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【世界史】第20回 古典インド文明④ 〜統一王朝の変遷(後)

【世界史】第20回 古典インド文明④ 〜統一王朝の変遷(後)

カテゴリ:

   世界史
   先史・古代

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1.サータヴァーハナ朝
 クシャーナ朝が北インドを支配していた2世紀頃、デカン地方(南インド)ではサータヴァーハナ朝(アーンドラ朝)がおこりました。この王朝は季節風を利用した海上貿易により栄えました。特に、ローマとの貿易では大きな利益をあげたとされています。ローマからはインドへ大量の金貨が輸出され、経済上の大問題となったといいます(南インドからは今日でもローマ金貨が見つかっているそうです)。サータヴァーハナ朝はドラヴィダ系の人々のつくった王朝とされていますが、アーリヤ人による北インドの文化も積極的に取り入れていたようです。

2.グプタ朝
 さて、話を北インドへと戻します。320年頃にチャンドラグプタ1世によってグプタ朝が建国されました。首都はマウリヤ朝以来のパータリプトラです。そして、第3代の王チャンドラグプタ2世(超日王)のときに最盛期を迎えました。この王のときに中国からの僧・法顕がインドを訪れています。このときのグプタ朝の様子は彼の表した『仏国記』に記されています。

 グプタ朝の時代はインド古典文化の黄金期といわれます。仏教やジャイナ教に押されていたバラモンたちが影響力を回復し、彼らの公用語であるサンスクリット語が宮廷のなかで用いられるようになりました。サンスクリット文学の最高峰である『シャクンタラー』という戯曲がカーリダーサによって書かれ、また『マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』という2つの叙事詩が生まれました。

 勢力を回復したバラモン教はやがて先住民の信仰と融合していき、ヒンドゥー教と呼ばれるようになります。ヒンドゥー教は「インド人の宗教」という意味です。特定の教義及び聖典は存在しませんが、昔から今にいたるまでのインドの人々の生活に大きく影響を与え、インド独自の文化をつくりあげる大もとになっている宗教です。さっき聖典は存在しないといいましたが、シヴァ神やヴィシュヌ神などの多神教であるヒンドゥー教には『マヌ法典』というヴァルナ制度における規範が書かれたものがあります。バラモンの特権が強調された身分差別的なものや女性蔑視のものなどが記されているので、日本人の私たちが現在読むと違和感を感じます。しかし、ヒンドゥー教の人々にとってはとても大事なものなのです。

 ヒンドゥー教が人々に浸透していく一方で、仏教はかつての勢いを失いつつありました。しかし、教えに関する研究は引き続き盛んに行われ、ナーランダー僧院という研究の中心となる学院もこの時代に創設されました。美術の世界では純インド的な仏教美術(グプタ様式)が完成します(ヘレニズム文化の影響の強かったガンダーラ美術との対比が大事ですよ)。代表的な建築物としてアジャンターの石窟寺院が有名です。

 グプタ朝は、5世紀後半に地方の有力者たちの離反及び独立によって衰えていき、6世紀にエフタルという民族からの侵入を受け、滅びてしまいました。

3.ヴァルダナ朝以降
 グプタ朝の崩壊後、7世紀に北インドを再び統一したのがヴァルダナ朝のハルシャ=ヴァルダナ(戒日王)です。この王自身は巧みに政権を運営しましたが、王の死後、政権は崩壊し、この王朝は短命に終わってしまいました。また、ヴァルダナ王は仏教を保護したことで知られています。この時代に、ちょうど中国から一人の僧がやってきました。その名は玄奘(げんじょう)。私たち日本人にとっては西遊記のモデルといったほうがわかりやすいでしょうか。ナーランダー僧院で仏教を学ぶためにやってきた玄奘をヴァルダナ王は厚遇し、玄奘が唐に戻ろうとした時は強くひきとめたそうです。政治だけでなく学問にも通じていたヴァルダナ王は異国から来た優秀な人を帰したくなかったのでしょうね。その玄奘が書いた『大唐西域記』という記録には、当時の王朝の繁栄した様子が描かれています。
 
 ヴァルダナ朝の滅亡後、インドは混迷の時代へと入っていきます。数世紀間、様々な民族が争い、多くの王朝が生まれは滅んでいきました。この時代をラージプート時代(7世紀〜12世紀)と呼んだりもします。この時代には中国から義浄という僧がやってきて、玄奘と同じように仏教を学びました。義浄は行きも帰りも海路を使い、彼の書いた『南海寄帰内法伝』にはスマトラ島(現在のインドネシア)に大乗仏教が広がっていたことが記されています。法顕、玄奘、義浄の3人はごちゃごちゃしないよう整理して覚えて下さいね。

 そして、11世紀頃からイスラーム勢力(ガズナ朝、ゴール朝)が次々と侵入し、1206年にデリーにイスラーム政権がうちたてられました。インドは新しい時代へと入っていくのです。