承」は継承するの意、「膺」は「受ける」の意だから、それぞれ、第二代、第一代の語として矛盾はないというのである。

だが、これで反論になるのだろうか。

川村自身の指摘するとおり、「朕、天命を祇承す」と隋の高祖の例がある。「承」は、「継承する」の意だけに使われるのではないのである。(もっとも、「古より続いた天子という地位を、前王朝より継承する」のニュアンスを含んでいたであろうことは想像に難くない)

逆に、「膺」も他ならぬ煬帝が使っている。ハッキリ言えば、「承」も「膺」も、「誰(どの皇帝)が使ってもおかしくない」用語に過ぎないのである。

何の特定力も無い。そういう、まさに「普通名詞」だ。

一方、「宝命」の方は違う。…と、少なくとも古田武彦の主張は、そうだ。この点に対する反論としては、川村の主張は、意味を為さないのではないか。

事実として煬帝は「天命」も「宝命」も使っていない。唐の第二代以降も使っていない。この事実に対する反論ではないのである。(このような事実の背景として、古田は「宝命」の語義に関する考察を行っているのである)

(補足)しかしながら、実は、調査の結果、古田の「宝命」に関する考察は誤りであることが判明した。以下に、反証を挙げよう。

   朕、宝命を載新す。<宋書、礼志>(宋・明帝)
   宣徳皇后、遠く崇替を鑑みて、旧典を憲章し、疇に台揆を咨り、允に霊策を定め、用て宝命を予一人に集う。<南斉書、明帝紀>
   朕、天命を恭承し、以て社稷を主る。<旧唐書、后妃伝、代宗睿真皇后沈氏>(徳宗。ただし徳宗は書紀以降の人)

いずれも第一代ではない皇帝の言だ。代宗は書紀より以降の人物ではあるが、李淵と同じ唐王朝に属す点、注目に値するだろう。煬帝の用例が無いことに変わりはないが、第一代以外の皇帝が「宝命」の語を用いているという前例はあることはあるのである。

次に、「欽承」について、補足しよう。川村は、あくまで「欽承」の二字にこだわり、この二字を用いたのは煬帝しかない、と言う。しかしながら、「欽」は「つつしんで」という意味であり、「祇承」という用語と、実質において差があるとは思えない。たった一例をもって、証拠と称することが果たして妥当であるか、甚だ疑問であると言わざるを得ない。

従って、「宝命」も「欽承」も、これ自身では、特定力不足である、と言わなければならない。
(2)推古二十六年の記事について

   二十六年秋八月癸酉朔、高麗、使を遣し方物を貢る。因りて言はく「隋煬帝、三十万の衆を興して我を攻む。返りて我が為に破られぬ。故、俘虜貞公・普通、二人、及び鼓吹・弩・抛石の類十物、并せて土物・駱駝一匹を貢献す」と。<推古紀、二十六年八月>
   (武徳)五年、建武に賜う書に曰く「朕、宝命を恭膺し、卒土に君臨す。…(略)…。但、隋氏の季年、兵を連ね難を構え、功戦の所、各其の民を失う。遂に、骨肉をして乖離せしめ、室家、分析す。多く年歳を歴。怨曠申さず。今、二国和を通じ、義、異を阻むこと無く、此に在る有する所の高麗人等、已に追括せしめ、尋ねて即ち遣送す。彼処に此国人有るは、王、放還すべし。務めて撫育の方に尽き、共に仁恕の道を弘めん」と。是に建武悉く華人を捜括し、礼賓を以て送る。前後至る者万数。高祖大いに喜ぶ。<旧唐書、高麗伝>

推古二十六年は六一八年に当る。隋が滅び、唐が興った年だ。一方、旧唐書高麗伝にあるように、隋と高句麗の戦争により生じた双方の捕虜は、武徳五年(六二二年)の高祖の書をきっかけに、お互いに返還し合っている。もしも、推古二十六年条を十二年ずれているとすれば、それは六三〇年のこととなり、旧唐書に言う「隋の捕虜の返還」以降に、「日本に隋の捕虜を献上する」ことになり、これは決定的な矛盾だというのである。

なるほど、確かに六一八年八月という時期からすれば、「ずれ」がないと見なす方が適切のようである(六一八年三月、煬帝没。六一八年五月、李淵即位)。隋の滅亡は決定的となり、中国は群雄割拠の時代に突入していたのである。高句麗は、乱の波及を恐れ、背後の倭(或は日本)と結ぶことを欲したとしても、おかしくはないだろう。

だが、六二二年の捕虜返還についても、一年や二年程度の短い事業ではなかっただろう。「前後至る者万数」とあるように、長い期間(十年ほどか)をかけた事業だったと見てもよいのではないか。

そして、十年後の太宗の時代には、唐と高句麗の間には不穏な空気が漂い始めていたのである。

   (貞観)五年(六三一)詔して広州都督府司馬長孫師を遣し、往きて隋時の戦の亡骸骨を収[(病)/夾/土]し、高麗の立つ所の京観を毀さしむ。建武、其の国を伐つを懼れ、乃ち長城を築く。<旧唐書、高麗伝>

