歴史・人名

三国干渉

三国干渉 さんごくかんしょう

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 1895年(明治28)4月17日に調印された下関条約で,満州(現在の中国東北部)南部に関心をもつロシアは日本の領有権の放棄を勧告することを堤唱,4月23日,フランス・ドイツの賛成を得て条約調印の直後,3国は同半島の日本領有は清国の首都を危うくし,朝鮮の独立を有名無実にするとの理由から返還を強く要求している。そしてロシアの極東艦隊を芝罘(チーフー)沖に集結して脅かした。首相伊藤博文は御前会議において,[1]勧告拒絶,[2]列国会議開催による処理,[3]恩恵的還付の3案を堤案,結局2案が取り上げられたが,外相陸奥宗光は結局は干渉を招くと反対,回答を延期しつつ,イギリス・アメリカ・イタリアによる3国牽制策に出た。しかしイギリス・アメリカなどの局外中立宣言のため不成功に終わってしまった。若干の交渉はあったが,結局5月4日,3国の干渉の受諾を決めた。他方,列国はこの干渉後中国分割に着手している。そのあと日清間に還付条約が締結され(11月8日),日本は代償として,庫平銀3,000両(テール約4,700万円)を取得した。国内の世論の激しい批判に対して政府は「臥薪嘗胆」をスローガンとして対露敵愾心を煽った。そして膨大な賠償金をもって次の戦争へ国民を指導していった。
 三国干渉について徳富蘇峰は,〈此の遼東還附が予の殆ど一生に於ける運命を支配したと云っても差支えあるまい。此事を聞いて以来,予は精神的に殆ど別人となった。而してこれと云ふも畢竟すれば,力が足らぬ故である。力が足らなければ,如何なる正義公道も,半文の価値も無いと確信するに至った〉(『蘇峰自伝』)と書いている。賠償金は,日本の戦費2億2,500万円を償って余りある巨額な償金であった。その上清国から台湾・膨湖島を取っている。賠償金は戦後の軍備拡張費に使われた。陸海軍で54%,そのほかに八幡製鉄所・台湾経営費・帝室御料繰り入れ・鉄道・電信事業・水雷・教育・災害準備3基金に用いられている。この三国干渉は,戦勝に浮かれていた日本を政治的恐怖の状態に陥れ,国際情勢の厳しさを教えた。三国干渉は臥薪嘗胆と富国強兵へ歩ませ,戦後経営を軍拡へと走らせた。戦後経営のために増税・地租増徴などが相次で行われ,酒税も高くなっていく。

 それは内村鑑三のごとき義戦論者の眼にも日清戦争の実状をみせつけた。東洋平和や「支那を生かす」より,義戦の名で侵略が行われていた。そのため内村鑑三は「詩人的理想」と笑う人々に対し,〈彼は日本も英も仏や露に倣ひ,彼等の東洋侵略主義に則り吾人の権力を拡張せよと云ふものなり〉とか,〈彼は朝鮮国に関しては,世界に向ひて義戦と宣言しながら,支那に関しては掠奪主義を自白するものなり〉と述べている。かくして義戦はうらぎられてしまった。そして,ひたすらに軍事的大国化を歩むこととなった。

 日清戦争は終わっても

 戦争意識はますますあがった。

 次の戦争に備えるために

 軍艦を造る費用を捻出するのだ。

 陛下が一ばんさきに大金を下され,

 官吏は向う幾年間か

 俸給の幾分か差し引かれた。

 父はそのことを夜の茶の間で

 母や私にくわしく話した。

 遼東還附とかいうと

 天子さまがいと御心配遊ばされると,

 父はしんから心おそれて

 --だからこれからも光も無駄をするな(高村光太郎 建艦費)

 とあるように,三国干渉は国民を結集させた。少年荒畑勝三ももえた。忠君愛国の熱情にかられ,〈大きくなったら海軍の軍人となって,憎っくきロシアに必ず報復してやると決心を堅めた〉(ひとすじの道)のだった。それほど大きな刺激であった。