歴史・人名

中山家(松岡藩)

中山家 松岡藩  升形に月    2万5000石

常陸多賀郡松岡(茨城県高萩市 )  

                                     水戸藩付家老 陣屋  

移封加減増履歴 ・慶長14年→常陸の内1万5000石・元和7年→2万石・?→常陸松岡2万石・宝永4年→常陸太田2万石・宝永5年→2万5000石・明治元年→常陸松岡

江戸城詰席・無席 男爵          
参勤・定府
人口・全領地総計1万2805人、家数2842軒
                      明治2年現在
中山家は、28代宣化天皇の曾孫多治比古王の後裔とされる武蔵七党の一つ丹党加治氏の一族。中山と称したのは武蔵高麗郡中山に居住したことからといわれる。
藩祖信吉の父家範は北条氏照に仕え、小田原征討の際、八王子城にあって奮戦。自刃するも、その戦いぶりを家康は称賛したという。
家範の嫡男照守の曾孫直邦は久留里藩藩祖となっている。

藩祖・信吉(のぶよし)
中山家範の次男 母は片倉氏 
生没・天正5年(1577)~寛永19年(1642)
天正18年(1590)家康に仕え小姓となる
慶長12年(1607)徳川頼房(水戸藩藩祖)に付属させられ、家老となる
従五位下備前守
正室・久下氏
継室・塩谷義上の娘(義上は秋田に移封された常陸佐竹氏の縁戚塩谷氏の一族か?)
子女・2代信政 吉勝(別家) 
信治(信政養子、3代)

2代・信政(のぶまさ)
信吉長男 母は久下氏 
生没・文禄元年(1592)~延宝5年(1677)
慶長14年(1609)小姓組に属す
寛永5年(1628)水戸藩徳川頼房に付属させられ家老となる
家督・寛永19年(1642)相続
従五位下東市正
慶安4年(1651)隠居
正室・向井正綱の娘(正綱は武田家から家康に仕えた水軍の長、子孫は累代「将監」と称し船手奉行を世襲)
子女・養子信治(3代)

3代・信治(のぶはる)
藩祖信吉の四男 母は塩谷義上の娘
生没・寛永4年(1627)~元禄2年(1689)
家督・慶安4年(1651)相続
従五位下備前守
天和元年(1681)隠居
正室・向井忠勝の娘(忠勝は上記の正綱の嫡子)
子女・4代信行 信成(信行養子、5代) 
信敏(信成養子、6代)

4代・信行(のぶゆき)
信治長男 母は某氏  
生没・慶安元年(1648)~天和2年(1682)
家督・天和元年(1681)相続
従五位下市正
正室・藩祖信吉の子吉勝の娘
継室・備中松山藩板倉重郷の養女(丹波亀山藩松平典信の娘)
子女・女子→5代信成養女 養子信成(5代)

5代・信成(のぶなり)
3代信治の三男 母は正室向井忠勝の娘  
生没・明暦元年(1655)~元禄16年(1703)
家督・天和3年(1683)相続
従五位下備前守
正室・なし
子女・信順(信敏養子、7代) 
女子→7代信順養女 養子信敏(6代)

6代・信敏(のぶとし)
3代信治の七男 母は大森氏 
生没・延宝7年(1679)~正徳元年(1711)
家督・元禄16年(1703)相続
従五位下備前守
正室・小城藩鍋島直能の養女
子女・養子信順(7代)

7代・信順(のぶより)
5代信成の長男 母は岩根氏 
生没・元禄9年(1696)~正徳2年(1712)
家督・正徳元年(1711)相続
従五位下市正
正室・なし
子女・養女(5代信成の娘)→8代信昌室 
養子信昌(8代)

8代・信昌(のぶまさ)
旗本堀田一幸の四男 母は正室大田原氏 
生没・元禄12年(1699)~寛保3年(1743)
家督・正徳2年(1712)相続
従五位下備前守
正室・信順の養女
子女・9代政信 

9代・政信(まさのぶ)
信昌次男 母は三浦氏 
生没・享保19年(1734)~明和8年(1771)
家督・寛保3年(1743)相続
従五位下備前守
正室・丹波亀山藩松平信岑の娘
子女・女子→10代信敬室 養子信敬(10代)

