歴史・人名

トルーマン政権の対ソ戦略

第6回 トルーマン政権の対ソ戦略
○冷戦とは何だったのか?
 第2次世界大戦後、アメリカ合衆国を中心とする西側陣営と、ソヴィエト連邦を中心とする東側陣営が、直接に戦争はしない物の、お互いに核兵器を持って、緊張関係にあったことは、ご存じではないかと思います。知らなくても、今から説明していきますが。

 このアメリカとソ連は、全く異なる理念、教義、イデオロギーをベースに対立するという、歴史上、ちょっと変わった対立をします。伝統的な戦争・対立では、別に相手の政治形態は問わず、要は領土を獲得したり、金銭を確保するために戦うのですが、この2つの超大国は、世界の国々をどっちの思想で染めるか、その縄張り争いをせっせと行いました。では、そんな冷戦の起源から見てきます。
 
○冷戦~その起源~
 戦後、ソ連はポーランドを始めとする東ヨーロッパの社会主義化を積極的に実施し、アメリカの激怒を買います。しかし、ソ連にしてみれば、古くはナポレオンの侵攻、第1次世界大戦、第2次世界大戦ではドイツの侵攻を受けたわけで、東ヨーロッパ諸国は緩衝材として社会主義国にしないといけないという事情もありました。

 しかし、社会主義化は東地中海、中近東にも次第に伸びていきます。ちなみに日本が去った中国は共産党と国民党が争い、共産党が優勢で、後に国民党を大半に追うのですが、不思議とソ連とはしっくり来ず、アメリカと関係を強化したがっていたという事情もありました、とは言え、結局関係改善はならず、ソ連と表向きは手を結びます。

 こうした動きに対し、昔、ソ連に外交官として赴任したこともあったG.ケナン(1904年~2005年)は「共存はあり得ない。また、アメリカが強い態度を取ればソ連は弱体化する」などと、1946年2月に長文電報を送り、さらに47年夏にはXという匿名でソ連にたいする強攻策を求める論文を雑誌に掲載しました。・・・匿名を使ってもばれておりますがな。こうして、トルーマン政権の国務省政策企画室長にG.ケナンは抜擢され、対ソ戦略の舵取り役を担います。

 また、イギリスでは選挙に敗北し首相を辞任していたチャーチルが鉄のカーテン演説を行います(46年3月)。読んで字のごとくです。こうした強硬論を元に、トルーマン大統領(左絵)は、ソ連の勢力がこれ以上伸びないように、社会主義化が進む気配のある国に復興援助、経済援助を行い、アメリカ陣営に取り込んでいきます。その代表が、ギリシアとトルコの共産主義化を阻止するために、両国に対して4億ドルの援助を与えることを、議会に賛成するように要請したトルーマン・ドクトリン、それからマーシャル援助計画(マーシャルプラン 46年7月)です。

 マーシャル援助計画とは、ヨーロッパに対する援助です。戦争で荒廃したヨーロッパに、「アメリカが経済支援を行います。欲しい国は手を挙げて!」てな感じで呼びかけます。東ヨーロッパ諸国ものどから手が出るほど欲しかったようですが、ソ連に怒られるので手は挙げられず。ここに、ヨーロッパの東西陣営がハッキリと色分けされました。ちなみにイギリスとフランスが群を抜いてアメリカからの援助を受けています。

 この援助は、実質的な意味では朝鮮戦争が起こる50年6月まで続きました。この他、合衆国は18カ国のアメリカ大陸諸国とリオ条約をむすんで相互防衛と援助をとりきめ、1948年にOAS(米州機構)を設立するなど、アメリカ陣営の引き締めにかかります。

 *ジョージ・ケナン氏は2005年3月17日、101歳で亡くなられました。
  対ソ政策の中心として活躍し、ソ連崩壊を見届け、さらに同時多発テロ以降のブッシュ政権についてもコメントするなど、驚くべきほど長くアメリカの政治史に関わり続けてきました。ご冥福をお祈りします。

○NATOとワルシャワ条約機構
 さらに1949年4月、アメリカと西ヨーロッパ諸国を中心としたNATO(北大西洋条約機構)を設立。軍事同盟で、相互に防衛を援助していこうというわけです。また国内に於いては、国家安全保障会議(NSC)、国家軍事機構(後の国防総省)、統合参謀本部、CIA(中央情報局)を設置し、世界と関わっていくで重要になる組織を設置していきます。

