歴史・人名

ワィズ

人物の索引

★オランダ ウィット・デ・ワィズ提督
1622~1626、私掠船デルフト号で世界一周航海
1658/11/8、サウンドの海戦・コペンハーゲン防衛に成功 大航海物語★
ウィット・デ・ワイズ

オランダ 1943-44 発行 英仏海峡の地図

ジャージイ 発行
海戦の図

赤道ギニア 1975 発行
ウィット・デ・ワイズは17才で海に出て船に乗組み東インドに渡って活躍し、21才でオランダに帰国しました。アムステルダム州の命で1622ー1626年の間にナッソウー艦隊の旗艦デルフト号艦長として世界一周航海をし、莫大な富をオランダに持ち帰りました。第一次蘭英戦争では数々の海戦をイギリスと戦い抜き、1658年のスェーデンに対するコペンハーゲン防衛「サウンドの海戦」で戦死しました。
ウィット・コルネリスゾーン・デ・ワイズ提督 (1599/3~1658/11/8)
 Witte Corneliszoon de With
ウィット・デ・ワイズはオランダのブリール近郷のファルムスタッド(farmstead Brielle)で生まれました。トロンプ提督(Maarten Tromp)の1年後に生まれ、トロンプとは幼な友達だったといわれていますが、生涯のライバルとなりました。1602年に父が亡くなり、1610年に家族はメノナイト教に入信し、マイナーな仕事をしながらアナバプテスト(Anabaptist、再洗礼派)の影響を受けた平和主義者の少年時代を過ごしました。17才でオランダ東インド会社(VOC)航路のコーエン(Jan Pieterszoon Coen、1587?1629)船団のシャペンハム(Geen Huygen Schapenham、1587-1629)船長のキャビン・ボーイとして乗組み、東インドへ行きました。1610年の”ジャカルタの攻囲戦”では伍長(corporal、准士官)になり、1619年にジャカルタをオランダが占領し、東インドの本拠地が建設されました。ワイズは、その翌年の1620年にオランダに戻り、兵曹長(schipper、准士官の最高位)となり、やはりシャペンハム提督と共にバルト海や地中海方面での活動に従事しました。

ウィット・デ・ワイズの大航海:~:オランダの”ドレーク船長”と言われています。
1622~1626、ナッソウー艦隊の旗艦デルフト号で世界一周航海。
1622/7に海軍中将となったシャペンハム提督のもとで、アムステルダム州海軍省によって組織された”ナッソー艦隊”で、アメリカの西海岸のスペイン領を襲撃する計画が立案され、ウィット・デ・ワイズはその”ナッソー艦隊”の旗艦デルフト号(Delft)艦長に任命され、1623年に西インド方面を荒らしまわり、太平洋を横断して、東インドに到達しました。1625年にオランダ東インド会社の船団護送につくしたシャペンハム提督が亡くなりましたが、その年の夏にスパイス・アイランド(香料諸島)のテルナテ島(Ternate)で、5百万ギルダー相当の香料を積み込んだ艦隊は世界一周航海を成し遂げ、1626年9月にオランダ・アムステルダムに帰港し、大変な栄誉を受けました。

1628年にワイズはヘイン提督(Piet Heyn)艦隊の旗艦々長になりましたが、キューバ島近海でスペイン財宝輸送艦隊に拿捕され1100万ギルダーを失い、ワイズは500万ギルダーで釈放されました。1629年にワイズはは志願して商船隊(Grote Visserij)の船団長となって海軍を去りましたので、トロンプがヘイン提督艦隊の旗艦々長になりました。1635年に短期間の海軍復帰をはたしましたが、間もなくドープ提督(Philips van Dorp)と意見衝突して海軍を去りました。オランダ独立戦争(Revolt of Netherlands 1568?1648,80年戦争)中のドーンの海戦(Battle of Downs 1639/10/31)をホランド州と西フェリシア州(West Frisia)海軍の最高位の海軍中将として戦いましたが、ドープ提督がトロンプ提督の下位ランクにして、その指揮のもとにおかれた事に不満を持ち、スペイン艦隊を撃破した海戦後のトロンプ人気に嫌気がさしました。また、同じ海戦中にゼーランド州のエヴァツェン(Johan Evertsen)提督を臆病者と言って敵にまわしました。

