歴史・人名

人名く

草野直清(くさのなおきよ)
1514~1563
相馬家臣。伊達輝宗に内通、相馬義胤勢の佐藤好信と戦ったい討死した。
朽網鑑康(くたみ あきやす)
????~1586
別:入田氏 市正 鑑安 宗暦 三河守 中務少輔
父:入田親廉
子:朽網鎮則
 入田親廉二男。親満以来絶えていた豊後・大友氏の譜代の藤原古庄氏嫡流朽網氏を継ぐ。筑前、筑後の制圧に尽力し、薩摩・島津氏の北上に対抗したが、島津氏の豊後侵攻の時にこれに内通して、その先導をした。
朽網鑑康(くたみ あきやす)
????~1586 ○入田氏 市正 鑑安 宗暦 三河守 中務少輔 ◇父:入田親廉 子:朽網鎮則  入田親廉二男。親満以来絶えていた豊後・大友氏の譜代の藤原古庄氏嫡流朽網氏を継ぐ。筑前、筑後の制圧に尽力し、薩摩・島津氏の北上に対抗したが、島津氏の豊後侵攻の時にこれに内通して、その先導をした。
忽那通著(くつな みちあき)
????~1579
別:式部少輔
父:忽那新右衛門尉通乗(通葉)
子:南彦四郎通具
 伊予・河野氏に従った水軍の将。伊予・吉田城主であったが、忽那島を領したことから忽那氏に改めた。伊予・花瀬において安芸の小早川氏率いる毛利水軍と戦い討死した。 弟:忽那新右衛門尉通恭、四郎兵衛通実
熊谷信直(くまがい のぶなお)
1507~1593
父:熊谷元直
室:福原貞俊女
子:熊谷高直、直清、広真、三須隆経、熊谷就真
 安芸・武田氏に仕えるが、父が毛利氏との戦いで戦死した後、領地の横領等もあって仲がまずくなり、逆に仇の毛利氏と結んで武田氏と戦う。以後は毛利氏に従い、吉川元春麾下で常に先鋒を務めて武功を重ね、国衆最高の1万6千石の知行を得た。
熊谷元直(くまがい もとなお)
????~1517
別:民部少輔
父:熊谷膳直
子:熊谷信直、直続
 平安末期、源義経部将として、一ノ谷合戦では平敦盛を討ち有名になった熊谷次郎直実の一族(正確には直実の父)の裔。安芸・三入高松城主。安芸守護・武田氏に与して、安芸・毛利氏と戦い戦死。
熊谷元直(くまがい もとなお)
????~1517 ○民部少輔 ◇父:熊谷膳直 子:熊谷信直、直続  平安末期、源義経部将として、一ノ谷合戦では平敦盛を討ち有名になった熊谷次郎直実の一族(正確には直実の父)の裔。安芸・三入高松城主。安芸守護・武田氏に与して、安芸・毛利氏と戦い戦死。
来島通総(くるしま みちふさ)
1561~1597
別:村上氏 牛松丸 助兵衛 出雲守
父:来島通康
子:来島長親
 伊予・河野氏臣で来島通康4男。伊予・来島城主。しかし河野氏による幕府への公用銭の横領等で、両者の関係は悪化。後に背いて羽柴秀吉に仕え、四国征伐の先鋒を担って戦功をあげた。水軍の将として活躍するが、朝鮮出征の慶長の役の際、戦死した。
来島通康(くるしま みちやす)
1519~1567
別:村上氏 通昌 右衛門大夫 出雲守 河野氏
室:河野通直
子:得居通年、来島通総
 源氏の流れをくむ由緒正しい家柄。村上水軍として伊予・来島を本拠とし来島氏を名乗る。伊予・河野氏重臣。当主通直に嗣子がなかった為、その女婿であり、通直の信頼も厚い通康が後継者に押されるが、河野一族重臣の強い反対に遭って話は流れた。その後も河野氏の下、各地を転戦、1555年には安芸・毛利氏を援けて厳島に出陣、その勝利に貢献した。湯月城中にて病死。
黒川隆像(くろかわ たかかた)
????~????
別:近江守
 周防・大内氏臣。黒川氏は筑前・宗像氏の一族が山口に移り黒川村を領したことから名乗ったのが始まり。各地を転戦して大内氏の為尽くした。
黒川通尭(くろかわ みちたか)
????~????
別:長曽我部氏 元春 肥前守
父:長宗我部兼序
室:黒川通冬女
子:黒川宗太郎通長、対馬守通俊 養子:黒川(正岡)美濃守通博
 黒川氏は伊予・河野氏庶流。通尭は、兄長曽我部国親と不仲で、家を飛び出し黒川氏の下に身を寄せ、時の黒川氏当主山城守通矩に見込まれ妹婿となったという。伊予・剣山城主として周辺の城主を攻略、版図を広げた。しかし、長男通長を壬生川氏攻め、嫡男通俊を戎能氏攻めにて失い、正岡右近大夫通純2男通博が跡を継いだ。
黒木家臣団(くろきけかしんだん)
黒木大炊介光安、黒木中務、古田主水正。
黒木丹波守(くろきたんばのかみ)
15??~15??
相馬家臣。伊達政宗が初陣したさい、相馬方の大将としえ兵3,700余りを率いて大条城を攻撃した。大条城主小梁川行秀は兵100 余りで反撃するが、黒木丹波守の伏兵に会い敗走した。
黒木信房(くろきのぶふさ)
15??~15??
中村城主。通称弾正。中村城に弟黒木大膳義房(中村大膳)を置いて宇多郡をほぼ支配していた。1532年「伊達家天文の乱」で伊達晴宗に組した黒木家は伊達稙宗方の田中城を攻めて失敗した。1543年、伊達稙宗方の相馬顕胤に滅ぼされた。
桑名親光(くわな ちかみつ)
????~1586
別:太郎左衛門
父:桑名丹後守重定
子:桑名藤次郎(五百蔵左馬進)
 土佐・長宗我部氏臣。豊後・戸次川の合戦において、薩摩・島津軍の大軍と戦い、当主元親の嫡男信親と共に戦死した。 弟:桑名平右衛門、将監親勝
桑名親光(くわな ちかみつ)
????~1586 ○太郎左衛門 ◇父:桑名丹後守重定 弟:桑名平右衛門、将監親勝 子:桑名藤次郎(五百蔵左馬進)  土佐・長宗我部氏臣。豊後・戸次川の合戦において、薩摩・島津軍の大軍と戦い、当主元親の嫡男信親と共に戦死した。
桑名吉成(くわな よしなり)
????~1615
別:中内氏 藤次郎 弥次兵衛 一孝
父:中内藤左衛門 養父:桑名藤蔵人
室:桑名藤蔵人女
子:桑名又右衛門
 土佐・長宗我部氏臣。藤左衛門2男。養父の死後、その後を継いで土佐・中村城代となる。1582年讃岐・中富川の合戦においては乗馬を見失い、敵陣に紛れ込んで奪還、当主元親はこれを激賞したという。羽柴秀吉の九州征伐では豊後・戸次川の合戦において総大将仙石秀久の勇み足の為惨敗、元親を守って撤退している。朝鮮出兵にも参加。関ヶ原の戦いでは西軍について主家は改易となり、この時明け渡しに抵抗する長宗我部遺臣が土佐・浦戸城に籠もったが、一孝はこれを策をもって鎮圧した。その後は旧知の藤堂高虎に仕えここでも厚い信任を得たが、大坂の陣において旧主盛親の軍と戦って、その臣近藤長兵衛に討たれた。旧主を攻撃できず、わざと討たれたとも。