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【世界史】第9回 ギリシア世界③ 〜アテネの民主政 

【世界史】第9回 ギリシア世界③ 〜アテネの民主政 

カテゴリ:

   世界史
   先史・古代

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1.民主政への歩み

 ギリシアのポリスは従来、王のいない政治体制がとられてきました(初期では存在していたようですが)。そこで力を保持していたのは貴族たちです。豊かな財産を保有し、戦争の時にはポリスを守るためにその財産で武器を用意して懸命に戦っていたからこそ発言力があったのです。

 ところが、紀元前7世紀ころから前回話したように植民市を建設したり、隣国のリディア(以前の講義で登場しました。世界最古の貨幣鋳造国でした。)から鋳造技術を学んで貨幣の使用が普及したりというようなことから商業が盛んになり、平民のなかにも豊かな富裕層が出てくるようになります。経済的な余裕が出てきた平民たちの中には騎馬を用意することはできなくとも歩兵(重装歩兵)ならば、とポリスを守るための戦いに参加するようになります。ポリスを守るという行為は当時の人々からすればとても名誉なことでした。

 とはいえ、当時の戦いの中心は主に貴族たちが担っていた騎兵です。馬に乗った敵を相手にすると歩兵は分が悪い。そこで編み出されたのが密集隊形による戦法です(ファランクスといいます)。 歩兵たちが密集し、長槍と楯をもって突撃します。多くの兵士がびっしりと並んで陣形を崩さずに突撃してくるので騎兵といえどもなかなか倒すことはできません。古代ギリシアやローマをモデルにした映画などではその姿を見ることができますが、歩兵たちが互いに協力し合うことが当然必要です。意思の疎通を欠いてしまったら死んでしまいます。何度も訓練し、完成度を高めないとなりません。訓練のうちに平民どうしの連帯感も生まれてきます。この共同体意識こそがポリスを存続させるための要となるものでした。

 戦いに参加するようになった平民たちはやがて政治への参加も要求するようになります。こうしてギリシアのポリスの多くは市民たちが自ら政治に参加するという直接民主政を採用するようになります。その代表がアテネ(アテナイ)というポリスです。

2.アテネの歴史
 古代ギリシアの大きな特徴である民主政治が典型的なかたちでうまれたのがアテネです。ここではアテネがどのように民主政治を行うようになり、国自体が栄えていったのかを見ていきます。アテネでは紀元前7世紀の頃から経済的な理由により市民たちのなかで対立が起きるようになります。貴族、豊かな平民たちと貧しい平民たちとの経済的格差が大きくなり、貧しい者の中には借金を返せずに債務奴隷となるものたちが出てくるようになりました。市民(特に平民)の不安と貴族への反感が大きくなってくると、改革の動きが出てきます。 

 まず前7世紀末にドラコンの成文法がつくられます。従来、人々の争いが起きると過去の慣習を参考にして人々が判断していました(これを慣習法といいます)。しかし、これだと争いを裁く人の都合のいいように解釈されてしまう危険があります。そこで裁判の基準としてきちんと文章にする(成文化する)ことで、自分たちの都合のいい解釈をできにくくすることにしたのです。つまりは貴族が平民を都合よく裁くのを防ぎ、平民を守るためのものだとわかります。

 次は前6世紀初めの話です。ソロンという人物によって改革が行われます。ソロンは平民と貴族を調停しようとして、2つの改革を行いました。1つは財産政治です。具体的には血筋ではなく財産額の大小によって4つの身分に分けて政治に参加する権利(参政権)の内容を区別していくというものです。もちろん貴族は財産を多く持っていますが、平民にも財産を持っている人が一定数はいたのである程度平民が政治に参加できるようになったといえます。そして、もう1つは負債(借金)を帳消しにして、借財を負った市民を奴隷として売ることを禁止しました(借財奴隷の禁止)。