10代・信敬(のぶたか)
水戸藩徳川宗翰の九男 母は三宅氏 
生没・明和元年(1764)~文政3年(1820)
家督・明和8年(1771)相続
従五位下備中守
文政2年(1819)隠居
正室・政信の娘
子女・11代信情 女子→長瀞藩米津政懿室
養女(長瀞藩米津通政の娘)→旗本角倉玄匡室
11代・信情(のぶもと)
信敬三男 母は柳沢氏    
生没・寛政7年(1795)~文政11年(1828)
家督・文政2年(1819)相続
従五位下備中守
正室・守山藩松平頼慎の養女
子女・女子→12代信守室 養子信守(12代)
12代・信守(のぶもり)
常陸府中藩松平頼説の三男 母は鈴木氏  
生没・文化4年(1807)~安政4年(1857)
家督・文政11年(1828)相続
従五位下備後守
正室・信情の娘
継室・水口藩加藤明允の娘
子女・13代信宝 信徴(信宝養子、14代)

13代・信宝(のぶとみ)
信守三男 母は小熊氏 
生没・弘化元年(1844)~文久元年(1861)
家督・安政5年(1858)相続
従五位下備前守
正室・なし
子女・養子信徴(14代)

14代・信徴(のぶあき)
12代信守の四男 母は小熊氏
生没・弘化3年(1846)~大正6年(1917)
家督・文久元年(1861)相続
従五位下備中守
明治6年(1873)隠居
正室・拳母藩内藤政成の娘


 中山は、南に名栗川、北は高麗川との間に隆起している台地です。奥田にて多峰主山の尾根と切断され、東方へなだらかな起伏を見せています。朝日山や阿須の台地と、高麗山塊との間に2つの川が東に向かって流れ、その中間に丘陵がうずくまった形をしており、中山という地名がつけられました。
 中山家の系譜によると、宣化天皇の曾孫、多治比古王、その子嶋より出で、奈良朝時代には多くの人材が輩出しています。その中武蔵の国司として最初に任命されたのは、養老3年(719年)多治比縣守(嶋の子)です。弟の廣成は天平10年(738年)武蔵守となり、宇美・門成・石雄・今継(平安時代)其後任ぜられています。これらの人々の子孫が、次第に土着して土豪となり、自己の勢力範囲を保持していました。主として秩父・児玉・入間地方一帯に分布し、高麗郡へ進出したのは基房(秩父)の第5子経家(高麗)で、その子孫が中山氏、高麗氏、加治氏等を称するようになりました。
 中山氏を名乗るようになったのは、経家13代孫とされる家勝のときで、中山郷に住み、在名を姓としました。 飯能市智観寺の東には、南面して中山館址の遺構があり、土塁や堀を廻らして、単郭式の館が設けられ、豪族が居住していました。
 館を中心にして中山の発展の跡をたどってみると、丹生谷津や諏訪沢を水源とする2筋の小川の間に、まず南面して館が出来、ついで家臣団地とも言うべきものが、要衝のところに配置されました。更に家の子、郎党とも見られる農民の家が、大手口に交差する東西の道路に立ち並び、村落としての形態が次第に整えられました。
 中山氏の系譜によると、家勝は上杉方に属し、河越夜戦に負傷した(天文15年)ことや、家範が北条氏政に従軍して各地に転戦した記録があります。
 天正18年7月5日、小田原城落城後(同年6月23日、八王子城落城。中山氏列伝中山勘解由家範参照)、秀吉の命を受け、関東一円は徳川家康の有に帰し、家範の遺児照守・信吉は、ともに召し抱えられ徳川氏に仕えました。信吉は中山の近郷宅貫を采地として与えられました。慶長8年(1603年)伏見城において、刀を盗む賊徒を捕らえて功あり、これによって見出され、後水戸徳川頼房の養育と補佐に当たり、更にその子光圀を水戸家第2代の藩主に推挙しました。


  中山家歴代の菩提寺である飯能市の能仁寺(のうにんじ)の由緒には「中山氏は
 鎌倉時代の武人加治助季(すけすえ)が中山の地に住し、氏名を名乗ったのが初め
 とされるとある。
       
