歴史・人名

人名こ

己斐宗端(こい そうたん)
????~1517
子:己斐直之
 己斐城主。安芸・武田氏の下、毛利氏との有田合戦において惨敗、戦死した。
小池春憲(こいけはるのり)
15??~15??
相馬家臣。通称弥七郎。相馬家を辞し、佐々成政に召抱えられた。佐々成政が羽柴秀吉に下ると飛騨高山へ移住した。武功の臣で、剣の達人として飛騨を領した金森家に仕えた。
上坂意信(こうざか おきのぶ)
????~???? ○伊賀守 ◇父:上坂景信 弟:上坂信濃守貞信、修理入道道雲 子:上坂八右衛門正信  上坂氏は近江守護・京極氏執権の家柄であったが、意信の時には近江・浅井氏に重臣として従い、小谷城に在番する。浅井氏滅亡と共に領地を没収された。
香坂昌信(こうさか まさのぶ)
1527~1578
別:春日氏 高坂氏 源助 源五郎 虎綱 昌宣 晴昌 晴久 弾正忠
父:春日大隅?
子:香坂源五郎昌澄、春日弾正忠勝賀
 父は豪農か。16歳で甲斐・武田信玄の近習となる。寵童であったという。やがて抜擢され重臣にまでなった。北方の備を任され、信濃・小諸城さらには海津城を預かる。1561年川中島合戦の戦功で、北信濃の名族香坂氏の名跡を継いだ。用兵に優れ、不利な戦は決してしないその慎重さから“逃げ弾正”と呼ばれる。三方ヶ原の戦いでは敗走する三河・徳川勢追撃を進言する諸将の中、一人その無益を説いて止めた。長篠の合戦時は北信濃を固めていた。52歳で病死。武田氏の史料「甲陽軍鑑」は昌信の記が元であるという。
香宗我部親氏(こうそかべ ちかうじ)
????~1592
父:長宗我部親泰
 土佐・長宗我部一族。朝鮮出征の中、亡くなった。
香宗我部親泰(こうそかべ ちかやす)
1543~1593
別:長宗我部氏 安芸守
父:長宗我部国親 養父:香宗我部親秀
子:香宗我部親氏、貞親
 土佐・長宗我部氏の一族。父国親の謀略で、土佐七雄香宗我部親秀の養子となり、その後親秀の弟、当主秀通を暗殺し乗っ取る。長宗我部家の重鎮として各地を転戦活躍し、又、外交面でも腕を振るう。豊臣秀吉の朝鮮出征の途上、長門にて急病のため亡くなった。
河野景廣(こうの かげひろ)
1600~1658
別:岩丸 彦太郎 右衛門 時廣 等廣 伊予守 加賀守 美作守 松前氏
父:蠣崎慶広 義父:河野弥次郎季通
室:下国主典介由季女
子:松前兵部宣広、美作守廣維
 蝦夷・蠣崎氏一族。継いだ祖母の実家河野氏は伊予・河野氏の庶流。後に松前氏を称する。松前氏の記録「新羅之記録」編纂。
河野通直(こうの みちなお)
????~1572
別:太郎 弾正少弼
父:河野刑部大輔通宣
 伊予守護・河野氏当主。嗣子がなかった為、女婿だった来島通康を当主に迎えようとしたが、予州家通存を推す一族重臣の反対を受け、内紛の様相を呈してきたので、通直はこれと和議して通存の子通政(晴通)に家督を譲って隠居、城を出た。
河野通直(こうの みちなお)
1566~1587
別:牛福丸 四郎 伊予守 兵部少輔
父:河野通吉 養父:河野左京大夫通宣
子:河野通益 養子:河野(宍戸)太郎通軌
 中予・河野氏最期の当主。土佐の長宗我部氏、阿波の三好氏等の侵攻を受け、安芸・毛利氏の来援等で対抗したが、やがて長宗我部氏に降る。羽柴秀吉の四国侵攻の時は長宗我部氏に従い、当初湯月城に籠もるが、秀吉軍前衛の小早川軍に降伏。その後小早川氏の傘下に組み込まれた。安芸・竹原にて余生を送り、同地にて没。
河野通存(こうの みちまさ)
????~????
