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【世界史】第12回 古代ローマ史② 〜ポエニ戦争

【世界史】第12回 古代ローマ史② 〜ポエニ戦争

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   世界史
   先史・古代

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1.ポエニ戦争
 今回はイタリア半島統一後のローマの歴史を眺めていきたいと思います。西地中海の覇者にならんとするローマに強敵が出現する。そんな話です。イタリア半島のすぐ隣りにシチリア島という島があるのはご存知でしょうか?観光地として有名な場所ですが、当時のシチリア島にはギリシア人そしてフェニキア人が住んでいました。フェニキア人と聞いて何か覚えていませんか?(覚えていない人は第5回 東地中海の諸民族を参照のこと)。フェニキア人は北アフリカにカルタゴという植民市を建て、本国が衰えた後も周辺地域での穀物生産や地中海での交易で富を得ていました(「地中海の女王」とも呼ばれます)。カルタゴを拠点に植民活動をしていたフェニキア人は、そのうちローマとぶつかるようになります。カルタゴとローマの3回にわたる戦争をポエニ戦争紀元前264年〜前164年)といいます(ポエニとはフェニキアを意味します)。

 ここからは3回にわたるポエニ戦争の模様をなるべく簡潔にまとめていきたいと思います。第1回(前246〜241年)はローマが勝ちました。シチリア島を獲得し、これがローマ最初の属州となります。属州とは海外の植民地という意味です。

 第2回(前218〜前201年)は重要です。カルタゴの名将ハンニバルが登場します。彼はアレクサンドロス大王やナポレオンと並び称される世界史上の戦争の天才として有名です。カルタゴにとって不利な条件ながらもローマを相手にして多くの戦いで勝利に導き、ローマを大変苦しめました。特に有名なのはアルプス越えです。ハンニバルは海を渡るのではなく、ローマを攻めるために陸路を選びます。あの険しいアルプス山脈を越えようという、従来の発想からは及びもつかないことをハンニバルは実行したのです。実際には半数の兵がアルプス越えで脱落したようですが、予想できるはずもなかったローマはなす術無くカルタゴ軍にイタリア本土への侵入を許してしまいました。

 やがてカルタゴ軍を撃退すべく大軍を編成したローマ軍がハンニバルたちのもとへ迫ります。ローマ軍8万に対してカルタゴ軍5万が激突したのがカンナエ(カンネー)の戦いです。ローマ優勢かと思いきや、明らかな戦力差を覆して勝利したのはカルタゴの方でした。それはハンニバルによる戦術のおかげだと言われています。このときの素晴らしき模範的戦術は現在の日本の防衛大学校の教育課程で取り上げられるほどです。口(文章)で説明するのは難しいのですが、どんな戦法をとったのか簡単に説明します。ハンニバルは相手(ローマ軍)の中央部を突出させてどんどん攻め込ませる一方で、自軍の左右の端(両翼)をどんどん相手の奥深くまで進ませて相手中央部の奥へと回り込む作戦です(わかるかな?)。この状況が進むと相手の後方に自分たちの軍がまわりこんでしまって相手の軍を囲んでしまう陣形へとなってしまうのです。この包囲せん滅作戦によってローマの重装歩兵部隊約7万は全滅してしまいます。たった1日の戦いでこれほどの死者を出したのは世界史上でも類を見ないと言われています(これほどの大量殺戮はずっと後の第一次世界大戦まで待たなければなりません)。

 その後、ハンニバルはイタリア半島南部を15年ほど占領しつづけます。ローマの人々は自国の滅亡すら覚悟せねばなりませんでした。しかし、ローマにも(大)スキピオという戦術の天才が現われるのです(カンネーの戦いに参加し、ハンニバルの戦術から学んだとも言われています)。大スキピオはローマ軍を率いて一挙に本国カルタゴをつきました。本国から戻るように要請されたハンニバルはローマを離れ、スキピオの軍隊との対決に挑みます。そこでスキピオが採用した戦術はハンニバルがカンナエの戦いでやってのけた包囲作戦そのものでした。ハンニバルは過去の自分の戦術によって敗北してしまったのです。この戦いをザマの戦い(前202年)といいます。その間にローマ軍はイスパニア(現在のスペイン)も占領してしまいました。

 そして、第3回(前149〜前146年)でローマとカルタゴの長い戦いに決着がつきます。執政官に就いた(小)スキピオ(ザマの戦いの大スキピオの親族)がカルタゴを陥落させることに成功しました。このとき、スキピオは二度とカルタゴがローマにたてつかないように都市の全てを焼き尽くすように命令したと言われます。その際、「ローマもカルタゴと同じ運命をたどるだろう」と述べたのは有名な逸話です。ちなみにポエニ戦争が終結した前146年には、ローマはギリシア(アンティゴノス朝マケドニア)も征服し地中海の覇権にどんどん近づいていきます。しかし、対外関係で一定の成果を得られた一方で、ローマ内部には大きな変化が起こっていました。

 

2.共和政ローマの変質

 ポエニ戦争が行われていた間にローマには深刻な変化が生じていました。戦争によって貧富の差が拡大していったのです。まず、貧しくなった人たちの話をします。この時期に貧しくなったのは農民たちです。中小農民たちが長期間、戦争に参加するうちに農地はすっかりと荒廃してしまったのがそもそもの原因です。農地が荒廃して生活に困った農民たちは没落してしまい、無産市民として本拠地のローマに移り渡っていきました。無産市民たちは属州から手に入る安い穀物をあてにしていたために、属州が増える領土拡大のための戦争を支持しました。

 では、豊かになったのはどのような人たちだったのか。これもまた戦争が大きく関わります。分割統治の任にあった元老院の議員や属州の税を集める役割(徴税請負といいます)の騎士階層の人々は戦争による属州の拡大により大きな富を得ました。さらにはその富をもって、先ほど話した没落農民の手放した土地などを買い集めるようになります。広大な農地を手に入れた彼らは、戦争で得た奴隷をそこで働かせるという農地経営を行いました。このような大土地所有制をラティフンディアといいます。

 こうして貧富双方の層から戦争は望まれ、ローマはますます戦火を拡大させていきます。一方で戦争をすればするほど貧富の差は拡大していきます。その結果、市民の平等を原則としたローマ社会の性格は紀元前2世紀半ばぐらいから徐々に変わっていくこととなります。階層ごとの対立も激しくなり、政権内では元老院支配を固持しようとする閥族派と無産農民や農民を支持層の中心とした平民派が争うようになりました。この対立等もあり、ローマは「内乱の1世紀」と呼ばれる混乱の時代を迎えることとなります。詳細はまた次回学ぶこととしましょう。