       中山家範館跡の碑:飯能市中山の智観寺の東
       現在明確な遺跡はない。この碑がなければ見落として
       しまうところである。
       
        中山智観寺の裏山の続きの麓にある。
 「寛政重修諸家譜」によれば「寛永系図に、元は加治を称し、のち中山に住する
 により中山を号す。いづれのときあらたむることをしらずといふ。今の呈譜に、
 先祖高麗五郎経家武蔵国高麗郡加治(かじ)の郷に住し、十三代の孫家勝に
 いたり、同郷中山村にうつり住せしより、家号とすといふ。」
 また「姓氏家系大辞典」によれば、
 「高麗五郎経家
   ↓
  家季(加治二郎。元久二年六月二十二日畠山合戦武州二俣河に於いて討たれる)
   ↓
  助季(丹内左衛門尉)
   ↓
  季久(丹左衛門)
   ↓
  行季(二郎)
   ↓
  季光(丹左衛門、尊氏将軍の時、高師直に属して軍功あり、師直より輪違紋を
      与らる)
   ↓
  季経(丹左衛門、太郎、実は季俊。乃ち中山氏也。古本系図は伝えて恵明院士
      加治平馬の家にあり。以って証すべし。中山勘解由詮勝、其の子家範、
      滝城に在り云々。」
 「飯能市史通史編」によれば、
  助季(中山、丹内左衛門)
   ↓
  行季(二郎)
   ↓
  季光(丹左衛門)
   ↓
  季経(丹左衛門)
   ↓
  季頼(十郎左衛門)
   ↓
  規季(兵庫助、応永九・二・十五没)
   ↓
  季憲(左衛門尉、永享二没)
   ↓
  実季(参河守)
   ↓
  季国
   ↓
  季仲(刑部左衛門)
   ↓
  家勝(助六直勝、勘解由左衛門、武州加治郷中山里に居す)
   ↓
  家範(初め吉範、助六郎、勘解由)
   ↓
  照守(初家守、助六郎勘解由)、弟信吉(左助、菊太郎、雅樂助、備前守)とある。
 中山氏も加治氏に同じく上杉氏に仕えていたが、北条氏が武州に進出するに
 及んで、北条氏照に仕えたようである。
  中山家勝(いえかつ):助六郎、勘解由
  足利の中期以降、関東大いに乱れるに当って、中山季仲の子家勝は、扇谷
 上杉氏の為に川越に出て加勢した。ついでその子家範が出て小田原北条氏の将
 となるに及んで中山氏は再び栄え、戦史の表面にあらわれた。
 武人としての家勝は天文十五年河越の戦に参加している。これより先、一族加治
 藤兵衛頼胤が扇谷上杉氏の招きに応じて河越築城に参加している。
 家勝も早くから上杉氏に心を寄せていたものの如く、河越の戦は両上杉氏の守る
 所を北条氏康が俄かに夜襲して一挙に城を乗取ったもので、大将上杉朝定以下
 死傷甚だ多かった。時に家勝は城方崩壊して身を以て免れたのである。
 家勝は単なる武弁ではなかった。一面には信仰心が厚く、禅道に深かった。その頃
 永田村万福寺に来り住んでいた禅僧釜屋文達(ふおくぶんたつ)と交際し、今の
 天覧山麓にささやかな庵を結んで茶を啜りながら禅話に日の傾くを忘れるという
 熱心さであった。
 是れ能仁寺の創建される基で文達を開山とする同寺は家勝の子家範に至って完成
 されたのである。
 諏訪八幡社 永正十三年(1516)加治菊房丸が大檀那となって平重清が之を助け
 創祀する處、後加治吉範に依って再興された。吉範は家範である處から菊房丸は
 家勝の幼名と推定される。
 家勝に関する伝説は非常に多い。天文十五年、河越の戦に乱戦となり中山に帰ろう
 とした時、入間川の水深くて渉(わた)りかねていた。この時一老人が葦毛の馬を牽い
 て家勝を助け乗せ難なく帰ることが出来た。家勝、家近く来て老人の名を聞くに「我は
 鎮守十二社の中である。」とのみ云うや人馬共に姿を消した。
 家勝、憮然として思うに是れ我が日頃尊信する吾妻天神であろうと。
 以後吾妻天神の事を導きの天神と称した。
 また雷に関する伝説もある。勘解由家勝、ある日の出陣に際して俄かに雷鳴はためき、
 恐ろしい暗澹相(あんたんそう)を呈した。人々戸を閉じ生ける姿も無かった時、
 家勝槍をしごいて庭に降り立ち、雲を睨んで槍を突き出せば、雷鳴はたと止んだが、
 槍先には夥しい血痕が附着していたという。
 家勝は天正元年(1573)七月二十五日死す。年五十九。能仁寺殿大年全椿大居士
 という。能仁寺西方約百メートル畠中の地点がその火葬場と称され、
 今、次の碑を立つ。
 全椿大居士火葬場 天正元癸酉年七月廿五日
 墓は能仁寺西墓に存する。
 黒田家の高祖家勝公は高麗氏と婚姻関係ありしなりと」久留里郷友会報で舊藩士の
 後孫根村正位氏は述べられている。 (飯能郷土史)
      
