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エジプト末期王朝

エジプト史

エジプト末期王朝

時代・文化
公開日 2016-10-27  最終更新日 2019-07-15
古代エジプト / 紀元前600年頃のオリエント地図

エジプト・アラブ共和国

エジプト第3中間期
アケメネス朝エジプト

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シリア戦争(プトレマイオス朝)

エジプト末期王朝 紀元前664年 – 紀元前332年 第26代サイス朝からペルシアの征服に至るエジプト第3中間期後のエジプト人による支配が最後に花開いた時代を言い、アレクサンドロス3世の支配と共に終わった。

目次

エジプト第26王朝 (サイス王朝)
エジプト第27王朝
第1次ペルシア支配
カンビュセス2世
エジプト第28王朝
エジプト第29王朝
ネフアアルド1世
ハコル
エジプト第30王朝
ネクタネボ1世
ネクタネボ2世
エジプト第31王朝
第2次ペルシア支配
アルタクセルクセス3世
ダレイオス3世
エジプト第32王朝
マケドニア王国支配
アレクサンドロス3世
ピリッポス3世
アレクサンドロス4世
エジプト末期王朝
エジプト第26王朝 (サイス王朝)
紀元前600年頃のオリエント地図
紀元前600年頃のオリエント地図 ©世界の歴史まっぷ

