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【世界史】第16回 キリスト教の成立

【世界史】第16回 キリスト教の成立

カテゴリ:

   世界史
   先史・古代

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1.キリスト教の成立
 今回の講義は、前回までに学んできたローマ帝国のなかで新たに生まれ、世界宗教となるまでに普及したキリスト教のお話です。現在の世界でも最も多くの人から信仰されている宗教の成立を知るのは有意義なことだと思います。とはいえ、今までの講義のまとめでは既に扱っている回もあります。
【参考】
 ■世界史 第5回 古代オリエント史③
ユダヤ教の成立についての「世界史」的流れです。復習してみましょう。
 ■倫理  第7回 イエスの教え
高校「倫理」で習うキリスト教の端緒。イエスがどのような教えを広めたのかを詳しく知りたい人は是非。

 上の参考記事を読んでみると、今回の内容がよりわかってくると思います。では、「世界史」からみたキリスト教の歴史を今回話していきます。

 ユダヤ教が成立したのはパレスチナという土地です。紀元前6世紀頃、一神教を守り続けたヘブライ人が確立した宗教でした。このユダヤ教はいわば民族宗教として、ローマの支配下となった後も信仰を守りつづけました(ユダヤ教がなぜ他民族に広がらないのかは「選民思想」がゆえですね)。戒律の厳しい宗教なのですが、イエスが登場する前のユダヤ教というのは形式主義というべきか、ただ戒律を守ることを重視し、儀式ばかりを大切にする立場の人々(その代表がパリサイ派と呼ばれる学者たち)が大勢いたのです。そして、それを憂いて改革しようとしたのがイエスです。若い頃何をしていたのかはよくわかっていません。30歳になった頃から突如布教活動を始めます。預言者ヨハネの影響を受けて「メシア(救世主)である神の子」としての自覚を持って活動を始めたと言われています。ただ、1つ気をつけてほしいのは、新しい宗教を創始し、布教していたわけではないということです。あくまでユダヤ教の現状を憂いて、改革をしようとしていたのがイエスの活動です(その教えがイエスの死後にキリスト教という形で結実していくのです)。時代としてはアウグストゥスがローマを支配し、帝政としての第一歩を歩み出した頃とほぼ同じです。

 イエスはどのようなことを教えとして広め、人々の支持を得たのでしょうか。それは、神の愛が身分や貧富の差に関係なくすべての人に及ぶこと(アガペー)、その神を信じて人はおのれを愛するように隣人(すべての周りの人)を愛すこと(隣人愛)などです。ようするに「選民思想」をとりはらおうとしたのですね。この教えを彼は実践し、各地で社会的弱者や病人などをいたわり、数々の奇蹟を為したとされています。布教活動の期間は数年ほどといわれ、わずかな間だったのですが、それでも多くの人が彼の教えを魅力的に感じたようです。

 その様子を苦々しく思っていた人たちがいます。誰でしょうか?そう、ユダヤ教のもともとの信仰を強く信じる人たちですね。特にさっき取り上げたパリサイ派の人々なんかイエスによって批判されていますから、「あいつは危険だ」と敵視するようになります。彼らはイエスのことを民衆を煽動する危険人物だと仕立て上げ、当時のローマの総督ピラトという人物に告発しました。その結果、弟子の裏切りなどもあり、イエスはゴルゴタの丘で十字架にかけられ処刑されてしまいました。ただし、ここで話は終わりません。3日後にイエスの墓を見てみると彼の遺体がない。そこで人々は「イエスは復活したのだ!」と騒ぎたてます。実際に復活したイエスの姿を見たという人も出てきます。イエスの復活という象徴的な出来事のもとに人々は集まり、イエスの再臨と神の国の到来を信じる一団がイエスの弟子たちを中心に形成されました。これがキリスト教の始まりです。原始キリスト教と呼んだりもします。

2.キリスト教の発展
 さて、この原始キリスト教の時代に大いに布教に貢献したのがまずペテロという人物です。ペテロはイエスの弟子でしたが、イエスの死後、布教活動を熱心に行い、後のカトリック教会では初代教皇となっています。彼ら弟子の布教により、パレスチナから小アジアやギリシアの都市へと広がり、信徒の共同体である教会が生まれていきます。