       中山家勝公・家範公・照守公三代の墓石が
       上から順に建てられている。
      
           能仁寺:埼玉県飯能市大字飯能1329
      天覧山の南麓、登山道の入口左側。武陽山と号する曹洞禅刹で、
      室町後期の文亀年間(1502~1504)、飯能の領主中山家勝の開基、
      釜屋文達(ふおくぶんたつ)の開山。
      能仁寺は中山家歴代の菩提寺として栄えた。中山氏の流れを汲む、
      上州沼田藩主(群馬県)で、のち上総久留里(千葉県)藩主となった、
      黒田氏の帰依も厚かった。
   中山勘解由左衛門家範
  天正十八年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めが始まると、北条氏照(ほうじょう
 うじてる)は小田原城に籠城。城主不在の八王子城は、豊臣方の前田利家・上杉
 景勝の連合軍一万五千の包囲攻撃を受けた。城を守る北条勢は、重臣の中山
 勘解由家範(なかやまかげゆいえのり)・横地監物(よこちけんもつ)らを主将とする
 千余名、六月二十三日の戦闘で落ちたが、壮烈な最期をとげた中山家範らの
 すさまじい戦いぶりは、寄せ手の大将前田利家を瞠目(どうもく)させたという。
 関八州古戦録から一部抜粋すると次のようである。
 天正十八年、秀吉の小田原征伐の時、中山勘解由左衛門家範(古戦録は氏範と
 する)は八王子城「中の丸」の守将であった。六月二十三日、北国勢朝早く不意に
 八王子の町口を押破り、霧間がくれに張番の軽卒達を撫で切りにし、追って城外
 まで攻め寄った。本丸は景勝(上杉)、中の丸は利家(前田)と決めて、松山の先方
 を案内者として山中曲輪を攻めさせた。夜中にかかって大いに戦った。
 近藤出羽守奮戦して命を落す。
 これを見て本丸、中の丸の雑兵達は肝をつぶして大半は逃げおおせた。
 中山勘解由左衛門の手に属していた七百人のもののうち、わずか百余人、軽卒
 二百人ばかりが残った。中山・狩野は残る士卒を励まして、矢・鉄砲を放って防いだ
 ので、攻め寄せる軍勢の死傷者は数知れず。利家父子さかんに命令して士卒を攻め
 進め、金子丸を乗っ取り、金子三郎右衛門を討ち取る。寄せ手は機を得て全軍
 中の丸に攻めかかった。中山・狩野は士卒を率いて打って出て自ら鑓を合せ、
 太刀打ちして、しばらく勇を奮っていたが、もとより微勢なので、かなわず引いて入る。
 検使太田小源吾一番に塀を乗り越えたので諸勢も続いて乱れ入る。中山・狩野は
 これまでと覚悟し、本丸へ入って足弱の女・子供を刺殺し、ことごとく腹を切って
 死んだ。徳川家康もこの一戦の事を聞き及んで、彼らの忠志を感ぜられ、この年
 関東に御入国の後、八月十三日中山が嫡子助六郎照守、次男佐助信吉が武州
 国府のあたりに牢浪していたのを召出され、御旗本に列せられ、兄は勘ケ由、弟は
 備前守と改号して今子孫相続している。狩野一庵は倅主膳正も召出され、慶長五年
 の役(関ケ原の戦い)にも二番鑓の誉れを得たという。
 (関八州古戦録)
 寛政重修諸家譜によれば、利家そのはたらきのたぐひなきを見て使をもって命を
 たすけむとす。しかれども節義をまもりて肯(がえん)ぜず。ついに妻子等をきりて
 其身も忠死す。年四十三。太閤首実検のとき、家範が忠節を感じ、其首を几上におき、
 中山勘解由左衛門といへる札をつけて小田原の城中におく。法名宗無。
 易にいわく善を積む家には、必ず余慶(よけい)あり、不善を積む家には必ず余殃
 (よおう:わざわい)あり。
 父勘解由左衛門家範の忠死が二人の子息に余慶をもたらした。照守、信吉の二人は
 徳川家康に救いあげられた。二人の努力もあったであろうが、子孫は徳川幕府の中で
 有力な旗本、大名、そして水戸徳川家の家老となり、丹党の中で最後まで繁栄した
 一族となった。
      