1640年にワイズ艦隊が嵐で散りじりになったときに、ワイズ提督だけが南ホラント州ヴームプテン島(Voorne-Putten)ヘレヴォウツルイス(Hellevoetsluis)に戻ってきました。トロンプ提督の軍法会議に掛けられましたが、無罪放免となりました。1644年に大規模な商船の護送船団を指揮し、1645年には船団がデンマークのエーレスンド海峡(Oresund)で攻撃を受けました。1647年にはブラジルのオランダ植民地をポルトガルの攻撃から護衛するために装備が貧弱な艦隊の指揮を執りました。数ヵ月後ブラジル議会の協力要請を断って、彼の艦隊は補給不足で解体し、命に反して2隻だけの船で、1649年11月にオランダに戻りました。帰国後に逮捕されましたが、ホラント州政府の介入によって救われ、1651/2にほとんどの告発に無罪となりました。ただ、その間は無給と成りました。同年9月に船団護衛の任務に復帰しました。

第一次蘭英戦争(1652~1654)ではオランダ共和国7州連合艦隊トロンプ総司令官のもとで、グッドウィンの海戦(Battle of Goodwin Sands、1652/5/29)、プリマスの海戦(Plymouth )、ケンティシュノックの海戦(Kentish Knock)、ダンジェネス岬の海戦(Dungeness)、ポートランド沖の海戦(Portland)、イタリア・リヴォルノの海戦(Battle of Leghorn、1653/3/14)、ガバードの海戦(Gabbard)、スヘフェニンゲンの海戦(Scheveningen)が闘われました。

・プリマス沖の海戦(Battle of Plymouth, 1652/8/26)はワイズ提督が不在で、戦列艦23隻と火炎船6隻で護送中のロイテル提督の護送船団を、イギリスのエイスキュー(Ayscue)艦隊42隻が襲撃するも敗退しました。

・ケンティッシュノックの海戦(Battle of Kentish Knock、1652/10/8)では、司令官ワイズ提督(Vice-Admiral)は旗艦プリンツ・ウィリアム号(Prins Willem、ヤコブ艦長 Jacob Gaeuw)に座乗して、ジーランド号(Wapen van Zeeland)に乗艦のエヴァツェン(兄、Cornelis Evertsen)と共にオランダ共和国7州連合艦隊62隻を率いて、ブレーク提督率いるイギリス艦隊68隻と戦いました。海戦は夜明けと共に、オランダ連合艦隊の先頭を行くロイテル艦隊、中央を行くワイズ艦隊、後方にウィッド艦隊(Gideon de Wildt、Rear-Admira)と続き、風上からの優位をとったイギリス艦隊とすれ違いざまの砲撃戦で始まり、オランダ艦隊が劣性で配色濃いまま日没とともに終結となりました。

・ダンジェネス岬の海戦(Battle of Dungeness 1652/12/10)では、ワイズ提督率いる88隻のオランダ連合艦隊が西インドへ向かう船団を護送してヘレヴォウツルイス港を出帆しました。ドーヴァー海峡に差し掛かった時に、海峡で警戒中のブレーク艦隊の戦列間42隻に発見され、15時頃にダンジェネス岬沖で開戦し、優勢なオランダ大艦隊はイギリス艦隊の5隻を撃沈、2隻を拿捕、多数に損害を与えました。夕闇と共にイギリス艦隊は逃れ去りました。

