歴史・人名

ヤマト王権

古墳時代に成立した古代国家(ヤマト王権)と継体天皇の登場

→大和朝廷、ヤマト政権

 大和王朝(ヤマト王権)の誕生と神話時代の大王たち
 仁徳系から継体天皇への政権交代
 大和朝廷(ヤマト王権)の誕生と神話時代の大王たち

 『古事記』や『日本書紀』によると日本の初代天皇は神武天皇(B.C.711-B.C.585)ですが、神武天皇を含めて初期の天皇は『神代』とつながる神話的な存在であり実在はしなかったと考えられています。特に、第2代の綏靖天皇(すいぜいてんのう)から第9代の開化天皇までは歴史上に実在しなかったということで『欠史八代』と呼ばれていますが、実在が確実な天皇が誰からかということについては歴史学者でも意見が分かれています。

 最も古い時代に遡る天皇実在説は、第10代の崇神天皇から実在したというものですが、現在では、かつては実在が有力視されていた第15代の応神天皇も実在しないという見方が強まっており、実在が確実と言えるのは第26代の継体天皇(450頃‐531)からだと考えられています。大和地域だけでなく越前地方や近江地方の豪族の権力を取りまとめて王権を強化したのが継体天皇であり、継体天皇はそれ以前の天皇(武烈天皇)とは直接の血縁関係がなかったので、継体天皇の即位は事実上の新王権の成立を意味していました。天皇家の血統を『万世一系』と呼ぶとき、歴史的には継体天皇以降の血の流れを通して王統が保たれていることを示しています。

 また、『神武・仁徳・武烈・継体』などという漢風諡号(中国風の諡)は奈良時代(8世紀)に入って淡海三船(おうみのみふね・722-785)が一括撰進したものなので、それ以前は大和王朝に参加する諸豪族(群臣)が推挙する天皇は『大王(おおきみ)』と呼ばれていました。5世紀の古代日本は冊封体制に参加しており、『倭の五王』と呼ばれていた権力者たちは、中国の南朝(東晋・宋・梁)に朝貢していました。しかし、倭の五王と呼ばれる『讃・珍・済・興・武』が、古事記や日本書紀に記される大和王朝(ヤマト王権)の天皇の系譜に連なる権力者だったのか否かは確定されていません。一説によると、讃は履中天皇、珍は反正天皇、済は允恭天皇、興は安康天皇、武は雄略天皇ではないかとされますが、実証的な証拠(史跡・文献)が積み重ねられているわけではありません。

 継体天皇以前の旧王統は『応神天皇(第15代)‐仁徳天皇(第16代)のライン』で血統がつながっていましたが、民衆を搾取して淫行に耽るような悪政を行ったとされる武烈天皇(第25代)によって王統が断絶します。応神天皇‐仁徳天皇より昔の仲哀天皇は実在しなかったと見なされていますので、継体以前の歴史的な天皇の系譜を扱う場合には仁徳天皇から考えるのが合理的だと言えます。仲哀天皇は父が日本武尊(やまとたけるのみこと)で母が神功皇后(じんぐうこうごう)とされており、父母が両方とも神話的な人物なのでその子とされる仲哀天皇もまず実在しないと思われます。記紀(古事記・日本書紀)の系譜には実在しない天皇が多く含まれているので、記紀だけを参考にして日本の政治権力の歴史的系譜を解明することは出来ません。古代日本の政権(倭と呼ばれた時代の政権)がどのようなプロセスを経て統一されたかの詳細は分かっていませんが、弥生時代(B.C.10世紀-3世紀頃)に成立した卑弥呼が治める邪馬台国のような有力国が周辺の小国を次々に支配していったのではないかと考えられています。