 そして、ローマ帝国全体にキリスト教が広まる上で、とても大きな役割を果たしたのがパウロでした。当初、パウロは熱心なユダヤ教徒で、自らキリスト教徒を迫害することまでしていたのですが、突然、天から神の子イエスの声を聞くという体験をしてキリスト教を信じるようになります。以降のパウロは人が変わったように各地で伝道を行い、信徒を増やしていきます。

 しかし、一般の人々から見れば、キリスト教を信じる人(ユダヤ教徒も一緒なのですが)というのは、当時のローマの人々が一般的に信仰していた多神教を否定し、神々や皇帝の像に崇拝することもしない。当時の社会や政治に溶け込まない異質な人たちでした。徐々にキリスト教徒は忌み嫌われるようになり、ローマの支配層からも目をつけられるようになります。

 ローマ帝国のなかで最初の大きな迫害は64年、ネロ帝によるものでした。ローマ市が大火になった原因をキリスト教徒に押しつけ、多くの信徒が殺されてしまうことがあったようです(パウロも殺されたとも?)。その後、一時的な迫害もあっていたようですが、3世紀頃には下層社会に広がった信仰が、上流社会にも普及していきました。イエスの言行やパウロの手紙などが収められた『新約聖書』もこの頃までには完成していたようです(ギリシア語(コイネー)で書かれたことを知っておきましょう)。

 そして、キリスト教徒にとって一番の災難であった時期は、ディオクレティアヌス帝の時代です。彼は自らの皇帝としての権威を高めるために、皇帝崇拝を認めないキリスト教徒を徹底的に弾圧しました。303年に彼は「大迫害」の命令を下し、多くの殉教者が出ました。

3.キリスト教国としてのローマ
 大迫害を行ったディオクレティアヌス帝の後のコンスタンティヌス帝は逆にキリスト教に接近していきました。自分の権力にうまく取り込もうとしたんですね。313年のミラノ勅令により、キリスト教を帝国として公認するという画期的な方針転換を打ち出しました。キリスト教を公認することにより、皇帝崇拝とキリスト教を結びつけようとしたのです。「皇帝は地上におけるイエスの代理」であるとすれば、皇帝を誰もが敬ってくれると考えたのでしょう。この思想は中世ヨーロッパにも受け継がれていきます。そして、325年にコンスタンティヌス帝はニケーア公会議を主催し、教義(教え)の統一を図ろうとしました。これだけ広い地域に教えが広がってしまうと、キリスト教への考え方もまちまちです。それをちゃんとまとめようという試み。この会議で正統とされたのはアタナシウス派です。アタナシウス派は神、イエス(神の子)、聖霊(私たちの心に働きかける神の霊)は全て1つであるとする説です。一方で、イエスの神性を否定し、あくまで神がつくった人間であるとするアリウス派はこの公会議で異端とされ、追放されることとなりました。

 その後、「背教者」と呼ばれた皇帝ユリアヌスがキリスト教を抑圧するなどの出来事がありましたが、教会は皇帝の支援をうけて、農村などでも信者を増やしていきます。一方で教義の統一は度々行われ、431年のエフェソス公会議ではネストリウス派(イエスの人性を主張)が異端とされました。このネストリウス派は追放後に東方へ広がり、ササン朝を経て、唐の頃の中国に伝わり「景教」と呼ばれました。また、451年のカルケドン公会議では、イエスには人性はなく、神性のみであるとする単性派が否定され、あらためてアタナシウス派が三位一体説として正式に認められたことも知っておきましょう。

  この頃までに教会の制度化が進み、司教や司祭という聖職者身分が生まれています。また、教義を研究し、人々に教え広める役割を担ったのが教父と呼ばれる人々です。中でも『告白録』や『神の国』などの著作で知られるアウグスティヌスはよく知られています。ここまで述べたようなキリスト教の広がりは、古代が終わり中世以降のヨーロッパの歴史にも大きな影響を与えています。

 ここまででローマなどの古代ヨーロッパのお話は一旦終わり。次回からは違う地域の歴史を振り返ります。