歴史・人名

【世界史】第14回 古代ローマ史④ 〜帝政ローマ

【世界史】第14回 古代ローマ史④ 〜帝政ローマ

カテゴリ:

   世界史
   先史・古代

150103-0001

1.元首政ローマ
 内乱を経て、ローマの権力の頂点にたったオクタウィアヌスでしたが、その実像は養父カエサルとはかなり異なるものだったようです。カエサルもオクタウィアヌスもローマでは絶大な人気を誇ったヒーローでしたが、カエサルが情熱的で人心掌握に長けていたのに対して、オクタウィアヌスはどちらかというと冷めたイメージをもたれていました。戦争もカエサルほど上手ではなかったようです。それでもオクタウィアヌスはカエサルとは違い、元老院や国民から実質的な「皇帝」に認められるに至っています。英雄カエサルがなし得なかったことをどうして彼はやってのけたのか。それは彼の奥ゆかしい(?)態度にありました。宿敵アントニウスを打倒した後、オクタウィアヌスはすぐにでも独裁をやろうとすればできたのですが、あえてそれをしませんでした。彼はローマの伝統的な勢力である元老院を尊重し、少しずつ足場を固めていくことをしていったのです。そして、紀元前27年に元老院はオクタウィアヌスに「アウグストゥス(尊厳者という意味)」という神聖な称号を贈りました。元老院に認められてから、ようやくというべきか彼は最高の政務官職のほとんどを一人で占めるようになります。軍事、行政、司法の最高責任者を一人に任すという、実質的な「帝政」にローマは移行することになったのです。しかし、それでもオクタウィアヌスは外面的には共和政を尊重し、独裁官には就任しませんでした。彼は以前から有力な議員が使っていた「プリンケプス(第一人者)」という言葉を好んで用いていたので、彼の支配体制を「元首政(プリンキパトゥス)」といいます。事実上は皇帝独裁政治ですけれど。アウグストゥス帝(オクタウィアヌス)は統治の間、市民への人気取りも欠かさず行い、優れた政治を行ったようです。

 アウグストゥスの死後もローマは繁栄の時代が続きます。暴君ネロ帝の治世の間など多少の混乱の時期はあったものの、約200年間は「ローマの平和(パックス=ロマーナ)」と呼ばれるほど安定していました。とはいえ、ローマの被征服民にとってはつらい時期です。征服者が強大すぎるとなかなか自立のチャンスは巡ってきません。その被征服地の1つがパレスチナです。ここからイエスが誕生し、キリスト教が生まれるのです。その話についてはまた別の機会に詳しく行いましょう。

2.五賢帝の時代
 さて、パックス=ロマーナのなかでも、1世紀から2世紀にかけては5人の優れた皇帝が続けて登場しました。この5人のことを「五賢帝」と呼んだりします。順にネルヴァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス=ピウス、マルクス=アウレリウス=アントニヌスの5人です。並べてみるとなんだか呪文みたいですが是非覚えて下さい。

 ネルヴァは66歳にして帝位についた人物で、堅実に財政再建等を行いローマ黄金時代の基礎をつくったとされます。そして、トラヤヌスの時代にローマはダキアやメソポタミア地方を征服して、領土が最大となります。総人口は5、6千万人ほど。ちなみにダキアは現在のルーマニアであり、その国名も”ローマ”が由来です。しかし、領土が最大となるということは一方でローマにとっては衰退を意味するんです。どういうことかわかりますか?領土が最大になるということは、以降に戦争で獲得する土地がなかったということであり、戦争によって奴隷を得る機会が減るということでもあります。戦争奴隷が少なくなるとローマの農地の制度であったラティフンディア(大土地所有制度)が維持できなくなってきます。このことも影響してトラヤヌス帝以降、少しずつですがローマは衰退への歩みを始めていくのです。そして、五賢帝でもう一人有名な人物を挙げると、マルクス=アウレリウス=アントニヌスも長い名前ですが知っておきたいところです。彼は哲人皇帝とあだ名されるような思慮深い人であったようです。彼の書いた『自省録』は優れた哲学的著作として知られています。とはいえ、政治的には疫病の流行や外敵(ゲルマン人)の侵入などに苦しみました。彼の治世の末期頃から徐々にローマは財政難や経済のいきづまりに悩まされるようになります(まるで現在のどこかの国のような状況・・・?)

3.3世紀の危機
 どことなく退潮の気配がしてきたローマを変えようと、カラカラ帝(覚えやすいですね)は212年にある勅令を出します。それは帝国全土の自由民にローマ市民権を与えるという内容です。この勅令によって、ローマ市民と属州民という区別がなくなり、ローマは都市国家とそのまわりの支配された場所という形から「1つの世界帝国」へと転換したのです。
 その後、235年以降50年もの間、皇帝位をめぐる争いが激化します。各地の軍隊が自分たちのボスを皇帝にたてて争ったんです。多数の皇帝が即位しては殺害されるような事態がおこってたこの時代を軍人皇帝の時代といいます。対外的にも北のゲルマン人や東のパルティアの侵入に苦しみ、ササン朝との戦いでは、なんと皇帝(ヴァレリアヌス帝)が捕虜になってしまうようなことまで発生してしまいました。ローマは「3世紀の危機」に直面していたのです。いよいよローマ帝国が滅亡に向かいます。古代ローマの終末についてを次回学んでいきましょう。