 あらゆる手段を使って、ソ連の勢力が伸びるのを封じ込めていく。
 こうした一連の対ソ連略のことを「封じ込め政策」と言います。もっともこの時は、まだ全世界でソ連を封じ込めたわけではなく、特にソ連の脅威が近い特定の地域のみに適用されました。

 これに対しソ連は、東欧諸国(ポーランド、チェコ=スロヴァキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ユーゴスラヴィア)及び、フランス・イタリアの9カ国の共産党と、1947年10月に、コミンフォルム(共産党情報局=各国共産党の情報交換機関)を結成。さらにチェコ=スロヴァキアで革命を起こし共産党政権を成立、ベルリンの封鎖などを実行し、また共産主義国家でありながら、ソ連の方針に従わないティトー大統領のユーゴスラヴィアを仲間リスト除外しました。

 49年1月になると、ソ連は東欧6カ国(ポーランド、チェコ=スロヴァキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、アルバニア)と、マーシャル=プランに対抗した、コメコン(COMECON=東欧経済相互援助会議)を設立し、経済協力の推進と、社会主義諸国の結束をはかります。こうして、東西対立が明確になっていくのです。
○当てがはずれたトルーマン政権
 トルーマン政権は、まさか冷戦が90年のソ連崩壊まで続くとは思っていなかったようで、もっと速くソ連が崩壊すると思っていました。ところが、ソ連は核兵器を持つし、中国では共産党政権が誕生、さらに西ヨーロッパではドルが不足し復興が進まず・・・。

 そのため、方針の転換を余儀なくされます。
 あくまで日本やヨーロッパなどの一部地域で、ソ連に対応する封じ込めをすればいいと考えていたケナンは退任。代わって「あらゆる地域でソ連を封じ込めるべきだ!」と考えるニッツェ率いるNSC特別委員会が発言力が強くなります。

 しかし、そのためには予算がかかる。トルーマンは結局、消極的な態度に終始しました。
 ところが、朝鮮戦争が勃発。
 ソ連の援助を受けた金日成率いる北朝鮮軍は、大韓民国へ迫り、一気にこれを圧倒します。これはやばい。
 トルーマンは、韓国援助のため介入を表明。そしてアメリカを中心とした国連の軍事行動援助が始まりますが、同年11月末には北朝鮮のために中国人民義勇軍が参戦し、事態はさらに悪化。朝鮮における戦いは、アメリカにとって生活費の上昇、賃金と物価の統制など深刻な国内問題を生んでしまいます。その一方で日本は戦争の特需でようやく復興への道がみえたわけですが。

 結局、戦いは膠着状態に陥り、今に至っています。また、この朝鮮戦争を契機に、日本をアジアにおけるアメリカの同盟国として成長させた方が得策であるとして、サンフランシスコ講和条約を結ばせ、さらに再軍備を容認し、安全保障条約を結びました。

○見えない敵~共産主義への恐怖
 ところで、この時代のアメリカ合衆国の一般市民は共産主義という物を極端に恐れました。とくに、映画で異星人の襲来、というような物が描かれると、これを共産主義の魔の手と解釈するなど、恐怖状態に陥っていました。一方でハリウッド界では、喜劇王チャップリンを始め、共産主義に心を寄せる人たちもいたため、彼らは追放の憂き目にあいます。

 そして、こうした大衆心理を巧みに利用した政治家がいました。マッカーシー(1908~56年)です。
 彼は、これと言ってパッとしない共和党の上院議員で、このままだと次の選挙に落ちる可能性がありました。そのため、何か話題を作ろうとして「国務省に200人以上共産主義者がいるから取り締まるべきだ!」と発言。大した考えがあったものではなかったのですが、メディアは一斉に報道し、一躍マッカーシーは時の人に。人々は彼の次の発言に注目する一方、疑心暗鬼の世界も広がってしまいました。

 多くの人が、このマッカーシー発言によって追放されていったのですが、結局、3年後になってようやくマッカーシー発言が「いい加減な発言である」事が解り、ようやく収束を見ました、もちろん、その次の選挙でマッカーシーは落選。こうした一連の動きを、マッカーシズム、赤狩りと言います。

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