この時期であっても、対隋戦の傷跡は生々しく、いまだに戦後処理の最中であり、また新たな緊張が生じ始めていた時期だったのである(無論、これは、六三〇年より後の話であるが)。しかしながら、この点に関しては、「ずれ」がないと見たほうが無難であろう。
(3)「唐」の書き換えについて

川村は、推古紀において、中国のことを「唐」と記しているのは、当時の国号に書き換えただけだ、とする。「評」を「郡」に換えたり、「倭」を「日本」に換えたりというのと同じだと言うわけだ。そして、一部にある「漢」「隋」「呉」は、「外国人の発言中」にあるもので、これは例外的に原表記のまま残しているのだとする。

果たしてそうだろうか。いくつか、反証を挙げよう。
1)「唐」

「唐」の語の初出は、推古紀である。それ以前には無い。それ以前には「呉」が最も多い。この史料事実は、川村の想定に反するのではないか。

いくつかの例を挙げよう。

<周>

   又、周成王の時、越裳氏、来たり白雉を献じて曰く…<孝徳紀、白雉元年二月、僧旻の言>
   詔して曰く「…曩者、西土の君、周成王の世と漢明帝の時とに、白雉爰に見ゆ。」<孝徳紀、白雉元年二月>

<漢>

   是に百済の観勒僧、表上りて曰く「夫れ仏法、西国より漢に至りて、三百歳と経て、乃ち伝へて百済国に至りて、僅かに一百年になりぬ。」<推古紀、三十二年四月>
   百済君曰く「後漢明帝永平十一年、白雉在所に見ゆ」<孝徳紀、白雉元年二月>
   詔して曰く「…曩者、西土の君、周成王の世と漢明帝の時とに、白雉爰に見ゆ。」<孝徳紀、白雉元年二月、前出>

<魏>

   魏志に云はく。<神功紀、三十九年割註>

<呉>

   阿知使主・都加使主を呉に遣す。<応神紀、三十七年二月>
   呉国・高麗国並びに朝貢す。<仁徳紀、五十八年十月>
   呉国、使を遣して、貢献す。<雄略紀、六年四月>
   百済王、命じて呉国に遣す。其の国に乱有りて入ること得ず。<推古紀、十七年四月>
   又百済人味摩之、帰化す。曰く「呉に学びて、伎楽の[イ舞]を得たり」と。<推古紀、二十年是歳>

<晉>

   是年、晉武帝泰初二年なり。晉起居注に云はく、武帝泰初二年十月、倭の女王、訳を重ねて貢献せしむ、と。<神功紀、六十六年割註>
   又、晉武帝咸寧元年、松滋に見ゆ。<孝徳紀、白雉元年二月、僧旻の言>

<隋>

   高麗、使を遣し方物を貢す。因りて言はく「隋の煬帝、三十万の衆を興して我を攻む。」<推古紀、二十六年八月>

もともと、推古紀以前は、中国との国交記事は多くは無い。だが、それでも、「唐」と呼んでいないことは歴然だ。呉だけでなく魏晉も、それぞれ史書の引用と言う形ではあるが、現れている。氏族名としての、「秦」「漢」なども、伝承としてはそれぞれ秦漢の国号を意識していたものと考えるのは自然だ(伝承の真偽とは別の話である)。また、周・漢に関しては、孝徳の詔の中にも現れている。その詔の基となったのは、百済君(豊璋)と僧旻の言で、その受け売りの感が強いが、それでも「白雉改元」の詔の中に、現れているのである。旻も孝徳天皇も、外国人とは見なせない。

やはり、「外国人の発言だけは別」という川村の解釈は、成り立たないのである。孝徳詔などは、書紀編纂時の「潤色」とする向きが強いが、それならば、なおさらである(後世の日本側文献では、王朝名に関わらず「唐」と書いて「もろこし」「から」と読ませるような文献が少なくないが、私はむしろ、その原点が『日本書紀』の推古紀ではないかと考える。推古紀が隋・唐に関わらず「唐」と書いているかのような体裁だから、後世文献がそれに従ったのだろう。この点を、逆に捉え、「後世と同じように『日本書紀』も王朝名に関わらず「唐」と書いている」と見なすことには、慎重になるべきである)。
(4)百済関係記事について

川村は、以下の記事についても言及している。

   (舒明三年)三月庚申朔、百済王義慈、王子豊章を入れて質とす。<舒明紀、三年三月>

これについて、古田が、推古紀が十二年ずれていることの証拠の一つとしたことへの批判だ。川村はまず、「王」という称号に注目し、称号だけが誤りなのではないかとする解釈に対して、書紀の用例を検証している。この結果、書紀において百済に関して「王」「王子」といった称号はその時点での称号を表していることを明確に論証した。その上で、「なお、百済王記事の年代錯誤は一般的であることに注意すべきです。」として、この舒明三年条の錯誤を、一般的なものとして処理しようとした。