・ポートランド沖の海戦(Battle of Portland、1653/2/28-3/1)。

・ガバードの海戦(Battle of Gabbard、1653/6/12-13、イギリス東部のサフォーク)、イギリスはモンク提督(George Monck)、ディーン提督(Richard Deane)、ローソン提督(John Lawson)、ウィリアム・ペン(William Penn)らに率いられた100隻が赤色艦隊13隻の戦列艦・白色艦隊7・青色艦隊7に分かれていました。一方のオランダはトロンプ提督総司令官とワイズ提督副司令官で98隻が5艦隊に分かれていました。6/12の海戦ではオランダは2隻を失い、6/13の海戦にはイギリスのブレーク艦隊が加わり、オランダは17隻を失って6隻が撃沈され11隻が拿捕、イギリスはディーン提督(Deane)が戦死しましたが艦隊の損害はほとんどありませんでした。オランダ艦隊は1665/6/13のロウェストフの海戦(Battle of Lowestoft)に次ぐ、歴史的敗北を喫しました。

・スヘフェニンゲンの海戦(Battle of Scheveningen、1653/8/8-10、オランダ・ハーグ近郷)、モンク提督(George Monck)艦隊120隻がオランダを襲撃し、トロンプ提督がブレデロード号(Brederode)に座乗して、オランダ艦隊100隻で迎え撃った海戦で、ワイズ提督艦隊の27隻がテセル(Texel)でわなに掛かり撃破されました。続く改選でトロンプ提督が戦死しましたので、8/14~9/22までワイズ提督が総司令官を勤め、その後はオブダム提督が(Jacob van Wassenaer Obdam、1610-1665)が、1654ー1656年まで総司令官を勤め、ダンチッヒ(Danzig、グダニスク:Gda?sk)へ一度だけ航海しました。

第一次蘭英戦争が終結すると、北方戦争(Northern Wars (1655-1661)が起こり、オランダ対スェーデン戦争(Dutch-Swedish War 1658-1660)のコペンハーゲンの防衛戦でのサウンドの海戦(Battle of Sound 1658/11/8、デンマーク・シェラン島付近)が勃発しました。先頭を行くワイズ提督は旗艦ブレデローデ号(Brederode)に座乗して戦列艦11隻からなる艦隊で、中央を行くオブデン提督(Jacob van Wassenaer Obdam)は戦列艦13隻からなる艦隊で、しんがりを進むフロリスゾーン提督(Pieter Floriszoon)は戦列艦11隻からなる艦隊との3艦隊で、オランダ7州連合艦隊41隻が、スェーデン艦隊45隻とがバルト海からコペンハーゲン沖で戦いました。オランダの被害は2隻撃沈でしたが、スェーデン艦隊の被害は4隻撃沈となりました。コペンハーゲンがスェーデンに攻撃を受け、オランダが救援艦隊を送り込み、先陣を切っていたワイズ提督の旗艦ブレデローデ号がコペンハーゲン沖で敵艦に囲まれ、ワイズ提督が最初にマスケット銃弾で左の太ももを打たれ、その後に胸にも敵弾を受けましたが、切り込んできた敵兵に降伏せず、サーベルで戦い抜き亡くなりました。彼の遺体はスウェーデン王カール10世(Charles X Gustav 、1622-1660)の命で、戦勝記念品としてヘルシンゲル (Helsingor)に運ばれました。1659/1にはコペンハーゲンに移されて市民の尊崇を受け、同年10/7にロッテルダムに賑々しく移送され、聖ローレンス教会(St Lawrence)に手厚く葬られました。

・サウンドの海戦(Battle of Sound 1658/11/8)、於:コペンハーゲン防衛戦
戦列艦 オランダ スェーデン スェーデン損害 オランダ損害
第1艦隊 11 11
第2艦隊 13 10
第3艦隊 11 12
第4艦隊 ー 11
計 35 44 沈没;4 沈没;2
砲数 1270 1605 ー ー
乗組員 4000 4055 戦死;350 戦死;296
兵員数 2000 2423 負傷;850 負傷;503
オランダ艦隊司令官;
Witte de With、Jacob van Wassenaer Obdam、Pieter Floriszzon
スェーデン艦隊司令官;
Carl Gustaf Wrangel、Klas Hansson、Bjelkenstjerna、Henrik Gerdtsson

参考~・メノナイト教団(Mennonite)は、メノー派はキリスト教アナバプテスト教派で、クエーカー教徒と共に歴史的平和教会の一つに数えられ、非暴力、暴力を使わない抵抗と融和および平和主義のために行動する教派。