 やがてポリスでは権力を持った僭主(せんしゅ)と呼ばれる独裁者が登場します。僭主とは貧しい人たちから支持を集めた非合法的な独裁者のことを指しますが、アテネに登場したペイストラトスは私たちが抱くような「悪い独裁者」ではないようです。確かに非合法的に権力は奪いましたが、ペイシストラトスは貧しい民のための政治を志した人だったようで、民衆からの評判は良かったようです(次の僭主は反発をうけ、追放されたようですが)

 独裁政治はあんまりなあ…とアテネ市民は思ったのでしょうか。アテネでは陶片追放の制度(オストラシズム)を定めます。僭主となるような恐れのある人物の名前を陶片に刻み、その刻まれた名前が一定数に達すると国外へと追放されてしまうという制度です(6000票集めた人は10年間国外追放だったようです)。この制度はクレイステネスという人物の指導のもとにつくられました。クレイステネスは他にも重要な改革を行っています。それはソロンの改革以来の財産政治をあらためて、地域別に政治の単位をつくることでした。地域を10の共同区(デーモス)に分けて、政治の単位とする。これによって政治面での市民の平等化が進み、アテネの民主化がより一層完成へと近づいていきました。しかし、これで完成だとは言い切れません。なぜなら、政治に参加できたのは貴族たちと重装歩兵として戦った平民だけだからです。お金のない市民(無産市民)が政治に参加できるようになるのはまだ先の話になるのでした。

3.ペルシア戦争とアテネ民主政の完成
 紀元前525年という年の出来事を覚えている人いますか?以前の講義で扱ったアケメネス朝がオリエントを統一した年です。イラン人(ペルシア人)の国だったアケメネス朝は次々と勢力を拡大し、最盛期の王ダレイオス1世のとき、小アジア(現在のトルコ)へと侵入してきてくるのですが、当然嫌がる人たちもいます。イオニア地方のギリシア人たちはアケメネス朝の支配を受け入れずにミレトスを中心とした植民市が反乱を起こしたのです。その反乱を支援したアテネはアケメネス朝から目をつけられ、戦争となります。この一連のアケメネス朝とギリシア(アテネやスパルタ中心)の戦いをペルシア戦争といいます。

 「大変だ!大国がギリシアを攻めてくる!」各ポリスは大慌てです。実際、アケメネス朝と戦おうとするだけの気概をもったポリスはアテネやスパルタなどわずかだったといいます。それだけアケメネス朝が当時勢いがあったのです。とはいえ、第1回(前492年)のダレイオス1世率いるペルシア遠征軍は海難事故にあい、途中で撤退します。「助かった!」と思ったのもつかのま、第2回(前490年)の遠征軍は無事に海を渡りギリシアへと攻め込んできます。ところが勝利したのはアテネ軍のほうでした!遠征軍をうちやぶる原動力となったのは重装歩兵たちでした。このマラトンの戦いは、アテネというポリスの結束力がオリエントの大軍を破った、画期的な戦いとして後世に名を遺しています。

 余談ですが、このマラトンの戦いといえば、現在のマラソンの起源として知られていますね。当時のアテネの伝令フェイディピデスが自分たちの勝利を自国で待つ市民たちにいち早く知らせるために戦地からアテネまで重装備のまま走破した後に絶命したという伝説からマラソンが生まれたと言われています。ただ現在のマラソンの42.195kmではなく、フェイディピデスが走ったマラトン〜アテネ間の距離は36.75kmだったらしいのですが。この伝説になぞらえて2004年のアテネオリンピックではマラトン〜アテネ間で競技が行われたのです(もちろん42.195kmのコースを用意してです)。そのコースで金メダルをとったのが日本の野口みずき選手だったことを覚えている人もいるかと思います。

