歴史・人名

インドネシア独立宣言と独立戦争

インドネシア独立宣言と独立戦争

大東亜戦争中、今村均(ひとし)中将が率いる第一六軍など総兵力5万5千人によってわずか10日間の戦闘でインドネシア全域が制圧された。日本軍によるインドネシア侵攻によって、330年もの長期にわたって続いたオランダのインドネシア植民地支配が終わった。
大東亜戦争中に日本軍の支援によりインドネシア人による軍隊(PETA)の結成や官僚の育成、法制度や教育体制の整備などを着々と進めたインドネシアは、日本軍が敗れた二日後の1945年8月17日、初代大統領に就任したスカルノは独立を宣言した。

ところが、日本軍に駆逐されたオランダは9月下旬、「インドネシア人は極めて従順な種族である。日本軍が降伏してしまった現在、我々が上陸すれば、彼らはただちに元どおり従順になるに違いない」と考え、インドネシアの独立宣言を無視してイギリス軍とともにインドネシアのスラバヤに上陸した。
しかし、インドネシア軍はもはや従順ではなかった。日本軍によって訓練され、日本軍の武器を持ったインドネシアの民衆軍に強襲され、イギリス軍はたちまち一個師団が全滅してしまう。
結局、スラバヤの市街地を占領するのに100日間も費やしたイギリスは軍事制圧を断念、和平交渉に転じ、1946年11月にイギリス・オランダ間で暫定的な協定が成立するや軍隊を撤退させてしまった。スラバヤ戦争で市街地を灰にし、約2万人もの犠牲者を出したことに対してイギリスは何ら謝罪も補償もしなかった。
イギリス軍は撤退したが、オランダはインドネシアの再植民地化をあきらめなかった。1947年7月、オランダは再びインドネシアに対して軍事行動をしかけた。このころ、東京裁判では、戦勝国の一員としてオランダは、インドネシア独立を支援した日本の指導者を「侵略戦争」を行った罪で裁いていた。
オランダ軍は戦車、飛行機、重機関銃など近代装備の部隊約10万人。インドネシア共和国軍は兵員こそ200万人だったが武器は日本軍より秘密裡に渡された小銃4万丁ぐらいで、大半の兵士は竹槍を手に立ち向かった。インドネシア軍は敗退を続けたが、オランダのこの「侵略戦争」は「世界中の非難」を浴び、国連安保理も「オランダの敵対行動の即時停止」を決議した。しかし、オランダは占領地域からの軍隊撤退を拒否した。オランダはさらに攻撃を強め、軍事的にはオランダの勝利に終わったが、都市を無差別に爆撃したオランダに対し再び「国際世論」は激しい非難を浴びせかけた。とりわけインドをはじめとするアジア諸国がオランダを非難し、国連安保理もオランダに対してインドネシアから撤兵するよう勧告する決議案を採択した。また、これ以上軍事行動を続けるならばオランダに対するマーシャル・プラン(アメリカによる欧州経済復興援助)を打ち切るべきだという声がアメリカ議会から出ていた。大東亜戦争では仲間だったアメリカはオランダを裏切ったわけだ。これによってオランダは折れ、ついに独立を前提とした和平交渉に応じた。

3年半にわたる対オランダ独立戦争でインドネシア側が払った犠牲は婦女子も含め死者だけで80万人、負傷者は1000万人を超え、無差別爆撃で失われた財産・家屋の被害額はとても算出できる額ではなかった。ところが、和平交渉でオランダはインドネシアの犠牲者に謝罪するどころが、驚くべき要求をインドネシア側に突きつけた。インドネシアが受けた被害を補償するどころかオランダの戦費、インドネシア政府のオランダ人官吏の恩給、オランダ人所有の不動産の権利を認めること、北スマトラの油田の開発費を非払うことなどまで要求したのだ。オランダの厚顔ぶりには呆れる。
こうしたオランダの理不尽な要求を、インドネシアは独立を認めてもらうために泣く泣くすべてを飲んだのだ。そして完全独立を達成し、オランダによる再侵略の心配がなくなった1963年になってようやく、それらオランダの要求を否認した。
その時の外相であったアブドルガニー氏は、江崎道朗氏のインタビューにこう答えている。
「我々はようやく力がついてから全世界の見ているところでオランダとの約束を全部破り捨てた。つまり植民地主義と戦うには力がないと勝てない。オランダと戦う力、つまり軍事能力を戦時中、日本が与えてくれたおかげで我々は独立することができた」
オランダ政府が正式にスカルノによる独立宣言を認めたのは2005年である。このような苦難の歴史を強いられてきたインドネシアにとって、オランダをはじめとする連合国を「正義」、日本を「侵略国」とみなす東京裁判史観は到底指示できるものではない。