歴史・人名

インドネシア連邦の傀儡国家群

インドネシア連邦の傀儡国家群

 
 東インドネシア国 南スマトラ国 東スマトラ国 マドゥラ国 パスンダン国 東ジャワ国

 1945年8月17日 インドネシア共和国が独立宣言
 1946年10月22日 西カリマンタン連合が成立
 1946年12月7日 大ダヤク自治地域が成立(48年1月 16日にオランダ政府が公認)
 1946年12月24日 大東国(ネガラ・ティモール・ベ サール)が成立
 1946年12月27日 大東国が東インドネシア国(ネガ ラ・ティモール・インドネシア)に改称
 1947年1月8日 東南カリマンタン自治地域が成立
 1947年5月4日 パスンダン共和国が成立するが、オラン ダ政府に公認されず
 1947年5月12日 西カリマンタン連合が西カリマンタン 自治地域に改称
 1947年7月12日 バンカ、ブリトゥン、リアウで自治地 域が成立
 1947年8月27日 大シヤク自治地域が成立
 1947年12月25日 東スマトラ国が成立
 1948年1月23日 マドゥラ国が成立
 1948年2月4日 大シヤク自治地域が東カリマンタン連合 自治地域に改称
 1948年2月26日 スンダ共和国が西ジャワ国と改称し、 オランダ政府が公認
 1948年4月24日 西ジャワ国がパスンダン国に改称
 1948年8月11日 バタビア臨時連邦直轄区が成立
 1948年8月30日 南スマトラ国が成立
 1948年11月26日 東ジャワ国が成立
 1949年3月2日 中ジャワ自治地域が成立
 1949年12月27日 インドネシア連邦共和国と、それを 構成するインドネシア共和国と「傀儡6カ国」がオランダから独立
 1950年3月9日 東ジャワ国、マドゥラ国と中ジャワ自治 地域がインドネシア共和国へ合流して消滅
 1950年3月11日 パスンダン国がインドネシア共和国へ 合流して消滅
 1950年3月24日 南スマトラ国がンドネシア共和国へ合 流して消滅
 1950年4月4日 バンカ、ブリトゥン、リアウ、東南カリ マンタン自治地域がインドネシア共和国に合流
 1950年4月24日 東カリマンタン連合自治地域がインド ネシア共和国に合流
 1950年5月19日 インドネシア連邦共和国がインドネシ ア共和国への統合交渉を開始
 1950年8月17日 インドネシア連邦共和国が消滅。残っ ていた東インドネシア国、東スマトラ国と西カリマンタン自治地域もインドネシア共和国となる
 

 1948年末の インドネシア(オランダ領東インド)の地図 赤がインドネシア共和国、青が傀儡6カ国、水色が自治地域、紫はオ ランダ軍占領地域
 1940年代後半のインドネシアとマレーシアの地図 インドネシア連邦は赤 がインドネシア共和国、黄色や緑が傀儡6カ国、青や水色は自治地域
 
 『世界年鑑 1950』。インドネシア連邦独立時点での地図
 イ ンドネシアの正式国名はインドネシア共和国ですが、1949年にオランダから独立した時はインドネシア連邦共和国でした。じゃあ連邦共和国→共和国へ国名を改称したのかといえば、そう単純なわ けではありません。連邦共和国だった時期にも共和国は存在していていました。一体どういうことでしょう?

 インドネシアはかつてオランダ領東インド(略して蘭印)と呼ばれたオランダの植民地太平洋戦争で日本軍が占領し、日本の敗戦時にスカ ルノやハッタがインドネシア共和国の独立を宣言したが、やがて戻ってきたオランダ(実際にはオランダは戦時中のナチス占領で本国が壊滅状態だったのでイギ リス軍)はインドネシアの独立を認めず、4年に及ぶ独立戦争が始まった。

 1946年11月にはオランダを助けてインドネシアを占領していたイギリスの仲介で、リンガルジャティ協定が結ばれた。協定によればイ ンドネシア共和国の領土はジャワ島とスマトラ島に限定され、それ以外の各地域ごとに自治国や自治地域を作り、オランダの宗主権の下で連邦を構成することに なった。これでは独立には程遠いが、スカルノらは「インドネシア共和国が公認されたことになる」とリンガルジャティ協定を受け入れた。こうしてオランダの 後押しで、各地の王侯(スルタン、ラジャなど)や親オランダ知識人たちによって自治国(ネガラ)や自治地域(ダエラ)が次々と樹立された。

 しかしオランダは本国が復興すると、47年7月にインドネシアへ15万の兵力を送り込んでジャワ島やスマトラ島の主要都市や農場、油田 などを占領(第一次警察行動)。48年1月にはインドネシア共和国の領土をさらに縮小したレンヴィル協定が結ばれるが、オランダは48年12月にこの協定 も破ってインドネシア共和国の首都・ジョクジャカルタを占領し、スカルノやハッタを拘禁した(第二次警察行動)。インドネシア共和国内部でも、スカルノら の弱腰を批判して48年9月に共産党がジャワ島東部でインドネシア・ソビエト共和国の樹立を 宣言、49年8月には右派イスラム勢力がジャワ島西部でダルル・イスラム(インドネシア回教国)の 樹立を宣言して内戦になった(※)。