紀元前664年 – 紀元前525年 第3中間期、または末期王朝時代の古代エジプト王朝。 アッシリアがエジプトを征服した後、エジプトの管理を委ねられたサイスの王家による王朝を指すためサイス朝とも呼ばれる。 後にアッシリアの弱体化に乗じてアッシリアからの独立を達成し、オリエントの四大国の1つとして大きな影響力を発揮するが最後は新たにオリエント世界の覇者として現れたアケメネス朝の侵攻を受けてその支配下に入った。 エジプト第3中間期 エジプト第26王朝 – 世界の歴史まっぷ
エジプト第27王朝
紀元前525年-紀元前359年
第1次ペルシア支配
紀元前525年-紀元前359年
カンビュセス2世
この王朝は拡大するアケメネス朝ペルシア第2代王・カンビュセス2世に支配されたエジプトと見られている。 紀元前525年、ペルシウムの戦いで、アケメネス朝ペルシア(カンビュセス2世)はエジプト第26王朝(プサメティコス3世)に勝利しメンフィスを陥落し征服した。
エジプト第28王朝
紀元前404年から紀元前398年 サイスの王子であるアミルタエウスひとりで成り立った王朝。アケメネス朝ペルシアから一時独立。
エジプト第29王朝
紀元前398年から紀元前380年
ネフアアルド1世
紀元前399年、アミルタイオスが後継者のネフアアルド1世との戦いに破れ、メンフィスで処刑された。ネフアアルド1世はエジプト第29王朝を創設し、メンデスを首都とした。
ハコル
ネフアアルド1世が没すると、後継を先王の子とプサムティスとが争うが、王朝を興したのは両者を倒したハコルだった。 王権を正当化するために自らをネフェリテス1世の孫と詐称するとともに子にもネフェリテスと名づけ、さらには記念碑をたててその旨を記している。ハコルがエジプトを支配したのはわずか14年だが、その治世はファラオが普請を命じた幾多の建造物に彩られている。また先達の王たちが建ててきた遺跡の大規模な修復も手がけている。 ハコルは自らの上に立つアケメネス朝ペルシア帝国の王に反旗を翻した。アケメネス朝ペルシア王・アルタクセルクセス2世は紀元前386年に、ペルシアに逆らわないという条件のもとギリシア本土の都市国家に自治権を与えるとともに小アジアとキプロスをエジプトに委ねて勢力図を安定させようとした。 コリントス戦争が終わるとペルシアの手はエジプトに伸びたが、海軍の整備を進め、ギリシア人の傭兵を重用するなどして力を蓄えていたエジプトは、紀元前353年から3年間、大国を相手に逆襲を試みている。 ハコルは紀元前380年に亡くなり、ネフェリテス2世が後を継いだ。しかし一年と経たずにネフェリテス2世はネクタネボ1世に倒され、王朝は断絶した。
エジプト第30王朝
紀元前380年から紀元前343年 ネクタネボ1世がハコルの子ネフェリテス2世を排して第30王朝を創始した。
ネクタネボ1世
紀元前360年11月にはエジプト全域を掌握していた。 再度のエジプト征服を目指すアケメネス朝ペルシャに対して、ときにスパルタとアテナイの援軍をうけこれを撃退していた。
ネクタネボ2世
紀元前343年、エジプト征服を目指すアケメネス朝ペルシャが侵略を許し、ネクタネボは南のヌビアへと逃亡する。 ネクタネボはエジプトを支配した最後のエジプト人のファラオとされている人物であり、彼のエジプトからの逃亡は独立した統一体としてのエジプトの終わりを象徴している。
エジプト第31王朝
第2次ペルシア支配
紀元前343年から紀元前332年
アルタクセルクセス3世
紀元前342年、アケメネス朝ペルシア王・アルタクセルクセス3世のエジプト再征服に成功する。このことはギリシア人のペルシアに対する行動を慎重にさせた。マケドニア王ピリッポス2世(アレクサンドロス3世の父)も、この当時はアケメネス朝との協調を模索している。 しかし紀元前338年末頃、アルタクセルクセスは息子たちとともに、宦官で大臣のバゴアスにより毒殺され、ペルセポリスの墓所に葬られた。バゴアスに擁立された息子のアルセスが帝位を継いだが、アルセスもまたバゴアスに毒殺された。
ダレイオス3世
宦官バゴアスを中心とした宮廷陰謀により王位継承適格者が相次いで死去し、前王アルセスも即位3年目に殺害されてしまい、傍系(アルタクセルクセス2世の兄弟の子孫)の王族の彼が即位して伝統的アケメネス朝王名であるダレイオス(よきものを保持する者を意味する古代ペルシア語、ダーラヤワウ)を名乗った。 紀元前336年、アケメネス朝ペルシアの最期の王・ダレイオス3世が誕生したが、間もなくマケドニア王・アレクサンドロス3世の侵攻を受ける。 紀元前333年、イッソスの戦いでペルシア軍は大敗する。 紀元前331年、ガウガメラの戦いでもペルシア軍は大敗する。 相次ぐ敗北によって逃走したダレイオス3世はバクトリア総督(サトラップ)に殺害されアケメネス朝は滅亡した。
エジプト第32王朝
マケドニア王国支配
紀元前332年から紀元前305年
アレクサンドロス3世
紀元前332年から紀元前323年 エジプトは11年前の紀元前343年にアルタクセルクセス3世によって征服されたばかりであり、ペルシアの統治が根付いていなかったために占領は容易であった。 紀元前332年、エジプト人に解放者として迎え入れられたアレクサンドロスはファラオとして認められ、「メリアムン・セテプエンラー」というファラオ名を得て、アメン神殿にその像を祭られた。 彼は少数の部隊を率いて西部砂漠のシワ・オアシスにあるアメンの聖地に行き、ここで自らをアメンの子とする神託を得た。アメンはギリシア神話のゼウスと同一視されており、これはアレクサンドロス大王はゼウスの子であるという神託に等しかった。また、その後ナイルデルタの西端に都市を建設したが、これが現在のアレキサンドリアの起源である。 エジプトの地で将兵に充分な休養と補給を施したアレクサンドロスはペルシア王国への遠征を再開した。
ピリッポス3世
紀元前323年から紀元前317年 アレクサンドロス3世の異母兄であるピリッポス3世は、オリュンピアス(アレクサンドロスの母)に毒を盛られ知的障害者となったため、長らくマケドニア宮廷で日陰の存在であったが、アレクサンドロスの死後、後見人争いに利用されて傀儡の王となるも、紀元前317年オリュンピアスによってピリッポス3世は捕えられ、処刑された。
アレクサンドロス4世
紀元前317年から紀元前305年 アレクサンドロス3世の嫡子。アレクサンドロスが急逝した時まだ王妃・ロクサネは妊娠中で、誕生する子の性別が判明しないため、バビロン会議で男子だった場合は千人隊長ペルディッカス(ヘタイロイの指揮官)が摂政となり、ピリッポス3世と共同統治者として王になることが決まった。 ディアドコイ戦争を経て、マケドニア系王朝・プトレマイオス朝へと続く。