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【世界史】第10回 ギリシア世界④ 〜ヘレニズム時代

【世界史】第10回 ギリシア世界④ 〜ヘレニズム時代

カテゴリ:

   世界史
   先史・古代

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1.ポリスの変容
 ペルシア戦争ののち、アテネは栄え、デロス同盟の中心的存在として他のポリスを支配するような立場になっていきました。その姿に危機感を覚えたポリスがいます。それはギリシア世界のもう一つの雄・スパルタです。ペルシア戦争の際には共通の敵のために結束していたギリシアのポリスでしたが、次第にアテネ率いるデロス同盟とスパルタ率いるペロポネソス同盟と2つに分かれ、対立するようになりました。この2つの勢力が争った戦争をペロポネソス戦争といいます(前431〜前404年)。
 
 戦争の初めはアテネが優勢だったようです。ところが、運が悪いことにアテネで疫病が流行ってしまい、人口が激減してしまうということがあったようです(ペリクレスも疫病で亡くなりました)。偉大な指導者を失ったアテネの民主政治が口の達者なばかりの無責任な政治家にようる衆愚政治に陥り(おや、どこかの国と似ている?)、スパルタとの戦争で敗戦してしまったのです。アテネはその後、なんとか民主政治を守りつづけ勢力を復活しますが、新興国テーベやスパルタなどと激しい主導権争いを行ううちにギリシアのポリス世界は衰退していくこととなりました(この争いはアケメネス朝がギリシアの力を削ぐために裏で操っていたとされています)。

 ポリス世界が衰退した理由としては”ある変化”が挙げられます。後にマケドニアという外部の国にギリシアは屈してしまうのですが、以前強大な力を誇ったアケメネス朝には勝ったのに何故今回は・・・?という疑問がわきませんか。それはペルシア戦争当時に見られたポリス同士の協力やポリス内の結束が弱まったためなのです。ポリス間の協力というのはアテネやスパルタが対立していることからも難しいことはどことなく想像できますが、ポリスのなかの市民の結束が弱まったのはどういう”変化”が起こったのでしょうか。それは一言でいえば”傭兵”を用いるようになったということなのです。

 その経緯を説明します。ポリス間の抗争が激しくなると、争いによって土地が荒廃し市民たちが農業ができなくなってしまいました。また、経済が発達し、格差が広がったことも悪い影響を及ぼしました。これらの事情から徐々に戦争に参加できない無産市民となってしまった人の数が増えてしまい、戦うための武器を用意できなくなったのです。そこで別の民族などからお金を払えば戦いに行ってくれる傭兵を雇うようになりました。ポリスは自分たちの住んでいる所を皆で守るという共同体意識で支えられていました。この意識が皆にあったからこそペルシア戦争でも勝てたのです。ポリスの本質的精神が失われたことにより、ギリシア世界は衰退の一途をたどったといってもいいでしょう(逆に傭兵はお金だけの関係ですから、自らの命をかけてまで何かを守ろうとはしません。世界史のなかでは度々傭兵の増加によって国が乱れる様子が出てきます)。

 紀元前4世紀後半、ギリシア人のなかでもポリスを形成しなかったという意味では珍しい国であるマケドニアがギリシアの各ポリスへと攻めてきました。マケドニアの王フィリッポス2世は前338年のカイロネイアの戦いでアテネ・テーベ連合軍を破り、ギリシア世界を掌中におさめます。フィリッポス2世はスパルタを除く、ギリシアの全ポリスをコリントス同盟のなかに組み入れ、支配下におきました。この意味は重要で、「王のいない世界」だったポリスの時代が終わりを迎えたということなのです。

2.ヘレニズム時代
 ギリシアを支配下においたフィリッポス2世の後に、マケドニアの王を継いだのは世界的英雄として知られている人物です。戦争の天才と謳われ、古代史上最大の英雄とされているアレクサンドロス大王の登場です。在位中(紀元前336〜前325年)、わずかな期間で彼の征服事業はとてつもない規模で行われ、世界の東西融合が進み、新しい文化が生み出されました。特にギリシアのポリス的共同体意識からヘレニズム的な個人主義的な風潮が強くなるといった人々の意識の変化が生まれたことは知っておくべきでしょう(詳しくは倫理編第5回「ヘレニズムの思想」を参照してください)

