歴史・人名

【世界史】第15回 古代ローマ史⑤ 〜ローマの終焉

【世界史】第15回 古代ローマ史⑤ 〜ローマの終焉

カテゴリ:

   世界史
   先史・古代

150108-0003

1.ディオクレティアヌス帝の治世
 前回、ローマが「3世紀の危機」を迎えていたところまで進みました。その当時の皇帝たちはもちろん目の前の危機に手をこまねいてばかりだったのではなく、軍制改革などを行ってはいたのです。そして、最終的にローマに再び一時の安定をもたらしたのはディオクレティアヌス帝という皇帝です。この皇帝は自分を神と同等の権威をもっているとしてオリエント的な専制政治を行いました。このような政治は専制君主政(ドミナートゥス)と呼ばれ、後の皇帝も同様の形をとります。
 
 ディオクレティアヌス帝は、広大な領土を治めるためにある工夫をしました。効率よい統治のために正し帝・副帝という4人の皇帝をおく四分統治制を採用したのです。他にも諸改革を断行して、帝国に秩序をもたらすことに成功しました。しかし、一方でキリスト教徒の大迫害を行ったことも忘れてはなりません。なぜキリスト教を目の敵にしたのでしょう?自分(皇帝)=神といっていることをキリスト教徒は当然信じなかったからですね。

2.コンスタンティヌス帝の治世
 ディオクレティアヌスの次に皇帝となったコンスタンティヌス帝のときには分割統治は崩れてしまいます。しかし、独裁的な政治手法や政策をコンスタンティヌス帝は受け継いでいきます。一方で迫害される立場にあったキリスト教については、一転して公認したのです。帝国の統治のためにはキリスト教の異様な広がりを無視するわけにはいかず、逆に利用しようと思ったのでしょうか。313年のミラノ勅令によってキリスト教を公認し、325年にはニケーア公会議を開催し、キリスト教の教え(教義)の統一を図りました。また、首都を遷都した皇帝でもあります。ビザンティウムという都市を自分の名にちなんでコンスタンティノープルと改称し、新たな都としています。経済や文化の中心がローマではなく東方へと移っていったという象徴的な出来事です。

 このコンスタンティヌス帝によって皇帝の専制政治はより一層強まり、また、この時代では国民の職業が固定化される傾向が出てきます。 古代ローマ特有の市民の自由は徐々に失われていったようです。

3.古代ローマの終末
 いよいよ古代ローマも終わりを迎えていきます。あと少しです、頑張りましょう。コンスタンティヌス帝の行った改革にも関わらず、膨大な数の軍隊や役人(官僚)を支えるために重税を課せられる国民の反発は大きくなるばかりでした。一方で、外に目を向ければ、ゲルマン人の大移動とかササン朝の侵入に悩まされる日々。先のコンスタンティノープルへの遷都で帝国の中心が東方へ映ったことは明らかですが、東も西も統治できるほどの力がローマにはもう残っていませんでした。392年、テオドシウス帝は死に際し、二人の息子に東西を分割してローマを治めるように言い遺したのです。巨大な世界帝国へと成長したローマは東西の2つの国へと分裂することとなりました。テオドシウス帝は他にキリスト教を国教化した皇帝としても知られています。

 詳しいことは省略しますが、分裂後の東西ローマについて簡単に。西ローマのほうはますます衰退の度合いを強め、476年にゲルマン人傭兵の隊長であるオドアケルによって皇帝は廃位されて滅亡するに至りました。

 一方で東ローマ帝国はビザンツ帝国という名で西よりはかなり長く国として存続していきます。1000年ほど専制国家体制は続き、最終的にはイスラム勢力(オスマン帝国)によって滅ぼされる1453年まで国として存在しました。

4.古代ローマの終わり
 それにしても あれだけ巨大であった古代ローマ帝国が分裂・滅亡するに至ったのにはどのような理由があるのでしょう。この件については古今東西多くの研究者が関心を持ち、多くの説が提出されています。この講義では、ラティフンディアからの土地制度の変質について取り上げていきましょう。

 ラティフンディアとは奴隷を利用した大土地制度のことでした(第12回参照)。 富裕層は大土地を所有し、戦争で得た奴隷をそこで働かせて大きな利益を手に入れたのです。ところが、パックス=ロマーナ以降戦争奴隷が減ってしまったがゆえに経営に行き詰まり没落していくこととなりました。このラティフンディアの行き詰まりがローマの力を削いでしまう原因の1つとなったようです。

 そして、しばらく経った後、コンスタンティヌス帝の時代に職業の自由を制限された人々が生活に困り、小作人として働く人々が出てくるようになります。この人々をコロヌスと呼び、このコロヌスを使って経営する制度をコロナートゥスといいます。奴隷ではないのですが、隷属的な身分で働く階層をつくるこの制度は中世ヨーロッパの農奴制へとつながっていくのでした。

余談
古代においてこれほど隆盛を誇った大帝国は他に類を見ないわけですが、獲得した領土という点ではアレクサンドロス大王の東征によって築いた帝国のほうが広いでしょう。アレクサンドロスが東に向けて快進撃していた頃、ローマは都市国家として少しずつ勢力を広げ始めていました。もし、アレクサンドロス大王が東ではなく西のローマに目を向けていたら?歴史を研究する際には「if」は禁物と言われますが、それでもこの仮定は多くの歴史好きが想像の翼を広げるところです。ローマの歴史家リヴィウスは「アレクサンドロスが相手であったとしても、ローマが最終的に勝利しただろう」と述べていますがはてさて。以上余談でした。