  ※ダルル・イスラムの反乱は、スマトラ島やスラウェシ島にも波及してインドネシア 独立後も続き、平定されたのはようやく1965年のこと。しかしその後もア チェ独立運動に引き継がれて続いている。

 しかしオランダの露骨な再植民地化は国際的な非難を浴び、特にアメリカはオランダ本国復興のための経済援助(マーシャル・プラン)を停止すると発表したた め、オランダもインドネシアの独立を認めざるを得なくなり、1949年のハーグ円卓会議で「インドネシア連邦共和国」が独立することが決まった(※)。

  ※アメリカがインドネシア独立を後押ししたのは、東西冷戦が激しくなってきた当 時、中 国に続いてインドネシアも反植民地戦争を契機に共産主義勢力が政権を握ってしまうことを恐れたためもある。

 インドネシア連邦共和国は、スカルノ率いるインドネシア共和国のほかに、東インドネシア国、パスンダン国、東ジャワ国、マドゥラ国、東スマトラ国、南スマ トラ国の6カ国、さらに中部ジャワ、バンカ、ブリトゥン、リアウ、大ダヤク、バンジャル、西カリマンタン、東南カリマンタン、東カリマンタンの9つの自治 地域(※)を合わせて合計16の国・地域で構成され、このほか連邦の首都・ジャカルタ(=バタビア)は連邦直轄区とされた。

  ※自治地域(ダエラ)は将来、隣接する国(ネガラ)に統合されるか、またはいくつ かの地域で国(ネガラ)を樹立することとされた。またニューギニア島の西 イリアン(後のイリアンジャヤ→パプア)は、インドネシア側は連邦に含めるように要求したが、オランダは統治を続けることを主張して、「継続協 議」という形で曖昧となった。

  
 日本軍の下で「米英撃滅」を演説するスカ ルノ(右)、傀儡6ヵ国とともにオランダから独立したスカルノ(右)

 ようするに、オランダとしては独立戦争を続けてきたインドネシア共和国を、ジャワ島中部のジョクジャカルタ一帯の狭い地域や主要都市や産油地帯を除くスマ トラ島の飛び地に封じ込めてしまい、「その他大勢」の傀儡国や傀儡地域と連邦を組ませ、連邦とオランダとでオ ランダ・インドネシア連合を作る形で、引き続きオランダによる支配を目論んだのだった。

 しかし、「傀儡」と見られたこれらの国や地域も考え方はさまざまで、「インドネシアの独立達成のためには、一時的にオランダと 手を組むのもやむを得ない」という東インドネシアのゲデ・アグン首相をはじめ、マドゥラ、パスンダン、東ジャワ、中部ジャワ、東南カリマン タン、東カリマンタン、バンジャルなどのグループと、「インドネシアからの独立のためにオランダと手を組む」という東スマトラのマンソール代表や西カリマンタンのハミッド2世はじ め、南スマトラ、大ダヤク、バンカ、ブリトゥン、リアウなどのグループに分かれていた。
 
 『世界年鑑 1951』。傀儡国のほとんどが消えた50年夏時点の地図
 第 二次警察行動ではオランダの露骨な共和国潰しに、前者のグループではオランダへの反感が広がっていたが、連邦の独立とともに後者のグループも態度を変え、 連邦の大統領にスカルノ、首相にハッタを選出する。スカルノとハッタはインドネシア共和国の大統領と首相だから、連邦の権限は共和国政府が握るようになっ た。さらにスカルノの「単一共和国建設」の呼びかけに応えて、半年あまりで次々と雪崩を打ってインドネシア共和国へ主権を移譲し解散。最終的にインドネシア連邦共和国=インドネシア共和国となってしまい、連邦も消滅した。

 結局これらの傀儡国・地域はオランダの軍事力に支えられていた存在に過ぎず、自前の軍隊は持っていなかった。連邦独立でオランダ軍が撤 退する代わりに、各傀儡国・地域には連邦軍と名を変えた共和国軍が進駐した。こうして共和国軍による軍政と傀儡国・地域政府による民政の二重統治状態にな り、傀儡国・地域政府は実質的に権力を失った(※)。

  ※傀儡国に進駐した共和国軍は、本来の権限を超えて各種の許認可をしたり税を徴収 し始め、傀儡国の行政権限を奪ってしまった。当時は住民も傀儡国一掃のために軍の越権を支持したが、傀儡国が消滅した後もインドネシアでは軍が地方で絶大 な権力を握る仕組みが定着してしまった。

 そして多くのインドネシア人もオランダがでっち上げた傀儡国がさっさと消滅することを願い、共和国による統一を求める大衆運動が巻き起こった。これでは傀 儡国は存在し続けることは不可能で、自ら共和国への併合を要請するしか道はなかったのだ(※)。

  ※傀儡国にとっては通貨問題も打撃になった。独立前の通貨は共和国ではインドネシ ア・ルピア、傀儡国・地域ではオランダが発行した東インド・ギルダーを使っていたが、連邦独立後は当面両方の通貨を併用することになった。しかしオランダ 撤退後のギルダーは嫌われて価値が下がり、50年3月にギルダー切り下げが実施され、傀儡国の財政は打撃を受けることになった。