 さて、ここではアレクサンドロスの征服事業をざっと見ておきます。アレクサンドロス大王の父フィリッポス2世がペルシア遠征を計画中に暗殺されてしまいます。そこで王位を継承したのが当時20歳のアレクサンドロスでした。父の暗殺に乗じて、ギリシアのアテネやテーベが反乱を企てますが、アレクサンドロスはさっと片付けてしまいます。そして、父と同じようにアレクサンドロスはアケメネス朝討伐のためにペルシア(現在のイランです)遠征を計画します。アケメネス朝は先に話したように裏でギリシアの混乱を誘発させているような干渉をしていました。アレクサンドロスとしては見過ごすわけにはいかなかったのです。

 アレクサンドロスの遠征が始まったのは紀元前334年のこと。そして、前333年、イッソスの戦いでアレクサンドロスの軍とアケメネス朝の軍は大規模な戦闘を行いました。結果はアレクサンドロスの勝利。アケメネス朝の王・ダレイオス3世は敗走します。しかし、アレクサンドロスはすぐにダレイオス3世を追わずに、エジプトへ向かいます。彼はエジプトでアレクサンドリアという都市を建設し、後にこの都市はヘレニズム世界の主要都市になりました(他にも遠征した各地で「アレクサンドリア」という同名の都市を建設しています。その数は約70!)。

 そして、再びアケメネス朝の軍とアレクサンドロス軍が激突したのがアルベラ(ガウメウラ)の戦いです(前331年)。メソポタミア文明発祥の地であるティグリス川中流域で激突した両軍は,当初大きな戦力差がありました。アレクサンドロス軍が計47000ほどに対して、アケメネス朝の軍は20〜30万。しかし、今回も勝ったのはアレクサンドロスの軍でした。大敗北したダレイオス3世は再び逃亡します。今回はアレクサンドロスも容赦しません。アケメネス朝の領土奥深くに入り、ダレイオス1世が造営した新都ペルセポリスを焼き払い、他の主要都市であるスサやバビロンなどでも略奪を行ったとされています。そして、翌年の前330年にアケメネス朝の王、ダレイオス3世が部下によって暗殺され、王朝は滅亡を迎えました(その後も残党がアレクサンドロスの軍と戦ってはいたようですが)。

 その後、アレクサンドロスはさらに遠征の軍を東へと進めます。ソグディアナ地方やガンダーラ地方にまで足を伸ばし、さらにはインダス川流域まで遠征軍は達します。アレクサンドロスはさらにインド中央部へと進もうとしましたが、限界を感じた部下たちがかたくなに反対し、ここで遠征をとりやめて、スサへと引き返したのでした。しかし、その後、前323年にアレクサンドロスは急死します。死因は熱病ということです(暗殺説もあるようです)。わずか32歳の若さでした。しかし、これだけの若さで世界的な大帝国を築き上げたのですから、やはり偉大な人物だとはいえるでしょうね。

 さて、アレクサンドロスの東方遠征は、先に話したように東西世界の融合というものを促進させました。アレクサンドロス自身も東西融合を目指した政策を行っています。ギリシア語を帝国内の公用語として使うよう命じたり、オリエントの神を信じるようにギリシア人に通達したりなどがその例です。また、ギリシア人とオリエントの人々の混血を進めるために、双方の結婚を奨励しました(アレクサンドロス自身もダレイオス3世の娘を嫁に迎えています)。ただ部下たちが困ったのはアレクサンドロスの治世の形にも変化が見られたことです。遠征以前のアレクサンドロスは部下を大事にし、対等な関係なように接していた部下もいました。しかし、東方遠征によってアケメネス朝の専制的君主の振る舞いに感化されたのでしょうか、オリエント風の儀礼・制度を取り入れ、アレクサンドロスの部下への態度が変わってしまったのでした。

 大王の急死後、帝国は分裂してしまいます。アレクサンドロスの一族は部下たちによって殺され、後継者争いがぼっ発したのです。この争いをディアドコイ戦争(後継者の戦争)といいます。この一連の戦争で最も大きなものは前301年のイプソスの戦いです。この戦争の結果、アレクサンドロスが築いた帝国はアンティゴノス朝マケドニア、セレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプトの3つに分かれます。アンティノゴス朝はもともとのマケドニアの領土です。前168年にローマによって滅ぼされました。プトレマイオス朝は3つの国の中では最も栄えた国です。なかでも首都アレクサンドリアではヘレニズムの文化が花開きました。前30年、かの有名なクレオパトラ女王のときにローマによって滅ぼされます。セレウコス朝についてもバクトリアやパルティアが自立した後に衰退して同じようにローマに前63年に滅ぼされました(バクトリアやパルティアなどについては第6回「オリエントの統一」を参照するといいでしょう)。アレクサンドロス大王の遠征からこのヘレニズム時代は始まり、前30年にプトレマイオス朝が滅びることによって、時代は終焉を迎えることとなります。