 古墳時代(4~6世紀)以降の古代日本の政権について『ヤマト王権』と呼ぶことが多くなっていますが、『大和朝廷・大和政権』といった言い方もあり古墳時代のことを大和時代と呼ぶこともあります。古墳時代には、倭(古代日本)を統一する強大な政治権力(王権)が段階的に形成されていきますが、それは各地の豪族を従えるほどの権力(軍事力・カリスマ性)を持った『大王(後の天皇)』が登場したことを意味します。古墳時代はその名前が示す通り、王や豪族の権力を象徴する巨大墳墓である『古墳』が多く作られた時代であり、特に5世紀には大仙古墳(仁徳天皇陵古墳・大阪府堺市)に代表される巨大な前方後円墳が多く築造されました。古代の大王や奈良時代以前の天皇は『刀剣を自ら振るって指揮する武人の権力者』であり、古墳時代の前方後円墳には『鉄製の刀・甲冑・馬具』などの武器が副葬品として埋葬されています。また、大化の改進(645)以前の天皇(大王)は唯一絶対の権力者としての立場を固めておらず、古墳時代に成立したヤマト王権は地方の有力豪族が寄り集まった『連合政権』としての性格を色濃く持っていました。

 現在の奈良県周辺に当たる大和地方を本拠にして、有力豪族をとりまとめ北部九州と近畿全域にまで勢力を拡大したのがヤマト王権(大和朝廷)ですが、その中央集権的な政権の確立過程の詳細は分かっていません。仁徳天皇系の血統は武烈天皇(在位498-506)によって断絶しますが、継体天皇(在位507‐531)の時代頃からヤマト王権は徐々に倭(日本)を統治する初期国家としての形態を整えていきます。ヤマト王権(大和朝廷)における豪族(後の貴族)の政治的地位は『氏姓制度(氏姓の制)』によって規定されていたので、ヤマト王権は原始共同体的な血縁集団・氏族集団としての特徴を持っています。有力な豪族としては物部氏・大伴氏・蘇我氏などが有名ですが、これらの有力豪族には『臣(おみ)・連(むらじ)・国造(くにのみやっこ)・伴造(とものみやっこ)』などの姓(かばね)が与えられました。

 大和地方の地名を氏(うじ)としている『蘇我氏(そが)・葛城氏(かつらぎ)・平群氏(へぐり)・巨勢氏(こせ)・春日氏(かすが)』などの最高位の豪族には『臣(おみ)』の姓が与えられました。ヤマト王権での職務を氏としている『大伴氏・物部氏・中臣氏・忌部氏(いんべ)・土師氏(はじ)』などの高位の臣に当たる豪族には『連(むらじ)』の姓が与えられました。『伴造(とものみやっこ)』の姓は、特殊な職能集団である秦氏(はた)・東漢氏(やまとのあや)・西文氏(かわちのあや)など朝鮮からの帰化氏族に与えられました。『国造(くにのみやっこ)』は地方の有力豪族に与えられた姓ですが、初期のヤマト王権は各地を実力で支配する豪族たちを国造として承認することで、中央集権的な国家つくりを進めました。
 仁徳系から継体天皇への政権交代

 継体天皇(在位507‐531)は形式的に『応神天皇の五世孫』とされていますが、父の彦主人(ひこうし)王と母の振媛(ふるひめ)の間に近江の三尾(みお)で生まれた皇子です。母親の振媛は越前の三国(福井県坂井郡三国町)の出身であり、夫の彦主人王が死去すると幼少の継体天皇を連れて越前へと帰りました。武烈帝は、民衆を搾取して苦しめ淫蕩な行為に耽る暴君として『日本書紀』の記述に残っていますが、これは仁徳系の武烈帝から皇位を受け継いだ継体帝の正当性を強調するためのレトリックで、本当に武烈帝が暴君であったわけではないと考えられます。文章そのものが中国の古典である『史記』などを参照しており、武烈帝を暗君とするエピソードも『(暴君の代名詞である)桀紂の故事』に倣ったものでしょう。古代中国の夏(か)の桀王と商(殷)の紂王は、寵愛した美女との関係に溺れて暴虐な政治を行った暴君とされていますが、この桀紂の故事はその後に続く商の湯王や周の武王の政権の正当性を強調するために創作されたものだという説もあります。