だが、百済王記事の年代錯誤は決して一般的ではない。むしろ、そのほとんどは、信憑して良いというのが一般的だ。

武寧王の没年は、「武寧王碑」という金石文の裏づけを得ているし、威徳王の即位に関しても、むしろ『三国史記』を正すものとして、その史料価値を認められているといっていい。神功や応神の頃の「百済記」に関しては、干支二巡のずれがあるものの、それを正せば史実と見てよい、というのが通常だ。

ここにだけ「一般的」の語を用いて、錯誤を透閑視するのは、恣意的である。この「錯誤」はなぜ生じたのか。この点に議論を進めなければならないのではないか。

勿論、この錯誤と推古紀の「ずれ」との間に関係があるかどうかは、慎重に検証しなければならない。

(補足)これについては、改訂版「推古朝の謎」では削除されている。「取り下げた」ということだろうか。
(5)「十二年のずれ」とは、何か

さて、ここまで、論じてきたが、ひとつ明らかにしなければならない問題がある。それは、「ずれ」の範囲だ。

年代的にも、内容的にも「ずれ」と言っているものは、どこからどこまで影響を及ぼすのだろうか。古田武彦は、この点を明らかにしていない。

実は、川村の批判が今一つ「空振り」の感があるのは、その為ではないだろうか。

果たして問題は、「推古紀の唐への遣使」記事にとどまるものなのか(そうだとすれば、「高麗関係記事」(推古二十六年)や「百済関係記事」(舒明三年)は、無関係であり、お互いに論証点としてふさわしくないことになる)。

それとも、外交関連記事一般に関わると見るべきだろうか(古田はそのように見ているようである。だが、だとすれば、聖徳太子関連記事など、朝鮮との関わりを抜きにして語れない国内伝承も多いのだから、結局は『書紀』全体の編年そのものがずれているとしなくてはならない)。

また、どんなに少なくとも「白村江」はずれてはいないのである。ならば、「白村江」(六六三年)までのどこかで「ずれ」は是正されるはずだ。また、少なくとも「任那滅亡」はずれていないはずだから、それ以後のどこかから「ずれ」始めたはずだ。

古田武彦はそのいずれも明らかにしていない。

この点が、真の問題だ。まず、これを明らかにする必要があるのである。

さて、『書紀』には著名な「ずれ」がある。「百済記」だ。神功・応神、雄略の各紀に引用され、本文さえも「百済記」によったと見られる個所もある。ところが、その「百済記」の引用は、年代として百二十年(干支二運)もずれているのである。この場合、「ずれ」の範囲は割と明確だ。「百済記」の名を出している個所は勿論、「百済記」によった本文も比較的わかりやすい。それらだけが、「ずれ」ているのである(神功や応神の在位年代も「ずれ」てはいるが、「百済記」とはまた違う「ずれ方」である。引き伸ばされていると言った方がいいだろう)。そして、最後の雄略紀においては、「ずれ」は解消されている。

もともと、干支によって絶対年代を示していた当時、年代の当てはめに錯誤を生じたことは、容易に想像できるところだ。

だが、それは「ある史料の記事とある史料の記事とを繋ぎ合せる時」に最も生じやすいのではないだろうか。もし、このような想定が許されるなら、「推古紀の十二年のずれ」問題にも一応の見通しを立てることが出来るだろう。

推古紀に見える対唐記事は、大きく三つだ。

   小野妹子と裴世清の記事<十五年~十七年>
   犬上御田鍬の記事<二十二年~二十三年>
   恵日らの帰国記事<三十一年>

もしも、「ずれ」があるのならば、1と2は確実にその対象だ。そのままの紀年では「隋」に当るからである。また、3の記事では、彼等学問者の渡航年次が明らかではない。

   是の時に、大唐の学問者僧恵斉・恵光及び医恵日・福因等、並に智洗爾等に従いて来。<推古紀、三十一年七月>

これは、いずれとも称し得ないのではないだろうか(『隋書』に示されるとおり、日本列島と隋との間で留学が行われたことは確実である。彼等は「[イ妥]国」によって中国へ渡ったのかもしれない)。それ以外の各記事(百済関係・高麗関係・新羅関係・仏教関係・聖徳太子関係・その他の国内記事)については、今の所、確たる明証は無い(推古十七年条は、川村の指摘するように、むしろ南朝陳の時代へ、「逆に」ずれているのかもしれない)。

だから、正確には「十年程度のずれ」である。画一的に『書紀』全体の編年のずれという問題まで発展するかどうか、それは疑問だ。

以上をまとめれば、川村の挙げた論点のうち、(1)と(3)は、首肯し難い。古田の挙げた、
(A)「隋煬帝」という表記がある以上、「唐」は「唐」と解すべき。
(B)「宝命」問題
この二点から、自然に導き出される仮説として、「十年程度のずれ」は、魅力あるものと考えている。

(補足)上記のとおり、Bについては、取り下げる。結局、「唐」の表記だけが残るのであり、これを「ずれ」によるものと見るべきであるという根拠を失いつつあることを認めざるを得ないだろう。しかしながら、川村の提示した「外国人の発言以外の国号は書き換えられている」という仮説は、首肯し難い。再考を要するところだろう。