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【世界史】第19回 古代インド文明③ 〜統一王朝の変遷(前)

【世界史】第19回 古代インド文明③ 〜統一王朝の変遷(前)

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   世界史
   先史・古代

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1.インド統一への流れ

 今回は、アーリヤ人進入以降の古代インドにおける王朝の変遷を学んでいきます。おおよそ紀元前4世紀〜後7世紀にかけての話です。こういう流れを勉強するとき、「ごちゃごちゃしてて嫌だなあ」と思う人がいるかもしれません。今回はマウリヤ朝、クシャーナ朝、サータヴァーハナ朝、グプタ朝、ヴァルダナ朝という5つの王朝を中心にそれぞれの時代の特徴を端的にまとめていくので各自整理しながら理解していってもらえればと思います。

 まず、北インドで小さな都市国家が徐々にまとまっていくという話から。北インドでは小さな国が対立していますが、そのなかでコーサラ国とマガダ国が力を強めます。後にマガダ国がガンジス川流域(インドの東側)の大部分を支配し、北インドが統一されました。しかし、わずか30年ほどでマガダ国は崩壊していったようです。そうしているうちに、前326年頃にあのアレクサンドロス大王がインダス川流域(インドの西側)に進出してきたのです。インドの人たちはびっくりです。西方から異民族の強力な軍隊が押し寄せてきたわけですからね。「これはいかん!インドも結束して外部勢力に対抗せねば!」といったような気運がこのアレクサンドロス大王の東征をきっかけに盛り上がってきたのです。そして、前317年ごろにインドにおける最初の本格的な統一王朝といわれるマウリヤ朝が成立しました。

2.マウリヤ朝
 マウリヤ朝は前317年ごろから前180年ごろにかけて成立していた王朝です。創始者であるチャンドラグプタ王は、ガンジス川流域を支配していたマガダ国を打倒し、首都をパータリプトラにおきました。そして、インダス川流域に残っていたギリシア勢力を追い払い、西南インドやデカン高原(インド中央部)を勢力下におきました。ほぼインドを統一したわけです。

 このマウリヤ朝では、最盛期を築いた王が重要です。その王の名はアショーカ王。三代目の王であったアショーカ王は若い頃は征服活動を活発に行っていました。南方のとある国を滅ぼしたときには数十万人を殺したようです。さすがに自分の残虐な行為に悔いたのか、アショーカ王はしだいに仏教に帰依していきました(信仰に篤い教徒になることです)。争いではなく仏教を通じ平和な世の中をつくる政治を行い、その方針を磨崖碑(まがいひ)や石柱碑に勅令を刻ませて、人々にその方針を伝えました。仏教をもとにした法や倫理をダルマといいます。ダルマにもとづく政治を行ったもの具体例としては、まず仏典結集(けつじゅう)があげられます。アショーカ王は、ブッダの教えをきちんとまとめるために、仏教指導者を集めて仏典の編纂事業を行います。この事業はブッダが亡くなった後から行われて、アショーカ王のときが3回目にあたります。そして、他にもストゥーパを建てさせることも行いました。

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 上の画像の丸い建物がストゥーパです。ストゥーパとは仏塔のことで、ブッダが亡くなった後、ブッダの遺骨を納めています。ストゥーパが各地に建てられたのがアショーカ王の時代です。後に中国(観の時代)に伝播した後、日本にも伝わり、仏舎利塔(ぶっしゃりとう)という名で各地に建てられました。

 アショーカ王の時代、スリランカ(セイロン島)に仏教が伝わったことも一緒に知っておきましょう。アショーカ王の王子であるマヒンダが伝えたとされています。スリランカでは以降、仏教が隆盛し、この地域の仏教は上座部と呼ばれるようになります。上座部は主として東南アジアなどの南方に伝えられたため南伝仏教ともいわれます。
 

3.クシャーナ朝  
 アショーカ王の死後、マウリヤ朝は衰退していきます。前2世紀にギリシア勢力やイラン人がが侵入してきたのですが、そのなかのクシャーン人がインダス川流域を支配下におき、1世紀の半ば頃にクシャーナ朝を築きます。

 ガンダーラ地方(現在のパキスタン、アフガニスタン)のプルシャプラを首都として、ガンジス川流域まで支配地域を広げました。この地域は東西貿易の交通の要衝路に位置していたので、当時栄えていたローマ帝国との交易で多くの利益を得ることができました(同時期にローマ帝国、中国の後漢など大きな国が栄えていたのがこのクシャーナ朝の時代でした)。また、交易を通じて、国際色豊かな文化が流行します(もっともクシャーナ朝はイラン系の王朝でしたので、あまりインド色の強くない王朝ではありましたが)。特に、当時の美術をガンダーラ美術といいます。かなりのギリシア人が当時クシャーナ朝にやってきていて、彼らの造った仏像は顔立ちや服装がギリシア人風のもので従来のものとは大きく異なる姿形をしてます。

 このクシャーナ朝の最盛期の王はカニシカ王です。アショーカとごちゃまぜにしないように!と言いたいところですが、行ったことも少し似ています。カニシカ王は第4回仏典結集を行いました。仏教を保護した王として知られています。なお、この時代の仏教は大乗仏教と呼ばれるものです。

 ナーガールジュナ(中国名で竜樹)という人物が大乗仏教のおおもとの理論をつくりました。菩薩信仰がその中心とされます。他人を救済することを通じて自分も救済されるよう修行する人のことを菩薩といいます。このような菩薩の心を出家、在家とわず大切にし、多くの人が救われることを目指す宗派なのです(先ほどの上座部が南伝仏教と呼ばれたのに対し、大乗仏教は中国、朝鮮、日本などに広まったので北伝仏教とも呼ばれます)。
 
 上座部仏教と大乗仏教の違いをもう少し詳しく話しておくと、上座部仏教が「修行を通して悟りを開いた者こそが仏になれる」という教えです。現在のタイなどが上座部仏教の国ですね。対して、大乗仏教は「誰もが仏になれる」と考えます。出家せずに普通の生活をしていても仏教に帰依する立場(在家信者)の人々が中心です。より多くの人が救われる「乗り物」ということで大乗仏教というのですね。この大乗仏教の教えはブッダが創始した頃の教えとは違う!と批判されたりもしています。確かにそうかもしれませんが、日本ではこの大乗仏教の教えが広まっているのです。

 さて、クシャーナ朝はカニシカ王の死後、ササン朝(ペルシア)の攻撃を受けて衰え、滅亡してしまいます。また、クシャーナ朝の頃、インド南部にて勢いがあったのがサータヴァーハナ朝です。次回はこの王朝についてのお話から始めたいと思います。