 武烈天皇には血縁のつながった後継者(継嗣)が生まれなかったので、仁徳系ではない継体天皇に皇位が回ってくるわけですが、この王朝交代によって仁徳系の血統は断絶したと考えられます。記紀による伝承では『継体天皇は応神天皇の五世孫』といった表記によって、とりあえず万世一系の血統がつながっているとされますが、武烈と継体の間には直接的な血縁関係がありません。そもそもこの時代には、現天皇の皇位を血縁上の子孫(皇子)に継承させるという慣習がつくられておらず、大王(天皇)といえども自分の一存で後継者を指名することは出来ませんでした。臣や連の姓を持つ有力な群臣(豪族)の推挙・承認を得て『次の大王(天皇)』を選抜するという慣習があり、ヤマト王権は大王の専制主義政権(君主政治)ではなく未だ氏族連合政権としての性格を残していたわけです。ですから、古代のヤマト王権(大和朝廷)では、血縁上の皇子(皇太子)以外の人物が大王(天皇)になるようなケースも幾つか見られたわけです。

 後継の決まっていない武烈帝が没すると、残った群臣は政治秩序の安定のために次の大王(天皇)を早く決めようとしますが、即位を懇願した仲哀天皇の五世孫とされる倭彦王(やまとひこおう)からは断られてしまいます。そこで大連の大伴金村(おおとものかなむら)は、越前の三国に使者を派遣して応神天皇の五世孫とされる男大迹(おおど:後の継体)に大王への即位を要請するわけです。大伴金村は、男大迹(継体)に正統な王位の象徴である宝器(神器)を献上して、遂に男大迹は507年にヤマト王権の大王(天皇)として即位することになります。しかし、507年に河内の樟葉宮(くずはのみや)で即位した継体天皇は、ヤマト王権の本拠地である大和地方(奈良盆地周辺)に遷都するまで約20年の歳月を要しています。なぜ、大王(天皇)になった継体が、河内の樟葉宮で20年間も足止めを食ったのかには諸説ありますが、継体天皇の時代の政治権力の基盤は一枚岩ではなく、継体の天皇即位に反対していた勢力がいたのではないかと見られています。継体は、武烈天皇の姉あるいは妹である手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后として、朝鮮半島に百済を支援する対新羅の軍隊を送ろうとしました(526年)。

 526年に何とか『大和入り』を実現させた継体天皇は、神武天皇以来ヤマト王権との所縁が深い『磐余(いわれ)』の地に都を置き、『磐余玉穂宮(いわれたまほのみや)』と呼ばれるようになります。この磐余(いわれ)という土地には、伝説上の天皇である履中天皇(第17代)や清寧天皇(第22代)が都を置いたとされています。継体天皇の時代は、朝鮮半島(新羅・百済)との軍事外交が活発化した時代であり、日本(倭)は継体の治世に朝鮮半島の拠点であった任那(みまな, 加羅)を失うことになります。任那(加羅)が新羅の侵攻を受けた政治的責任を取って、継体の即位を懇請した大伴金村は失脚することになりますが、任那が完全に地図から消滅したのは欽明天皇の時代だとされています。当時のヤマト王権は、朝鮮半島南部の任那(みまな)あるいは加羅(から)と呼ばれる地域に軍事拠点を置いていたとされますが、それが後世になって『任那日本府』と呼ばれることになりました。古墳時代から飛鳥・奈良時代を通して、日本と朝鮮各国との間の人的交流(渡来人の移住)・文化交流は活発でしたので、日本から朝鮮に移住する人も相当数居たのではないかと推測されています。

