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【世界史】第11回 古代ローマ史① 〜共和政ローマ

【世界史】第11回 古代ローマ史① 〜共和政ローマ

カテゴリ:

   世界史
   先史・古代

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1.共和政ローマの発展
 さて、世界史の授業のなかでも大きな山場となる古代ローマ史です。ここを面白い思えるかどうかが「世界史」の勉強が好きになれるかどうかの分岐点の1つだと思います。数ある古代文明のなかでも、ローマほど歴史の起承転結をきれいに学べるものはないと個人的には思っています。19世紀のドイツの偉大な歴史家であるランケは「一切の古代史は、いわば一つの湖に注ぐ流れとなってローマ史の中に注ぎ、近世史の全体はローマ史の中から流れ出る」という言葉をのこしています。古代ローマが当時のヨーロッパの歴史の中心だったことを示しているのですね。ヨーロッパの人たちにとっては、ギリシアと並んでローマは自分たちのルーツの1つだと考えられているのです。

 今回から学ぶ古代ローマ帝国が今のイタリアを中心にヨーロッパの人々にとって息づいているかがわかるエピソードをもう1つ紹介しましょう。

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 このマンホールの真ん中にS・P・Q・Rという文字が刻まれているのが見えると思います。これは「Senatus Populusque Romanus」の略称です。日本語になおすと「ローマの元老院と国民」という意味です。元老院とは古代ローマの政治をつかさどっていた場所なんです。つまり、この言葉は古代ローマの主権者は誰かということを指した言葉なんです。それがどうした?と思われるかもしれませんが、この言葉は共和政を行ったローマにとっては、ローマ市民であることへの栄光と誇りを象徴する言葉なんですよ。他の国とは違うんだ!みたいな、ですね。この言葉は当時から広く使われていて、「レディースアンドジェントルマン!」みたいに演説の冒頭にでも使われていたようですよ。

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 上の映画は古代ローマの剣闘士を描いたものです。この物語の主人公マキシマスは「S・P・Q・R」の入れ墨を腕に入れています。ところが、色々なことがあってこの入れ墨を消す出来事があるんです。その場面を見て「あ、これはローマ市民としての自分の痕跡を消して、ローマとの決別をしているんだな」というのがヨーロッパの人たちには常識的に理解できるそうです。僕たちにはその入れ墨を見ても何のことかわからないですね。興味のある人はぜひ見て下さいね。

 では、古代ローマの歴史上の出来事を時間に沿って、順に説明してゆきたいと思います。ローマは、紀元前7〜前6世紀頃にラテン人(ローマ人)がイタリアのティバル河畔にて都市国家をつくったのがその始まりとされています(ローマの建国については、狼に育てられたロムルスとレムスの双子の兄弟が成長後に争い、ロムルスがレムスを破って前753年にローマの国の基礎をつくったという伝説が残っています)。もともとイタリア半島は、中・北部にエトルリア人という先住民がいました。また、南部には当時、植民活動に熱心だったギリシア人がいたわけです。そのエトルリア人たちのなかにラテン人が入り込んで、エトルリア人の建築の技術などを学んだのでした。建国当時のローマは王政でした。王政の最後の三代はエトルリア人の王を迎えました。しかし、紀元前509年にラテン人が結束して、先住民のエトルリア人を追放してしまいます。「もうお前たちから学ぶことは何もない」とでも思ったのでしょうかね。独裁的な王を追放したローマはもう王政をやめようということで、元老院を中心とした共和政へと移行しました。

 エトルリア人の王から独立したローマは、イタリア半島各地へと進出し、半島南部に存在したギリシア植民市とも戦いました。前272年に半島南部のタレントゥムを降伏させてイタリア半島の統一をなし遂げました。統一を維持してゆくためにローマが採用したのが分割統治という方法です。降伏させた都市ごとに同盟を結び、それぞれの都市の扱いに差をつけました。ある都市はローマ市民権を与えておきながら、別の都市には全く与えないといった待遇の差が征服された同士の団結を防ぎ、大規模な反乱を起こさせないようにしたのですね。

2.身分闘争
 共和政初期当時のローマでは元老院の終身議員や最高の官職である執政官(コンスル)に就けるのは貴族だけに限られていました。コンスルは任期1年間、2名です。また、非常時には独裁官(ディクタトル)が登場して、全権を握る仕組みとなっていました。そのディクタトルを任命するのが元老院です。元老院がローマの最高決定機関として君臨し、そこには有力な貴族が集っているという図式ですね。元老院は貴族という政治のプロの巣窟だったので、平民は入り込む余地がなかったのです。そして、貴族(パトリキ)が政治を動かしていたのが、徐々に平民(プレブス)が政治へ参加するようになっていくのも同じなのです。重装歩兵として活躍しだした平民が貴族独占の政治に不満を持つようになり、平民と貴族の身分闘争が始まりました。

 まず、前5世紀初めに護民官の制度が生まれます。護民官はコンスルや元老院の決定に平民たちが不服がある場合、拒否権を発動することができました。次に、前5世紀半ばに十二表法というローマ最古の成文法が制定されました。文にきちんと明示することで貴族が法律を独占するのを防ぐ目的です。十二表法は教材として、後々ローマの子どもたちが暗記するまで学ばなければならないほど重要なものとなっていきます。

 紀元前367年にリキニウス=セクスティウス法が制定されます。コンスルの2名のうち1名は平民とすることが主な内容です。以後、平民が重要な官職に就けるようになっていきます。そして、前287年にホルテンシウス法によって 、平民会(平民の会議です、そのままの意味です)の決定が元老院の承認なくローマの国法となることが決まりました。ローマの共和政治がここに1つの形として完成します。しかし、平民の有力者が執政官に就くようになり新貴族(ノビレス)として政権に参加していたことから元老院が依然権威を保ちつづけたことや経済力のないものは政治に参加できないままになったことなど、ギリシア(アテネ)のような民主政治とはローマの共和政は全く異なっていることも頭の中に入れておいて下さい。

 ここからローマはイタリア半島のみならず地中海にその勢力を広げていきますが、大きな戦争へと突入し大苦戦を強いられることになります。その話はまた次回に。