 このような歴史的経緯があるので、インドネシアでは単一共和国の維持が絶対視され、「連邦制」は新植民地主義の象徴としてタブーになっています。イギリス に統治されていた同じマレー系民族のマラヤとシンガポール、北ボルネオ(サバ)、サラワク、ブルネイが1963年にマレーシア連邦を結成しようとすると、 スカルノは過敏に反応して「マレーシア粉砕」を合言葉にあわや戦争寸前となったことも。

 多民族国家のインドネシアはイスラム教徒が9割近くを占めるとはいえ、一貫して宗教の多様性を認め、最近では独立運動が続くアチェやパ プアに特別自治を認めたりと、傍から見れば連邦制が最適な国のように思えるが、連邦制アレルギーは まだまだ根深いようだ。

 大東国→東インドネシア国 首都:マカッサル

 1946年12月24日 大東国が成立
 1946年12月27日 東インドネシア国に改称
 1949年12月27日 インドネシア連邦共和国の独立に 伴い、その構成国となる
 1950年8月17日 インドネシア連邦共和国の消滅に伴 い、インドネシア共和国に編入される
 
 

 バリ島からニューギニアの手前まで、インドネシアの東半分に広がる広大な海域に散らばる島々を合わせた国。民族も雑多なら言語も雑多 で、宗教もイスラム教のほか、セレベス島(現:スラウェシ島)やマルク諸島、フローレス島、ソロール島などではキリスト教徒も多く、バリ島はヒンズー教 だ。

 地域として何のまとまりもない組み合わせだが、この区分はもともと日本軍が設定したもの。戦争で蘭印を占領した日本軍は、ジャワ島やス マトラ島など西部は陸軍、東部は海軍が占領して、別々に軍政を敷いた。終戦で日本軍が降伏するとイギリス軍がやって来たが、西部はインドのイギリス軍(英 印軍)、東部は当時イギリス自治領だったオーストラリア軍が占領して、引き続き別々に軍政を敷いた。この日 本軍やイギリス軍による分断統治を、オランダはそのまま「活用」して傀儡国家を作ろうとしたわけ。

 オランダは46年7月に、スルタンやラジャなど東部各地の王侯たちをセレベス島のマリノに集め、大東国(ネガラ・ティモール・ベサール)の結成を提案するとともに、オランダ女王への忠誠と総督への服 従を誓わせた。そして12月にはバリ島のデンパサールで再び会議を招集し、大東国の成立を宣言させた。

 バリ島は日本軍の占領時代、ジャワ島とともに陸軍の管轄区域だったが、オランダは全インドネシアの人口の6割を占めるジャワ島に対抗さ せるため、ジャワ島に次いで人口密度が高いバリ島を大東国に組み入れた。また大東国にはイスラム教徒とキリスト教徒の対立が続く島もあったので、第三者の ヒンズー教徒であるバリ人の存在は重要だった。大東国の首都は大航海時代から香料貿易の拠点として栄えたセレベス島のマカッサルに置かれたが、大統領には バリ島の貴族・スカワティが選ばれた。

 
 左:初代首相のナジャムーディン(中)とスカワティ大統領 (右)。右:スカワティ大統領の就任を祝って踊るバリ島の少女

 オランダ主導の「国作り」に対する反応は地域によってまちまちだった。植民地時代から蘭印軍(オランダ軍の現地人兵士)の兵士になる者 が多かったマルク諸島のアンボン人やセレベス島北部のメナド人は、オランダ軍やオランダ人官吏の復帰を歓迎したが、セレベス島南部では共和国支持の民族主 義者たちが戻って来たオランダ人にテロ活動を繰り返し、ウェステルリング大佐が率いるオランダ軍も「テロ撲滅」を理由に虐殺事件を引き起こすなど騒乱状態 が続いた。また目と鼻の先のジャワ島から分断されたバリ島では、スカルノの母親がバリ島の貴族出身だったことから共和国への親近感が強く、スカワティ大統 領はじめバリ人の強い要求で、大東国は成立3日後には東インドネシア国(ネガラ・インドネシア・ティモー ル)に改称され(※)、国旗は赤と白のインドネシア共和国国旗をあしらったものが制定された。

  ※「ティモール」とはインドネシア語で東の意味で、ティモール島は日本語に訳せば 東島。だから東ティモールは「ティモール・ティモール」で、略してTIM TIM。

 ゲデ・アグン首相
 こ うしてスタートした東インドネシア国だったが、領土の4分の3は王侯たちの自治領とされ、直 接オランダに忠誠を誓った115人のスルタンやラジャが支配し、東インドネシア政府の統治はほとんど及ばなかった。初代首相にはセレベス島のナジャムー ディンが就任したが、数ヶ月ごとの首相交替が相次ぎ、唯一腰を落ち着けることができたのは47年12月から2年間にわたって首相を務めたゲデ・アグンだけ だった。

 ゲデ・アグンはバリ島のギアニャール王国のラジャで、スカワティ大統領とのバリ人コンビ の下、オランダの傀儡だったはずの東インドネシア政府は共和国寄りになり、48年12月のオランダ軍による第二次警察行動では、ゲデ・アグ ン内閣はオランダに抗議していったん総辞職したほどだった。また西イリアンをインドネシアから切り離して引き続き統治し続けようとするオランダに対し、東 インドネシア国への編入を要求し続けた。