別:六郎
父:河野通篤
子:河野通政(晴通)、石川通昌、河野通能、左京大夫通宣(通賢)、野島直信
 中予・河野氏予州家の一族。当主通直の後嗣争いの時、その女婿来島通康の相続に反対して予州家の代表として争い、長子通政に宗家を継がせることに成功する。
河野通吉(こうの みちよし)
????~????
別:近江守 池原氏
父:河野明生
子:河野通直、池原兵部丞通成
 中予・河野氏一族。本家と予州家との対立を治めるべく尽力する。その能力、人望ともに優れたものであった。子の通直が当主を継ぐが、すでに持ち直す力はなく、河野氏は滅亡に向かった。
鴻池新右衛門(こうのいけ しんえもん)
山中鹿之介の子。鹿之介の兄の子ともいわれる。幼名・新六 黒田幸隆の養子となり別所長治に仕えた。別所家が滅びた後は摂津・鴻池村で商人となる 酒造を始め清酒を開発し江戸で成功して鴻池家の始祖となった 鴻池家は現在のUFJ銀行のもととなった三和銀行
桑折久家(こおりひさいえ)
15??~15??
北郷田中館主。
国分盛重(こくぶん もりしげ)
1553~1615
別:伊達氏 彦次郎 九郎 政重 三河守 能登守
父:伊達晴宗 養父:国分弾正盛顕
子:国分実永、古内主膳重広
 出羽・伊達氏一族だが、国分氏に入嗣し、第17代当主となって伊達氏に帰属する。しかし、家中の反伊達勢力を一掃することができず、その治世は不安定であった。1585年人取橋の合戦では自ら3百の兵を率いて功を挙げる。奥州仕置後、蒲生氏郷の政宗に対する疑念を解くため、蒲生方の人質になった。いつ頃からか当主政宗と不和でなったようで、1599年岩出山城に呼び出された時、病と称して断わったところ、謀反を疑われ攻められ、常陸・佐竹氏を頼って落ちた。以後、佐竹家重臣として1602年佐竹氏の秋田移封にも従い、横手城主1千石を得た。大坂冬の陣に従軍して今福の戦いで先鋒として奮戦したが、夏の陣では病気の為従軍できず。
小倉賢治(こくら かたはる)
????~1564?
別:右近大夫 実澄?
父:小倉三河守実方?
室:高畠新二郎女
子:小倉甚五郎、松千代
 清和源氏流。近江・山上城主。近江・京極氏、六角氏の勢力間に位置し、離合集散が絶えなかった。尾張・織田信長がひそかに将軍足利義輝に拝謁した時には、暗殺団に狙われている信長の帰路確保に協力した。1564年比叡山の荘園に対する年貢を払わなかったことから、比叡山に組みする六角氏の攻撃を受ける。一度は撃退するが、これに怒った六角氏のさらなる攻撃を受けて落城、一族高畠氏の八尾城で自刃。彼の室は、その後に信長の側室となる。
小島貞興(こじま さだおき)
????~1582
別:弥太郎 一忠?
室:河田長親女
 越後・長尾氏臣。力士衆から抜擢されたといわれる。その強さから「鬼小島」と恐れられ、敵対する山県昌景をして“花も実もある勇者”と言わしめた。しかし、かなり大袈裟なエピソードが数々残っていることから創作とも疑われる(人物は実在か)。謙信を補佐して各地を転戦活躍し、有名を轟かせた。
小少将(こしょうしょう)
父:斎藤兵部少輔
越前・朝倉家譜代の家臣・斎藤兵部少輔の娘。義景の次男・愛王丸の母 少女のころからその美貌は際立っており、気立てもよく同情心にも富んでいた 中川城主の子・堀江景安と内約が調っていたが、朝倉義景に請われ側妾にあがった これに怒った堀江親子は反旗を翻し、籠城して善戦したが、義景の母の仲裁で堀江親子は能登へ退去した 義景の側妾になったのちは邪悪奸佞な女人に変化し、御国を傾け御家を滅ぼした悪女といわれた 朝倉家滅亡後に捕らえられ、義景の母、愛王丸とともに斬首された
木造具政(こづくり ともまさ)
????~????