          加治神社。丹生社は明治になって合祀
      丹生社:智観寺の境内より東の方にあり。中山備前守が鎮守なり。
      社領五石、社は御朱印地の内にあり。神体は石像なりと云、
      神秘のよしにて開扉せず。例祭二月十六日別当は智観寺。
      神職は小熊志摩なり。(後略)
  中山照守(てるもり)
  初家守(いえもり)、助六郎。勘解由。母は後藤主膳某が女。 
 北条氏輝に仕へ、しばしば戦功あり。天正十八年小田原城没落の後加治の郷に
 潜居す。八月東照宮父が忠死を御感あり。弟信吉とともにめされて拝謁し、御家人
 に列し、武蔵国多摩郡のうちにおいて采地三百石をたまひ、台徳院殿(秀忠)に
 付属せられ御使番をつとむ。慶長五年真田昌幸が籠れる信濃国上田城をせめたまふ
 のとき、酒井宮内大輔家次、奥平美作守信昌、牧野右馬允康成が手に属し、
 苅田のことを奉行し、城ちかくいたるところ、城中より軽兵を発してこれを追い
 はらはんとせしかば、照守及び小野次郎右衛門忠明、辻左次右衛門久吉、鎭目
 半次郎惟明、戸田半平光正、斎藤久右衛門信吉、朝倉藤十郎宣昌等七人鎗を
 合わせ、太田甚四郎吉正は弓をもって鎗脇にして、敵を射斃し、城中に追い入る。
 世にこれを上田の七本槍と称す。このたたかひに照守等最苦戦すといへども、
 軍令を狂せしにより御気色蒙りて真田伊豆守信幸にめしあづけられ、上野国吾妻に
 閑居す。六年九月赦免ありて本領をたまひ、七年二月十五日上総国武射郡
 (むしゃぐん)のうちにおいて、采地百石を加恩あり。十九年大阪御陣に供奉し、
 元和元年の役には御使番となりてしたがひたてまつり、五月六日照守軍監として、
 大和口の諸軍に加はり、接戦して敵を追退く。
 また東照宮諸手のはたらきをとはせ給ふのとき、具に言上し、七日仙波において
 首一級をうち取。郎等等も首五級を得たり。此時城中すでに火かかりしかば、
 城兵多く門外にみだれ出づ。味方の兵も騒擾して隊伍をみだらむとす。照守おほせ
 をうけてはせめぐり、御先にすすんで左右にのりわけ諸軍をしづむ。御凱旋ののち
 十二月二十七日其賞として下総国千葉郡の内において六百石を加増あり。
 そののち御目付に転じ四年三月上総介忠輝朝臣を伊勢国より飛騨国にうつさるる
 のとき、近藤平右衛門秀用とともにおほせをうけて路次を警固す。
 寛永三年四月また忠輝朝臣を信濃国諏訪にうつさるるのときも、内藤外記正重と
 おなじく警固してかの地に至り、後御目付として肥後国熊本に赴く。
 八月大猷院殿(たいゆういんどの:家光)洛にのぼらせたまふのとき供奉す。
 其後武蔵国新座郡のうちにして五百石を加増せられ、九年七月朔(ついたち)御鎗
 奉行にすすみ、十月三日下総国千葉、上総国武射、市原(いちはら)、長柄(ながら)
 四郡の内において二千石を加へられ、すべて三千五百石を知行す。
 十年四月七日御旗奉行にうつる。かって馬術を善くし高麗流八條家の奥義を
 きはめしにより、台徳院(たいとくいん:秀忠)に其術をつたへたてまつり、馬喰町
 の馬場において乗馬を台覧(たいらん)あるとき、御みずから毛色及び其列の姓名
 を記して照守にたまふ。
 いま中山勘之丞直温(なおあつ)が家に蔵す。のち大猷院殿にも其術を言上す。
 また仰せによりて馬術の弟子高山勘兵衛守勝を養て姪に准じ、中山を名らしめて
 御家人に列す。いま中山鯛蔵克匡が祖なり。十一年正月二十一日死す。年六十五。
 法名宗印。妻は遠山民部少輔利景が女。
 高麗八条流馬術の名人中山照守
 中山照守は高麗流八條家の奥義を極めた馬術の達人であった。二代将軍徳川秀忠
 に馬術を教授している。その子直定も父のあとを継いで、大阪陣などで武勇を
 発揮し馬術も将軍の上覧に供するほどの上手であった。
 直定の弟直範、直定の三男直次(なおつぐ)も将軍に馬術を教授するほどの達者で