 ハーグ円卓会議にあたって、東インドネシア国は傀儡国・地域を率いて事前に共和国と交渉して意思一致を図り、連邦としてのインドネシア の完全独立と、独立後の共和国への合流に道を開いたが、東インドネシア国自身が共和国へ合流したのは一番最後だった。王侯たちの大部分は忠誠を誓ったオラ ンダが撤退すると、共和国への編入を受け入れたが、キリスト教徒たちの間では「イスラム教徒のジャワ人に支配される」と反発が広がった。

 特に蘭印軍の兵士たちは、それまで敵として戦っていたインドネシア共和国軍に編入されることに猛反発し、50年4月には首都マカッサルでクーデターを起こして共和国軍のマカッサル進駐を阻止しようとした。クーデターは共和 国軍によって間もなく鎮圧され、東インドネシア政府は共和国への編入に同意したが、アンボン島などでは南 マルク共和国の独立を宣言して戦争が始まり、セレベス島南部でもカハル・ムザカルに率いられたダルル・イスラム系のイスラム急進派が65年頃まで 武力抵抗を続けた。

 東インドネシア国の政治家たちのその後はさまざまで、インドネシア統一に功績のあったゲデ・アグン首相は、共和国政府に入りスカルノ政 権の外相として活躍した。一方でマルク諸島出身のソウモキル法相やマヌサマ上院副議長は南マルク独立運動の中心人物となり、ゲリラ戦を指揮したソウモキル は逮捕されて1966年に死刑となり、マヌサマは93年までオランダで南マルク共和国亡命政府の大統領を続け、独立運動に一生を捧げることになった。

 南スマトラ国 首都:パレンバン

 1948年8月30日 成立
 1949年12月27日 インドネシア連邦共和国の独立に 伴い、その構成国となる
 1950年3月9日 インドネシア共和国が行政管理
 1950年3月24日 インドネシア共和国に編入されて消 滅
 
 

 スマトラ島はジャワ島の4倍の面積を擁する大きな島だが、人口はジャワの5分の1だった(現在では3分の1)。未開発のジャングルが多 く、石油などの天然資源も豊富だ。1946年のリンガルジャティ協定では、スマトラ島はジャワ島とともに共和国の領域とされたが、オランダは協定を無視し てスマトラ島を切り離し、インドネシアを東インドネシア、ジャワ、スマトラに3分割して、資源が眠る両脇は 傀儡国で固め、共和国を人口過密なジャワ島に押し込めようと目論んだ。

 もともとインドネシアの3分割を実行したのは日本だった。太平洋戦争で日 本軍は蘭印へ侵攻すると、東インドネシアを海軍が、ジャワとスマトラは陸軍が占領したが、陸軍の占領地域のうち、ジャワでは第16軍が軍政を敷き、スマト ラは第25軍がマレー半島と一緒に統治した。日本軍はそれまでオランダ支配下で独立運動をしていたスカルノらと手を結んだが、彼らが熱望するインドネシア の独立については曖昧な態度を取り続けた。日本軍がインドネシアを占領した目的は石油などの資源を確保することだったので、将来ジャワは独立させることが あっても、東インドネシアやスマトラは日本が植民地として支配し続けるつもりだった。インドネシア人はオランダ人を追い払った日本軍を赤と白の二色旗 (現:インドネシア国旗)を振って歓迎したが、日本軍は二色旗の掲揚も禁止した(※)。

  ※1943年11月に日本は東京に親日政権を集めて大東亜会議を開催し、日本軍占 領下で独立予定のビルマ、フィリピンや、自由インド仮政府の代表も出席したが、スカルノらインドネシアの代表は招待されなかった。

 やがて戦況が悪化し、南方の資源を日本本土へ運ぶことが絶望的になると、日本はインドネシアの独立を正式に認め、45年4月に独立調査準備会を発足させ て、二色旗の掲揚も解禁した。しかし独立調査準備会にはスマトラの代表は含まれず、スマトラでは別に中央参議院が開設され、日本軍はスマトラを訪問したい というスカルノの要請を拒否した。3年以上に及んだ日本軍による分断統治で、ジャワとスマトラとの間では溝が生まれ、終戦によってジャワでインドネシア共 和国の独立が宣言されると、スマトラの独立運動家の間でもジャワによる中央集権化への警戒が広がり、スカルノの指導を無視して王族処刑などの急進的なゲリ ラ活動が続いた。これにつけこんだのがオランダで、スマトラを独立させることによってジャワの共和国政府に 対抗させようとした。

 こうして1947年夏に軍事攻勢に出たオランダは、スマトラ南部のパレンバンや 東部のメダンを占領した。パレンバンは7世紀から14世紀までスマトラ島からマレー半島にかけて栄えた海洋国家・シュリーヴィジャヤ王国の首都で、通商都 市として栄えた町(※)。オランダの進出後は交易拠点としての繁栄はバタビア(ジャカルタ)に奪われたが、20世紀に入ると石油が発見され、蘭印随一の産 油拠点として発展していた。