別:左衛門尉 兵庫頭
父:北畠材親 養父:木造具康
子:木造長政、滝川雄利
 伊勢国司・北畠一族だが、在地の土豪・木造氏を継ぐ。伊勢・木造城主。序列の不満等から1569年兄具教に背き、尾張・織田信長に与する。直ぐさま北畠氏の侵攻を受けるが、堅守して信長の援軍を得て撃退。大河内城攻めの際には、具教に和睦を進言した。後に、北畠氏に入嗣した具豊の支配下に入る。1584年具豊が羽柴秀吉と対立すると、戸木城に籠って蒲生氏郷らの軍とよく戦うが、具豊・秀吉の和議によって尾張に移った。
木造長政(こづくり ながまさ)
????~1604
別:長正 具康 左衛門佐 大膳
父:木造具政
子:木造右京
 伊勢国司・北畠氏庶流。父と共に北畠具豊に属し、1586年戸木城の戦いに参加。具豊が羽柴秀吉と和すると、田辺城に退去。後、羽柴秀吉に従って織田秀信に仕え、重臣として2万5千石を得た。1600年関ヶ原の戦いでは、秀信に東軍加担を主張するが聞き入れられず、さらに岐阜城籠城を勧めるが、これも容れられなかった。野戦において、東軍の大軍相手に奮戦したが負傷、敗れて落城した。その勇戦ぶり見た東軍の福島正則に招かれ、後に安芸に1万9千石を得た。
近衛前久(このえ さきひさ)
別:近衛前嗣
父:近衛稙家
五摂家筆頭近衛家の当主。近衛稙家の子。妹が将軍足利義輝の妻 関白・左大臣に任ぜられ、晴嗣・前嗣・前久の順に改名し後に龍山を称す 越後に下向し長尾景虎(後の謙信)と共に北条氏と戦う 正親町天皇の即位の礼費用を献上させるために毛利元就とも交渉した 足利義輝と公武一体の復興を目指し、義輝が討たれると足利義昭擁立に奔走 後に織田信長と組んだ義昭と対立して関白職を罷免され出奔。しかし和解し信長の天下布武に貢献した 本能寺の変後出家して徳川家康を頼る。その後京に戻り豊臣秀吉の関白就任に奔走 晩年は子の近衛信伊(信基)と所領問題で不和となり失意のうちに歿した
木幡清吉(こばたきよよし)
1570~1665
木幡高清の男。相馬盛胤から相馬忠胤までの相馬五代に仕えた。中村城下街のなわばり奉行を務めた。
木幡高清(こばたたかきよ)
1537~1642
木幡継清の弟。官途は駿河守。相馬五代に仕えた。検地代官や相馬利胤の傅役も務めた。
木幡継清(こばたつぐきよ)
15??~1618
木幡高清の兄。相馬盛胤、相馬義胤、相馬利胤三代に仕えた老臣。度々合戦で軍功があったという。
小早川隆景(こばやかわ たかかげ)
1533~1597
別:毛利氏 徳寿丸 又四郎 備中守 侍従 参議 権中納言
父:毛利元就
室:小早川美作守正平女
子:小早川秀包(毛利元総)、秀秋(豊臣秀俊)
 安芸・毛利元就三男。1544年竹原小早川氏に養子に入り、1550年その総領家にあたる沼田小早川氏も嗣いで両小早川をまとめ上げた。小早川家の水軍力を活用して、主に四国や九州、山陽方面において各地を転戦活躍した。当主の兄隆元死後もその遺児輝元を助けて、毛利氏の為に力を尽くした。豊臣秀吉の朝鮮出兵にも水軍を率い参加奮戦し、帰国後、豊臣家五大老の一人となる。秀吉から受けた領地は、一度毛利本家に与えられてから隆景に封される形を取って、毛利氏の結束を示す配慮を怠らなかった。養子に秀吉の甥秀秋がなるが、これは秀吉が秀秋を本家毛利氏に養子に入れようとしている事を知って、主家を守るため自らに秀秋の養子を望んだものだという。
小早川秀秋(こばやかわ ひであき)
1582~1602
別:木下氏 左衛門督 参議 中納言 豊臣氏
父:木下肥後守家定 養父:羽柴秀吉、小早川隆景