 以上、余談でした。続いて10年後、第3回の遠征軍がギリシアに向かってきます(前480年〜)。このとき、アケメネス朝はダレイオス1世が死去しており、クセルクセス1世が後を継いでいます。第1回、第2回が様子見程度の軍隊だったという指摘があるくらいに、第3回の遠征軍は大規模なものです。まず迎え撃ったスパルタ軍はレオニダス王率いるわずかな数の兵士たちが奮戦しますが、全滅してしまいます(テルモピレーの戦い)。残るはアテネのみ。アテネさえ倒せばギリシアは我が国の手中に。そう思って軍を進めたアケメネス朝の前にアテネの人たちはなすすべなく街を明け渡してしまったのです。ただし、軍隊は船にその居場所を移していました。海戦で決着をつけようと目論んでいたのです。アテネとアケメネス朝の戦いは海の上で決着をつけることとなりました。これがサラミスの海戦(前480年)です。テミストクレスの指導によって奮戦したアテネ軍は見事にペルシア軍を撃退することに成功しました。続いてアテネ・スパルタ連合軍はプラタイアの戦い(前479年)でアケメネス朝の軍を撃破して、ペルシア戦争でのギリシア側の勝利が確定しました。アテネは引き続きアケメネス朝の反撃を警戒して、周りのポリスに同盟を呼びかけます。このアテネ中心のポリス同盟をデロス同盟といいます。デロスとは同盟国の資金を貯蓄するための金庫が置かれていた島の名です。

 もう1つ余談ですが、この戦いで活躍したテミストクレスという人物は戦いの指揮に優れていただけでなく、なかなかの先見の明を持つ人物でありました。アテネが繁栄していくうちに後にスパルタと対立するであろうことを予測し(実際にそうなってゆきます)、先手としてスパルタの力を削ぐような政策を次々と実行していたのです。しかし、その実行のためにはある程度好きに人を動かせる権力が必要になります。アテネのためにと思ったテミストクレスの様子はギリシアの人々から見れば専横的に見えたようです。彼は戦争の英雄でありながら追放されることとなりました。追放されたこともびっくりですが、亡命した先もびっくりのペルシアです。彼はかつての敵国に身を寄せました。そして、そんな彼に待ち受けていたのは「アテネを討て」でした。ギリシア遠征軍の将としてアテネと戦うようペルシアの王に命じられたのです。かくまってくれた恩ゆえに断ることもできません。アテネを愛した男は自分の運命に振り回されながら、最期は自決を選んで死んでいきました。

 さて、ペルシア戦争が終わると、いよいよアテネでは民主政治が完成へと向かいます。先のサラミスの海戦で活躍したのは従来の武器をもった戦士たちだけではありませんでした。当時、アテネが所有していた船は三段櫂船(かいせん)と呼ばれるもので、この船で突撃して相手の船に穴をあけて沈めてしまう戦法がとられていました。よって船の素早さというか機動力が大事になってきます。その機動力を担う役割だったのが重装歩兵になれなかった無産市民の人々です。サラミスの海戦の勝利の立役者となった無産市民たちは「自分たちの活躍でアケメネス朝に勝てたんだぞ!」と政治への参加も要求します。アテネの政治には多くの人々が参加するようになったのです。
 
  アテネの民主政治全盛期の頃の指導者はペリクレスです。このペリクレス時代は民会が最高機関となり、男子市民が政治に参加する仕組みがつくられました。女性には参政権は与えられていません。多数決で政治的決定が行われ、重要な官職はくじ引きで任命されました。裁判もプロ裁判官がいるわけではなく、陪審制でみんなで話し合って決めていました(そこで起きたのがソクラテスの悲劇ですね。詳しくは倫理編第2回をどうぞ)。これだけ政治のことに時間をかけると、自分がやるべき仕事がおろそかになりそうです。その分は奴隷が補っていました。アテネの直接民主政には奴隷は欠かせない存在でした。ゴンムという学者の推定によれば、前431年当時のアテネ市民が約43000人いたのに対して、奴隷は約115000人ほどいたらしいです。スパルタほどではないにせよ3倍近く市民より奴隷が多くいるというのは驚きですね。