  ※かつては巨大な港町だったということで、中国語では現在もパレンバンを「巨港」 と書く。同様にタイの昔の首都・アユタヤは、中国語では今も「大城」(=大都市)。

 しかし、オランダと手を結んだスルタンなどの旧来からの支配層には、スマトラ諸民族が団結してジャワに対抗するという発想はなく、南部と東部ではそれぞれ マレー人が権力を握って個別の傀儡国を作ったので、アチェ人の北部やバタック人、ミナンカバウ人が中心の西部は支配できなかった。南スマトラ国では共和国 側のゲリラ活動によって産油施設は相次いで破壊されて、石油生産は低迷し、オランダの強い後押しで、49年春に南スマトラ国のアブドル・マリク代表は東ス マトラ国のマンソール代表とともにスマトラ国民会議の結成を呼びかけたが、共和国側が支配す る北部や西部からは無視された。

 結局、スマトラ統一というオランダの目論みは果たせぬまま49年末にインドネシア連邦として独立すると、南スマトラ国は存在する意味が なくなり、1950年3月に共和国政府に接収されて消滅した。

 東スマトラ国 首都:メダン

 1947年10月8日 東スマトラ特別地 域が成立
 1947年12月25日 東スマトラ国が成立
 1949年12月27日 インドネシア連邦共和国の独立に 伴い、その構成国となる
 1950年8月17日 インドネシア連邦共和国の消滅に伴 い、インドネシア共和国に編入される
 
 

 「マレー人優先政策」といえば、マレーシア政府が行っているプミプトラ政 策のこと。経済を牛耳る華人(中国系)に対して、「土地っ子」であるマレー系を政策的に優遇して、貧富格差の是正や国内安定を図ろうというものだが、マ レーシアが誕生するもっと以前に、「マレー人優先政策」を実行しようとして破綻した国があった。現在の北スマトラ州の東部(マラッカ海峡側)に存在してい た、東スマトラ国がそれ。
 
 オランダ統治時代の メダン市内
 東 スマトラの支配層は地元のスルタンたちだが、彼らは伝統的なスルタンではなく、オランダによってスルタンの地位を与えられた者たちだった。オランダはイン ドネシアを征服した際、抵抗する王国は攻め滅ぼし、無害な王国は保護国として存続させて間接統治を行ったほか、新たにスルタンやラジャを任命して傀儡王国 も作った。

 東スマトラに住んでいたのはマレー半島と共通のマレー人(ムラユ人)で (※)、19世紀まではアチェ王国の領域だったが、住民は少なく未開の土地が多かった。オランダはアチェ王国を滅ぼすと、東スマトラの地方領主たちをスル タンに取り立てて41もの小さな王国を作った。そしてスルタンたちから土地を借り、ジャワ人や中国人を労働力として大量に導入して大規模なゴムやコーヒー などの農場を築いた。マレー人スルタンたちの懐には借地料が入り、オランダとの間で共存共栄の関係にあったのだ。

  ※ここで言う「マレー人」とは狭義の意味でのマレー人。広義のマレー人ではマレー 系民族全体を指し、インドネシア人の大部分も含まれる。ちなみに「ムラユ」の英語読みがマレー。マレー語は古くから交易語として広範囲に普及していたた め、現在のインドネシアの国語である「インドネシア語」とは、マレー語のこと。

 第二次世界大戦で日本軍がスマトラ島を占領すると、オランダ人農場主たちは追放され、ジャワ人の農場労働者たちが農地を占拠した。そして日本の敗戦ととも に、スカルノらがインドネシア共和国の独立を宣言すると、東スマトラでは共和国支持の急進派が「オランダの手先」だったスルタンたちを襲撃し、王族たちを 処刑。さらに土地の公有化を宣言してジャワ人たちの土地占拠を公認した。このためマレー人の王族や知識人の間では反ジャワ人、反共和国の危機感が高まり、オランダの下で戦前のような「秩序」が回復されることを望んで いた。

 こうして傀儡国家を作ろうとしていたオランダと思惑が一致。46年のリンガルジャティ協定では「ジャワ島とスマトラ島は共和国の領域」 とされていたが、47年夏にオランダ軍が東スマトラを占領すると、各地でスルタン主導の下、住民大会が開催されて「共和国による略奪と暴力」が非難され、 東スマトラの特別自治を要請。12月25日にオランダから東スマトラ国としての独立が承認された。

 国会に相当する28人の評議会が設置され、東スマトラ国の代表にはアサハン王国の貴族だったテング・マンソールが就任し、5人の内閣と 7人の常務委員会も発足した。メンバーの大半は王族などのマレー人が占め、少数民族や他島出身者、中国人(※)、オランダ人も選出されたが、ジャワ人は排 除された。マンソールは「私たちオランダ人は・・・」と言うのが口癖なほどの親蘭派で、オランダ人の農場再開による経済復興を優先課題として掲げ、警察を 動員して農地を占拠していたジャワ人たちを追い出した。

  ※オランダ軍が本格的に進駐するまで、中国人が結成した保安隊(Poh An Tui)が共和国急進派に対抗して自警団的な役割をしていた。そのため東スマトラのマレー人支配層はジャワ人を排除しても、中国人は仲間に引き入れようと していた。

 当時のデリのスルタン、オスマン・ペルカサ・アラム・シャー 2世
 し かし東スマトラ国の将来について、マレー人スルタンたちとオランダとの間では大きな溝があった。スルタンたちは王国の復活によるマレー人特権階級の維持と「土地を奪うジャワ人」の排除を要求したが、共和国に対抗さ せるため国際社会に受け入れられる国家作りを狙っていたオランダは、封建王朝の復活は認めずジャワ人も含めた民族平等を求めた。一方で、農場復興が軌道に 乗ると労働力不足が深刻になり、オランダ人農場主はジャワ人労働者の導入を要求したが、東スマトラ政府が拒否すると農場主たちは共和国政府と関係を結ぼう とさえし始めた。