室:毛利輝元養女
 父は羽柴秀吉正室・北政所の兄。3歳で秀吉の養子となる。しかし、秀吉に実子秀頼が生まれると、翌年安芸・毛利氏臣小早川氏に養子に出された。筑前52万石を領有。慶長の役では総大将として出陣している。関ヶ原の合戦では西軍として参陣したが、裏切って東軍に内応、西軍敗北の要因となった。戦後、備前、美作に50万石を得たが、まもなく亡くなった。嗣子なく小早川宗家は断絶。
小早川秀包(こばやかわ ひでかね)
1567~1601
別:毛利氏 戸坂氏 大田氏 才菊丸 内記 藤四郎 元綱 元総 道叱 筑後守 侍従
父:毛利元就 養父:小早川隆景
室:豊臣秀吉養女(大友義鎮女)
子:毛利市正元鎮、元貞、小早川能久
 安芸・毛利元就9男。兄隆景の養子となり小早川を名乗る。本家毛利氏が豊臣秀吉に降った際、その人質となるが秀吉に気に入られ、秀包を名乗る。小牧・長久手の戦い、九州征伐に参加し、後に秀吉の養女を娶った。朝鮮出兵に参加した際には、養父隆景を助け明の大軍を撃破している。しかし隆景が養子豊臣秀秋を迎えたことから別家となり、久留米を治めた。関ヶ原の合戦では西軍として大津城攻略に参加する。戦後除封され、翌年長門にて没するが、子孫は吉敷毛利家を興した。
小堀正一(こぼり まさかず)
1579~1647
別:作助 遠江守 孤蓬庵
父:小堀正次
室:三沢局(徳川家綱乳母)、藤堂高虎の養女、浅井氏女
子:小堀備中守正之(宗慶)、浅井権十郎政尹、小堀十左衛門政孝、政貞
 羽柴秀長、後に秀吉に仕える。その後徳川家康に臣従。大坂夏の陣参加。普請奉行として、大坂城本丸、二条城二の丸の作事を手掛けて、公武作事奉行の第一人者といわれる。古田織部正重然に茶の湯を学び、また書画古器の鑑定人としても有名。「小堀遠州書捨文」、「小堀遠州茶湯伝書」を著す。
小堀正次(こぼり まさつぐ)
1540~1604
別:新助
父:小堀正房
室:磯野員昌女
子:小堀政一、次左衛門正行、正長、正春
 近江・浅井氏臣。近江・小堀村を本貫地とする藤原氏秀郷流の土豪。浅井氏滅亡後は、羽柴秀長に仕え、大和に3千石を領した。その後徳川家康に従って関ヶ原の合戦にも参陣。その功にて備中等に1万4460石余を領し、備中総代官として備中・松山城に入って城の復興を行う。
小松姫(こまつひめ)
徳川四天王の一人・本多忠勝の長女。幼名・稲姫。徳川家康の養女となって真田信幸の妻となった 豊臣秀吉の命による政略結婚であったが、よく夫に仕え円満な日々をおくった 賢婦の誉れ高く徳川家の実体をよく夫に伝え、関ヶ原以後は江戸に長く滞在した
薦野頼俊(こもの よりとし)
????~????
別:里見氏 神五郎
父:里見義弘
 安房・里見氏一族。母の父薦野時盛の跡を継ぎ、安房・明星山城主となる。薦野氏は多々良氏末流。里見氏の下、知行2500石余を得るが、1614年主家改易後は水戸家徳川頼房に仕えた。一説にこの時、館山城開城に際して抵抗し、戦死したとも。
近藤和泉守(こんどういずみのかみ)
15??~15??
白河結城家臣。1570年、佐竹家に転仕し、佐竹東家義久の麾下に属した。
近藤対馬守(こんどうつしまのかみ)
15??~15??
白河結城家臣。南奥山際地方を領した。1570年、枝連衆と共に佐竹家に転仕し、東家義久の麾下に属す。1585年、屋敷山乱入禁止の制札を与えられた。
近藤豊後守(こんどうぶんごのかみ)
15??~15??
白河結城家臣。通称掃部助。1570年、佐竹家に転仕して東義久の麾下に属す。1574年、東義久から所領安堵を受けた。