 あった。しかし直次は寛文十二年四月二十日、川崎太郎兵衛知高と口論に及び、
 これを殺害し、自身も即時に切腹してしまった。
 ↓
 中山直定(なおさだ)
 中山照守の嫡男。助六郎。勘解由。母は利景が女。
 ↓
 中山直守(なおもり)
 中山直定の嫡男。新藤左衛門。助六郎。勘解由。丹波守。従五位下。
 母は市之丞某が女。  
  中山信吉(なかやまのぶよし)
  左助。菊太郎。雅樂助(うたのすけ)。備前守。従五位下。中山勘解由家範が二男。
 母は片倉氏。
 天正十八年八月兄中山助六郎照守とともにめされて東照宮につかへたてまつり、
 御小姓となり菊太郎とめさる。時に十三才。其ののちおほせにより雅樂助にあらため、
 武蔵国宅貫(やかぬき)において采地をたまひ、其のち御歩行の頭となる。慶長八年
 伏見城において出仕の面々の中にまぎれ入、悪しきかたなをもってよき刀にさし
 かへしものあり。
 このことしばしばにおよぶにより、信吉つねに心をつけ、ついにかの者を召捕こと
 のよしを言上せしかば、賞せられて黄金二枚たまふ。
 十二年頼房卿(よりふさきょう:水戸徳川祖)に附属せられて家老となり、常陸国
 真壁郡のうちにおいて五千石を加へられ、十二月十日御朱印を下され、さきに
 たまう采地を合せ六千五百石を知行す。二十二日駿府城火あるのとき、信吉
 御台所門の当番なりしに、両の扉をひらき隊下の士をよび従者をして、路の左右を
 警固せしめて混雑なからしむ。東照宮これを御覧ありて御感をかうぶる。
 十三年正月二十九日八王子の十七騎をえらび、信吉が与力となされその給地として
 常陸国真壁郡のうちにおいて三千五百石をたまふ
 十四年常陸国において五千石を加増あり。このときさきにたまふ与力の給地をも、
 信吉が采地のうちに加へらる。
 のち水戸におもむくのとき、東照宮御手づから點茶(てんちゃ)をたまひ、御料の羽織
 を恩賜(おんし)あり。
 十九年大阪陣に頼房卿をして駿府城の留守となしたまふのとき、信吉を御前にめされ、
 懇(ねんご)ろの仰せをかうぶる。元和(げんな)二年三月二十六日従五位下備前守に
 叙任す。
 七年頼房卿より采地五千石を加増せられ、すべて二万石を領す。
 九年台徳院殿(秀忠)、大猷院殿(たいゆういんどの:家光)洛にのぼらせたまふ
 のとき、頼房卿にしたがひて供奉す。のちまた此のことあり。寛永十三年十一月二日
 大猷院殿頼房卿の館に渡御(とぎょ)のとき時服十領、白銀百枚をたまふ。
 信吉附属せらるるののちも、佳節及び朔望(さくぼう:陰暦一日と十五日)に登営して
 拝賀したてまつり、あるひは御起居をとひたてまつるにも、進止(しんし)をまたずして
 御前に出、あるひはおほせによりて評定の席に列す。これよりさき東照宮より親筆の
 御短冊、および備前兼光葵下坂(びぜんかねみつあおいしもさか)の御刀、南蛮胴の
 御具足、御銕炮(てっぽう)、御鞍あるひは伽羅金の獅子、金の笛、唐銅の印金の
 磁石をたまひ、台徳院殿(たいとくいん)より親筆の御短冊ならびに鴛鴦(えんおう)の
 御書をたまふ。
 十九年正月六日死す。年六十五。法名心圓。武蔵国高麗郡中山村の智観寺に葬る。
 妻は北条家の臣久下下総守某が女。後妻は?谷阿波守義上が女。
       
           智観寺境内にある中山信吉公の墓石
       
                 中山信吉墓の説明
    中山信吉は水戸家の筆頭家老として万事を処断し、天下の副将軍家の礎を
    固めた。寛永十三年頼房の後嗣を定めるに際して三代将軍家光は、中山
    備前守信吉にその選定を委ねた。光圀六歳の時、その賢明を中山信吉に
    推挙された。将軍家光は信吉の進言をそのままに、これに従った。光圀は
    兄頼重をおいて水戸家の世嗣に決まった。中山信吉六十一歳の時であった。