 板挟みになった東スマトラ政府は、ジャワ人は除外してもバタック人やガロ人などマレー人以外のスマトラ各民族には平等の地位を与えよう としたが、スルタンたちはあくまでマレー人による支配にこだわり、最も有力だったデリ(メダン)のスルタンはスルタン協議会を結成して、各王国の復活と英 領マラヤをモデルにした王国による連邦制を主張。かつてオランダと各王国が結んだ保護条約は今も有効だと、共同で訴訟を起こす構えも見せた。

 やがて東スマトラ国はジャワ人以外の民衆からも支持を失った。オランダから独立すれば生 活が良くなると思っていたのに、スルタンとオランダ人による支配に逆戻りしただけというのでは失望が広がるだけだった。こうしてオランダか らの完全独立や王制廃止などの民主主義を掲げた共和国に支持が集まり、共和国側も土地の再占拠を狙うジャワ人の組織や農場労働者の労組を足がかりに、宗教 団体や青年、女性組織などを動員して東スマトラ国の廃止と共和国への編入運動を繰り広げた。そして49年末にインドネシア連邦が独立し、後ろ盾になってい たオランダ軍が撤退すると、スルタンたちは王国復活の夢を断念。東スマトラ国は混乱なくインドネシア共和国に併合された。

 マドゥラ国 首都:パメカサン

 1948年1月23日 マドゥラ国が成立 を宣言
 1947年12月25日 オランダがマドゥラ国の成立を承 認
 1949年12月27日 インドネシア連邦共和国の独立に 伴い、その構成国となる
 1950年2月1日 インドネシア共和国が行政管理
 1950年3月9日 インドネシア共和国に編入されて消滅
 

 ジャワ島東部の大都市・スラバヤの沖合に浮かぶマドゥラ島は、ジャワ島やバリ島とともにインドネシアでは人口過密な島。現在のマドゥラ 人の人口は1000万人以上で、ジャワ人、スンダ人に次ぐ数だ。ジャワ島やバリ島はそれでも土地が肥沃だが、マドゥラ島は大半の土地が痩せていて、他島へ 移住するマドゥラ人も少なくない。またマドゥラ人は古くから勇猛さで知られ、ジャワの王朝に服したり反逆したりを繰り返していたとか。

 さて、マドゥラ島は行政的にジャワの一部とされていたが、共和国管轄下の人口を減らしたいオランダは「ジャワ島とは別」だと、マドゥラ 島に傀儡国を作って独立させることにした。まず1947年11月にオランダ軍が島を占領して共和国政府の統治から切り離した後、48年1月に島で住民投票 を実施し、独立賛成19万9510、反対9923、棄権1万0230だったとしてマドゥラ国は独立を宣言。元首には島に3つあったスルタン家の当主の1 人・ジャクラニングラトが就任し、オランダにマドゥラ国の独立を公認するように求めた。そしてオランダは翌月、マドゥラ島からの「要求」に応えて、マドゥ ラ国の成立を承認した。

 もっとも、当時の島の人口は200万人以上だったのに、住民投票の有権者は30万 5546人に過ぎず、そのうち実際に投票したのは22万人弱だった。国連の調停委として島を視察したオーストラリア人は「投票資格は非常に 制限され、住民投票の結果は決して『住民による選択』とは言えない」「マドゥラ島のように、オランダは衣食の贈り物で共和国の領土の住民を買収しようとし ている」と報告している。マドゥラ島独立のイカガワシサは国連で問題になり、「改めて公正な住民投票を実施すべき」との声が挙がったが、オランダは無視し た。

 オランダの植民地統治の下で、勇猛なマドゥラ人は貧しい故郷を離れてアンボン人のように蘭印軍の兵士になる者も多かった。だからオラン ダはマドゥラ人が親オランダ勢力になることを期待したようだが、キリスト教徒が多いアンボン人と違って、マドゥラ人はジャワ人以上に敬虔なイスラム教徒だ し、地理的に近いジャワ島とは親近感が強かった。48年12月にオランダが第二次警察行動に踏み切ると、マドゥラ議会はオランダを批判。インドネシア連邦 が独立すると、オランダからの経済援助が途絶えた貧しいマドゥラ国は自ら共和国が行政を引き継ぐように求め、50年2月からマドゥラ政府は共和国に接収さ れ、3月9日に正式に消滅した。

 インドネシア政府はその後、マドゥラ人を積極的にカリマンタンなどへ移住させたが、勇猛な性格がアダになってか先住民であるダヤク人の 恨みを買い、1990年代末期にスハルト政権が崩壊するとマドゥラ人の集落がダヤク人に襲われ、首狩りされ てしまう事件が繰り返されている。

 パスンダン共和国→西ジャワ国→パスンダン国 首都:バンドン

 1947年5月4日 パスンダン共和国が 成立を宣言するが、オランダに承認されず
 1948年2月26日 西ジャワ国が成立
 1948年4月24日 パスンダン国へ改称
 1949年12月27日 インドネシア連邦共和国の独立に 伴い、その構成国となる
 1950年2月10日 インドネシア共和国が行政管理
 1950年3月11日 インドネシア共和国に編入されて消 滅

