歴史・人名

ローマ帝政期の「ユリウス家」のような存在が3世紀の日本にも出現していた

ローマ帝政期の「ユリウス家」のような存在が3世紀の日本にも出現していた…ヤマトの「最高氏族長」と「格下」の歴然とした差

2025.10.28

松木 武彦

国立歴史民俗博物館教授

プロフィール
古墳はなぜ造られたのか?巨大化した理由は?

講談社現代新書の新刊『古墳時代歴史』では、古墳が現れてから古墳時代が終わるまでが編年体で描かれ、そうした謎が明かされている。

本記事では、〈「古墳=王権」という定説には矛盾がある…巨大前方後円墳の主を安易に「大王」とみなしてはいけない「納得の理由」〉に引き続き、3世紀後半に登場した「門閥氏族」について詳しくみていく。

※本記事は松木武彦『古墳時代歴史』(講談社現代新書)より抜粋・編集したものです。

ヤマトに門閥氏族が登場する(3世紀後半)
さて、箸墓のあと、同じ古墳群内に、その位置づけを継ぐほどの巨大な前方後円墳は造られない。代わりに、約4キロメートル北方の山裾に、墳丘の長さ230メートル、後円部径140メートル・高さ一六メートルの西殿塚古墳(奈良県天理市)が現れる。

墳丘や円筒埴輪の型式からみて、箸墓よりもやや下る3世紀後半の新しい段階、270〜280年前後に築かれた可能性が高い。規模はやや小さいが、変則的ながら後円部・前方部ともに三段に築くスタイルを踏襲することから、先行する箸墓を意識したもので、その主と同じ「最高氏族長」の地位のために営まれたと考えられる。

ただし、西殿塚が属する萱生(かよう)古墳群は、箸墓がある纏向古墳群(箸中古墳群)とは別の古墳群で、それと同じころから形成が始まっていた。つまり、纏向古墳群を営んだのとは別に力を持った氏族集団から、次の最高氏族長が立てられたのである。

さらに次の4世紀初めには、萱生と纏向の中間にある柳本(やなぎもと)古墳群の中に、墳丘の長さ242メートル、後円部径158メートル・高さ31メートルで後円部も前方部も三段に築いた柳本行燈山(やなぎもとあんどんやま)(天理市)が営まれる。今度は柳本古墳群を営んだ氏族の中に、最高氏族長の地位が移ったのである。

纏向・萱生・柳本の三古墳群をそれぞれ営んだのは、列島の中心となりつつあった巨大マチ纏向を、ともにつかさどっていた三つの有力氏族であろう。坂靖氏の研究によると、この三大有力氏族は、弥生時代の中心であった唐古・鍵遺跡の周辺を再開発し、ミヤケ遺跡群とよばれる奈良盆地中央部の農村地帯を作り出し、そこを生産の拠点とした可能性が高い。

つまり、巨大マチ纏向の遠距離交易、ミヤケ遺跡群の農地経営という列島有数の経済基盤を占めた三大有力氏族が、3世紀の中ごろから後半にかけてのヤマトに台頭したのである。坂氏が想定するように、直接に支配する範囲は纏向とミヤケの周辺にとどまっていただろうが、その群を抜いた経済力を背景に、三大有力氏族は、同じように古墳を築き始めていた列島各地の氏族たちに、その力と威信を認められるようになった。

このように、全面三段(後円部・前方部ともに三段)の巨大前方後円墳に葬られる最高氏族長を交互に出した三大氏族は、格別に高貴な出自集団という意味で、ローマ帝政初期に皇帝を輩出した「ユリウス家」や「クラウディウス家」のように、「閥族(ばつぞく)」とよぶのがイメージに合う。しかし、このよび方を日本史の中に置くにはやや違和感があるので、ここではさしあたり「ヤマト門閥氏族」とよんでおこう。

門閥氏族はこんな構成だった
ヤマト門閥氏族による纏向・萱生・柳本の三古墳群は、それぞれ、全面三段の巨大前方後円墳を頂点に、さまざまな形や規模の古墳が集まっている。纏向古墳群は、箸墓のすぐ下位は墳丘長100メートル級の前方後円墳五基で、箸墓が際立っている。萱生古墳群は、西殿塚のすぐ下位には、やや大きい130〜140メートル級の前方後円墳(東殿塚・中山大塚など)と前方後方墳(波多子塚など)の両者がある。そのさらに下位は100メートル級で、やはり前方後円墳と前方後方墳の両方がある。墳形・規模とも多彩なことが特徴である。柳本古墳群は、行燈山のすぐ下位にくる130メートルの黒塚以下、主体は前方後円墳のみである。このような三古墳群の違いは、それを営んだ氏族の構成や出自や成り立ちが、それぞれ異なっていたことを示す。

注目すべきは、右の三古墳群のほか、南方約5キロメートルの奈良盆地南縁の山裾にも、墳丘長200メートルを超える巨大前方後円墳が現れることである。桜井茶臼山(さくらいちゃうすやま)(桜井市、墳丘長207メートル)とメスリ山(同、224メートル)で、3世紀後半から4世紀初めにあいついで築かれた。

ただし、この二基は、その大きな図体はともかく、倭の歴代最高氏族長の墓である箸墓・西殿塚・柳本行燈山とは、見た目がはっきりと異なる。それらが全面三段であるのに対し、桜井茶臼山とメスリ山とは後円部だけが三段で、前方部は二段で低く細い(しばしば「柄鏡形(えかがみがた)」前方後円墳とよばれる)。平面形を重視する墳丘研究では軽視されてきたが、当時の人が見て意識したのは平面形ではなく、立体観であり、全面三段と後円部のみ三段との違いは歴然としていた。

そして、目に見える物の形に、社会関係のような目に見えないものをなぞらえて表現する人間一般の心の働きからみて、全面三段と後円部のみ三段を比べたとき、前者を上位、後者を下位とする認識や言説(もの言い)が存在した可能性はきわめて高い。

桜井茶臼山とメスリ山は、それぞれ単独で築かれ、古墳群に属さない。つまり、特定の氏族を基盤としないということである。それも含めて考えると、両墳の主は、全面三段の前方後円墳に葬られた倭の最高氏族長に迫る力をもつけれども格は下で、出身氏族という基盤よりも、個人の資質で門閥氏族に参与し、地位を得ていた人物たちであろう。

さらに〈日本列島に「16万基」もある古墳は、なぜ弥生時代に出現したのか?…従来の学説を根本から覆す考古学の最前線〉では、日本に古墳はなぜ現れたかという点について詳しくみていく。

本記事の抜粋元・松木武彦『古墳時代歴史』は、古墳時代のはじまりからその終焉まで、第一人者が編年体で描いた決定版通史です。ぜひお手にとってみてください!

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