 継体天皇の時代には、まだまだヤマト王権は中央集権体制と呼べるほどの強大な権力を持っておらず、大和地方以外の九州北部や関東地方では地方分権的な独立勢力が多く残っていました。つまり、大和政権は日本各地を隅々まで直接的に統治できるような政治体制ではなかったわけで、九州には筑紫君磐井(つくしのきみいわい)や火君(ひのきみ)、関東には上毛野君(かみつけのきみ)や下毛野君(しもつけのきみ)という強大な豪族勢力が存在していました。これらの地方の大豪族は形式的にはヤマト王権に臣従していましたが、それほど大きな力の差があるわけではなく、ヤマト王権と対等な立場に立つという気概を完全に捨て去ったわけではありませんでした。

 『継体天皇の朝鮮出兵(対新羅)』における九州の人民の徴兵によってヤマト王権への不満が高まったことが原因とも言われますが、遂に、527年に筑紫君磐井(つくしのきみいわい)がヤマト王権に反乱を起こします。これが『磐井の乱(527)』と呼ばれる大規模な大和朝廷に対する反乱になるわけですが、筑紫君磐井が反乱を起こした背景には『朝鮮外交の利害対立・九州と新羅の結びつき』が深く関与していたのではないかと見られています。

 『日本書紀』によると、大和朝廷は527年に新羅に侵略された任那の南加羅を奪い返すために、近江臣毛野(おうみのおみけの)を将軍とする約6万人の軍勢を朝鮮に派兵しようとしたといいます。中央政府である大和朝廷は百済との同盟を結んでいて、『南加羅の復興と百済の救援』という大義名分を持って出兵しようとしたのですが、地方豪族である筑紫君磐井は新羅との同盟を結んでいて、近江臣毛野率いる軍勢が朝鮮に渡ろうとするのを妨害しました。また、大和朝廷と磐井との対立には、『同盟関係・朝鮮外交の利害』だけでなく『政治的な主従関係への反発・朝鮮出兵にかかる重い負担』もあったと言われ、筑紫君磐井は朝廷から一方的に朝鮮出兵の命令を受けるのを快く思っていなかったようです。

 中央政府の統制強化に反旗を翻した豪族の筑紫君磐井ですが、結局、『磐井の乱』は翌年の528年に物部麁鹿火(もののべのあらかい)率いる軍勢によって鎮圧されることになります。九州地方の大豪族として勢威を振るっていた筑紫君磐井が、継体天皇の大和朝廷に討伐されたことにより大和朝廷の政治的な支配統制能力はより一層の拡大を見せることとなりました。

 継体天皇は、匂大兄皇子(まがりのおおえのおうじ・安閑天皇)に譲位してその後にすぐ崩御したとされますが、継体の死去の時期と安閑の即位の時期に2年間のずれがあることから、順調に譲位が行われたとは言えないという説もあります。6世紀前半に、継体帝は『大兄(おおえ)の制度』を導入して長子が皇位を継承するようにしましたが、この時期には未だ兄弟間相続が残っており、皇后と妾妃の区別も無かったので『複数の長子』が存在することも珍しくありませんでした。その為、天皇の弟と長子の間で後継者争いが起きたり、複数の異母兄弟(皇子)の間で王位継承権を巡る争いが生まれやすかったのです。特に、大化の改新(乙巳の変)以前の大和朝廷では、王位継承に『群臣推挙(有力豪族たちの支持・承認)』が必要だったので事態はより複雑になりがちでした。

 継体天皇の後は、長子の安閑天皇(531-535)が継いでその後には、安閑の弟の宣化天皇(535-539)が継ぐことになります。安閑と宣化は、継体天皇と尾張目子姫(おわりのめのこひめ)の間に産まれた同母兄弟ですが、宣化の後には異母弟の欽明天皇(539-571)が続きます。欽明天皇の母親は、仁賢天皇の皇女であり武烈天皇の姉(妹)である手白香皇女(たしらかのひめみこ)ですが、欽明天皇の時代に仏教の伝来(538)と任那の滅亡(562)という歴史上の重大事件が起こりました。大和朝廷の家臣の中では、仏教信仰を支持した蘇我氏が権力闘争に勝ち抜いて次第に力を蓄えてきますが、蘇我氏の専横を阻止する大化の改進によって再び天皇の専制権力が強化されることになります。