 ジャワ島に住むのはジャワ人かと思えば、ジャワ人が住んでいるのは東部と中部で、西部にはスンダ人が住んでいる。人口はジャワ人の約3 分の1とはいえ3300万人。ジャワ人より敬虔なイスラム教徒が多いと言われる一方で、スンダ人には「美人 が多い」と評判だそうで、自由恋愛で遊び好き・・・と言われているらしい。

 昔むかし、ジャワ島でヒンズー教が盛んだった14世紀頃、ジャワ人のマジャパヒト王国に対抗してスンダ人のパジャジャラン王国があっ た。マジャパヒト王国は現在のインドネシア全域からマレー半島にかけての大帝国を築くが、お膝元のジャワ島の一角にあるパジャジャラン王国だけは攻略でき ずにいた。そこで一計を案じたマジャパヒトのガジャ・マダ宰相は1357年、パジャジャラン王に対して「王女をマジャパヒト王の妃として迎えたい」と政略 結婚を懇願した。パジャジャラン王は戦争より友好関係を結んだほうがいいとこれを承諾し、王女の嫁入りに同行してマジャパヒト王国へ向かったが、着いた途 端「妃じゃなくて妾にするんだよ」と聞かされ激怒。戦いを挑んだもののかねてから仕組んであった謀略にひっかかってパジャジャラン側は王も含めて全員殺さ れてしまった。それでもパジャジャラン王国はあと200年続くのだが、今もスンダ人は何かにつけてこの事件を語っては、「ジャワ人が信用できない証」としているとか。戦国時代の話を持ち出しても・・・と思いますけどねぇ。
 オランダ統治時代の バンドン市内
 さ て、そんな民族感情につけこんで傀儡国家を作ろうとしたのがオランダ人だ。東インドネシア国 を独立させ、スマトラ島を切り離しても、ジャワ島は全インドネシアの人口の6割を占める。そこでジャワ島をさらに細分化して、西部にスンダ人の国を作って しまえば、共和国が支配するジャワ人の人口は全インドネシアの約4割に落ちるという目論みだ。

 スンダ地方の中心都市・バンドンでは、オランダの肝煎りで46年末にパスンダン国民党が結成された。「パスンダン」とはスンダ人の土地 という意味。「ジャワとは歴史的に異なるスンダの独立を」と主張して、6000人の党員を集め、47年5月にはパスンダン共和国の成立を宣言したが、運動はそれ以上広がらず、パスンダン共和国もオランダが公認する 前に雲散霧消してしまった。オランダとしては血気盛んなスンダ人の青年たちに「スンダ・ナショナリズム」を吹き込んで共和国に対抗させようと考えていた が、バンドンは後に独立戦争の象徴となるバンドン火の海事件(※)が起きた町。ナショナリズムに目覚めた若者達は、共和国軍に馳せ参じていた。

  ※バンドンは終戦後、進駐してきたイギリス軍と日本軍の武器を手に入れた共和国軍 が分割占領していたが、イギリス軍はオランダに町を引き渡すため1946年3月に一斉攻撃を予告。共和国側は兵力温存のため撤退を決め、オランダに兵站拠 点とされないようにバンドンの町に火を放ってから山へ逃げた。その時のバンドンへの再来を誓う歌『ハローハローバンドン』は、インドネシア人の間で国歌に 準ずる愛国歌。

 そこでオランダは方針を変えて、伝統的な支配者を利用しようと47年10月にスンダ地方の王侯ら50人をバンドンに集め、西部ジャワ暫定自治政府の発足を 決議。48年1月のレンヴィル協定で共和国軍が撤退すると、翌月西ジャワ国を成立させた(4 月にパスンダン国と改称)。西ジャワ国の元首には王侯出身のウィナタクスマが就いたが、発足 当初から波乱が続いた。間接選挙で選ばれた53人のインドネシア人と、オランダ人長官が任命した46人(うちインドネシア人14人)の計99人からなる議 会が発足したが、任命議員以外の53人はほとんどが共和国の支持者で、「西ジャワの将来は住民投票で決めるべき」だと要求した。住民投票をすれば西ジャワ 国は解散すべきという結果になりかねないので議会は紛糾した。

 また共和国軍が撤退した後も、イスラム勢力の武装組織・ヒスブラ(イスラム挺身隊)は 西ジャワに残り、オランダ軍を相手に抵抗を続けていた。彼らは撤退した共和国を裏切り者だと非難して、独自の国家「ダルル・イスラム」の独立を宣言して三 つ巴の戦いになった。こうして共和国支持の議員やヒスブラの板挟みになったパスンダン政府は、オランダに追随しているばかりにはいかず、48年12月の第 二次警察行動では東インドネシア国と一緒にオランダを批判し、ジョクジャカルタを共和国に返還するよう求めた。

 ウェステルリング大佐
 さ らにパスンダンでは、セレベス島で虐殺事件を引き起こしたウェステルリング大佐が、インドネシア連邦の独立後も運輸会社で働きながら残留し、元蘭印軍の兵 士たちを集めて人民防衛軍を組織するとともに、潤沢な資金を元にパスンダンの政府高官や王 侯、スンダ民族主義者、そしてダルル・イスラムや山賊とも連携して、反共和国の軍事行動の準備を進めていた。

 50年1月に人民防衛軍がスカルノ政権に対してクーデター未遂事件を起こすと、ウェステルリングはオランダ高官の手引きでシンガポール へ逃走したが、これを傀儡国一掃の好機と捉えたスカルノは、パスンダン政府が人民防衛軍の活 動を黙認していた責任を追及して、パスンダンの首相らを逮捕(※)。2月にはウィナタクスマ元首も辞任に追い込まれ、パスンダン国は共和国の行政下に置か れて有名無実と化した後、3月11日には正式に共和国へ編入されて消滅した。

  ※この時、ウェステルリングと共謀していたとして西カリマンタン自治地域のスルタ ン・ハミッド2世も逮捕された。ハミッド2世はハーグ円卓会議に傀儡国・地域代表の団長として参加し、親オランダ派の代表格だった。

 東ジャワ国 首都:スラバヤ

 1948年11月26日 東ジャワ国が成 立
 1949年12月27日 インドネシア連邦共和国の独立に 伴い、その構成国となる
 1950年1月19日 インドネシア共和国が行政管理
 1950年3月9日 インドネシア共和国に編入されて消滅
 
 
 オランダ統治時代の スラバヤ市内
 ジャ ワ人とスンダ人の民族対立につけこんでジャワ島西部を共和国から切り離し、植民地時代からの首都バタビア(=ジャカルタ)も臨時連邦直轄区(※)として切 り離したオランダは、続いてインドネシア第二の都市・スラバヤを抱える東部も切り離すことにして、作ったのが東ジャワ国。とはいえ、共和国が根拠地とする ジョクジャカルタなどの中部と東部は、どちらもジャワ人の居住地域なので、民族問題につけこめないオランダ は、混乱につけこんだ。

  ※ジャカルタはもともとスンダ・クラパという港町だったが、1527年にジャワ島 へ侵攻して来たポルトガル人を撃退したときにジャヤカルタ(大勝利)と改称された。16世紀末から17世紀初めにかけて貿易で訪れた日本人の間では訛って 「じゃがたら」と呼ばれ、ジャガイモの語源にもなった。1619年にオランダが支配するとバタビアと命名され、300年以上にわたってそう呼ばれたが、太 平洋戦争で占領した日本軍は現地風にジャカルタと改称、その後のインドネシア共和国にも引き継がれている。1945年から49年にかけてはオランダはバタ ビアと呼び、共和国側はジャカルタと呼んだ。

 共和国内部ではオランダとの協定をめぐって内紛が続いていたが、48年8月に共産党のムソが亡命先のソ連から帰国すると、前首相のシャリフディンと共闘し て急速に勢力を拡大。翌月、東部に近いマディウンで共和国軍の一部が反乱を起こし、シャリフディンを首班とするインドネシア・ソビエト共和国の樹立を宣言した。スカルノはラジオで「共和国を選ぶか、共産党を選ぶ か」と国民に訴え、反乱は10月末までに鎮圧されて、ムソは戦死、シャリフディンは逮捕・処刑されたが、東部は一時混乱に陥った。それに乗じてオランダは 11月、かねてから占領していたスラバヤを中心に東ジャワ国を成立させた。

 続いて12月、オランダは共和国の首都ジョクジャカルタも占領して、スカルノやハッタを拘束(第二次警察行動)。さすがにこの露骨な共 和国潰しは国際的非難を浴びたうえ、傀儡国からもオランダ批判が相次ぎ、49年7月にオランダはスカルノらを解放してジョクジャカルタへ戻したが、この間 に中部ジャワを自治地域として切り離し、共和国の領域はジャワ島のうちジョクジャカルタ周辺 と西端だけに限定されて、全インドネシアの人口の3分の1程度を統治するだけになった。

 こうして1949年8月から11月にかけてインドネシア連邦の独立について話し合われたハーグ円卓会議では、独立後の連邦議会は168 人で構成され、その議席配分は人口に応じてインドネシア共和国50、パスンダン21、東インドネシア17、東ジャワ15、マドゥラ5、東スマトラ4、南ス マトラ4、その他の自治地域計34、外国人(中国、欧州、アラブ)18とすることが決定。オランダの目論見 通り共和国は連邦の中で少数派に転落し、オランダが育てた傀儡国や傀儡地域がインドネシア全体の主導権を握れるかに見えた。

 しかし、いかにも急ごしらえで成立させた東ジャワ国には実体が伴っていなかった。東ジャワの多くの地域には共和国軍が存在して、共和国 の役人が行政を運営していた。オランダはハーグ円卓会議のさなかに、東ジャワから共和国の勢力を一掃させようと、共和国軍を武装解除し、関係者を次々と逮 捕したたため混乱し、オランダによって政権に据えられた東ジャワの支配層たちは、この隙に共産主義勢力が再び台頭してくることを警戒した。

 かくしてオランダが連邦独立に間に合わせるために駆け込みで作った傀儡政権は、自ら共和国への併合を求めるようになり、中部ジャワ自治 政府はハーグ協定が成立すると共和国に接収を要求、東ジャワ国も50年1月から共和国政府が接収し、3月には正式に消滅した。「多数派の傀儡政権を通じ て、独立後もインドネシアを支配し続ける」というオランダの作戦は、すぐに破綻してしまったのでした。