歴史・人名
人名さ
- 佐竹義昭
- 1531~1565
別:徳寿丸 義従 右京大夫
父:佐竹大膳大夫義篤
室:岩城重隆女、大掾慶幹女
子:佐竹義重、南義尚(那須資綱)、小場義宗
常陸・佐竹氏当主。常陸・小田政治と共に、武蔵・江戸忠通と戦いこれを破る。相模・北条氏との戦いに敗れた上杉憲政が、家名と関東管領職を譲ることを条件に庇護を求めてきた時には、源氏姓を捨てたくないとの理由から辞退した。その為、憲政は越後・長尾景虎の下へ。1557年、小田氏治と協力して、宇都宮氏臣壬生綱雄を倒し、宇都宮広綱を宇都宮城に復帰させる。その後も結城氏、北条氏、那須氏等との戦いを繰り返した。若くして隠居後は府中城に移り、やがて病死。
- 佐竹義昭
- 1531~1565
別:徳寿丸 義従 右京大夫
父:佐竹大膳大夫義篤
室:岩城重隆女、大掾慶幹女
子:佐竹義重、南義尚(那須資綱)、小場義宗
常陸・佐竹氏当主。常陸・小田政治と共に、武蔵・江戸忠通と戦いこれを破る。相模・北条氏との戦いに敗れた上杉憲政が、家名と関東管領職を譲ることを条件に庇護を求めてきた時には、源氏姓を捨てたくないとの理由から辞退した。その為、憲政は越後・長尾景虎の下へ。1557年、小田氏治と協力して、宇都宮氏臣壬生綱雄を倒し、宇都宮広綱を宇都宮城に復帰させる。その後も結城氏、北条氏、那須氏等との戦いを繰り返した。若くして隠居後は府中城に移り、やがて病死。
- 佐竹義堅
- ????~????
別:源六郎 左近将監
父:佐竹政義
子:佐竹薩摩守義喬、佐竹義忠、佐竹義久
常陸・佐竹氏一族。他の一族衆義里や義廉と交代で、佐竹家政を執行。1566年、下野・那須資胤と高瀬に戦うが敗北、これに降伏した。
- 佐竹義堅
- ????~????
別:源六郎 左近将監
父:佐竹政義
子:佐竹薩摩守義喬、佐竹義忠、佐竹義久
常陸・佐竹氏一族。他の一族衆義里や義廉と交代で、佐竹家政を執行。1566年、下野・那須資胤と高瀬に戦うが敗北、これに降伏した。
- 佐竹義舜
- 文明2(1470)~永正14(1517)
父:佐竹義治
佐竹家第14代当主義治の子で佐竹家中興の祖とされる。父・義治の死亡により幼くして第15代当主となった。佐竹氏は12代義人の頃から同族の山入氏と争っており、13代義俊、14代義治は16年間もの間、太田城を追われていたこともある。 しかし、義舜は舅・岩城常隆の仲介で山入氏義と和睦することに成功した。 ところが平穏は長くは続かなかった。山入義藤、氏義父子が大軍を率いて居城・太田城に攻めてきたのである。義舜はこれを支えることができず、母の実家である大山氏のもとへ逃れ、大山城に入ったが、後により強固な孫根城へ移った。 明応9(1500)年には、山入勢が孫根城を攻め、落城させた。そのため義舜は、北の西金砂城に逃れ東金砂城の山入勢と戦った。永正元(1504)年、岩城常隆の援軍を得た義舜は太田城を取り戻し、永正3(1506)年には遂に山入城を陥落させ山入氏を滅ぼした。こうして、1世紀もの長きに渡って続いた山入氏との抗争に終止符が打たれたのである。 その後、義舜は佐竹家法二十三条を制定し、一門の結束の強化を図っている。永正14(1517)年、若年の嫡男・義篤を残して義舜は没したが、弟・義信、弟・政義、子・義里をはじめとする佐竹一門は義篤をよく支えた。この三家はそれぞれ本城との位置関係から北家、東家、南家と呼ばれ、戦国期を通じてその結束を保ち続けた。
┏━佐竹周義(今宮)
佐竹義治━╋━佐竹義舜━━━━━┳━佐竹永義(今宮)━━━佐竹光義━━━━━━┓
┣━佐竹義武(久米) ┃ ┃
┃ ┃ ┏━━━━━━━━━━━┛
┃ ┃ ┣━佐竹義通━━━佐竹義賢
┃ ┃ ┗━佐竹義僚━━━佐竹宣貞
┃ ┃
┃ ┣━佐竹義篤━━━━━┳━佐竹義昭━━━━━━┓
┃ ┣━佐竹義元(小場) ┗━佐竹義昌(小野崎) ┃
┃ ┣━佐竹義里(南家) ┃
┃ ┗━佐竹義康(古内) ┃
┃ ┃
┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┃ ┣━佐竹義重━━━━━┳━佐竹義宣
┃ ┃ ┣━佐竹義広(蘆名)
┃ ┃ ┣━佐竹貞隆(岩城)
┃ ┃ ┣━佐竹宣家(多賀谷)
┃ ┃ ┗━佐竹義直(北家)
┃ ┣━佐竹義尚(南家)━━━佐竹義種
┃ ┗━佐竹義宗(小場)━┳━佐竹義成
┃ ┣━佐竹義辰(石塚)
┃ ┗━佐竹宣忠
┃
┣━佐竹義信(北家)━┳━佐竹義住
┃ ┗━佐竹義廉━━━佐竹義斯━━━佐竹義憲━━━┓
┃ ┃
┃ ┏━━━━━━━━━┛
┃ ┗━佐竹義盛(小野岡)
┃
┗━佐竹政義(東家)━━━佐竹義堅━┳━佐竹義喬
┣━佐竹義忠(酒出)
┗━佐竹義久━━━━━━━━━━┓
┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┣━佐竹義賢━━━━━━━━佐竹義直
┣━佐竹宣宗(伊達)
┗━佐竹宣政(小野崎)━━━佐竹義長
- 佐竹義重
- 1547~1612
別:徳寿丸 次郎 義廉 常陸介
父:佐竹義昭
室:伊達晴宗女、那須政資女
子:佐竹義宣、蘆名義広、岩城貞隆、多賀谷宣家(岩城宣隆)、北彦次郎義直(義継)
16歳で常陸・佐竹氏当主となる。相模・北条氏との戦いで、敵7人を一時に斬り捨てたことから、"鬼義重"、"板東太郎"の異名で呼ばれる。常陸・小田氏治を圧倒して、窮地に追いやる。また、婚姻関係を元に、宇都宮氏、結城氏と組んで、相模・北条氏に対抗し、度々争った。一方、磐城・蘆名氏を援けて、陸前・伊達氏とも度々争っている。豊臣秀吉の小田原攻めでは、かねてから組んでいた秀吉に従い、奥州平定にも協力。関ヶ原の合戦の際は、子義宣を説得して家康方についたが、秋田に減封された。66歳で没、落馬の際の怪我が元とも。全然関係ないけど、かなり暑がりだったみたい。
- 佐竹義重
- 1547~1612
別:徳寿丸 次郎 義廉 常陸介
父:佐竹義昭
室:伊達晴宗女、那須政資女
子:佐竹義宣、蘆名義広、岩城貞隆、多賀谷宣家(岩城宣隆)、北彦次郎義直(義継)
16歳で常陸・佐竹氏当主となる。相模・北条氏との戦いで、敵7人を一時に斬り捨てたことから、"鬼義重"、"板東太郎"の異名で呼ばれる。常陸・小田氏治を圧倒して、窮地に追いやる。また、婚姻関係を元に、宇都宮氏、結城氏と組んで、相模・北条氏に対抗し、度々争った。一方、磐城・蘆名氏を援けて、陸前・伊達氏とも度々争っている。豊臣秀吉の小田原攻めでは、かねてから組んでいた秀吉に従い、奥州平定にも協力。関ヶ原の合戦の際は、子義宣を説得して家康方についたが、秋田に減封された。66歳で没、落馬の際の怪我が元とも。全然関係ないけど、かなり暑がりだったみたい。
- 佐竹義宣
- 1569~1633
別:徳寿丸 次郎 右京大夫 左中将
父:佐竹義重
室:那須資胤女、多賀谷重経女
子:綱川内記信道 養子:佐竹彦次郎義直(義継)、(岩城)左少将義隆
父の補佐を受けつつ家督を継ぎ常陸・佐竹氏当主となって、陸奥・伊達氏、相模・北条氏相手に戦う。小田原征伐の際は、石田三成の斡旋で豊臣秀吉の下に参陣、これに従った。この時秀吉から常陸所領安堵の朱印を得て、実質的にも常陸を平定する。1597年下野・宇都宮氏改易に連座しそうになるが、三成の斡旋でこれを逃れ、1599年武断派7将による三成暗殺未遂事件では、逆に義宣が駆けつけて三成の窮地を救った。その為関ヶ原の合戦では、これまでの友誼から西軍に付こうとしたが、父や家臣の猛反対を受け、板挟みとなって旗幟を鮮明にせず動かず、その責を問われて出羽・秋田18万石に転封される。
- 佐竹義宣
- 1569~1633
別:徳寿丸 次郎 右京大夫 左中将
父:佐竹義重
室:那須資胤女、多賀谷重経女
子:綱川内記信道 養子:佐竹彦次郎義直(義継)、(岩城)左少将義隆
父の補佐を受けつつ家督を継ぎ常陸・佐竹氏当主となって、陸奥・伊達氏、相模・北条氏相手に戦う。小田原征伐の際は、石田三成の斡旋で豊臣秀吉の下に参陣、これに従った。この時秀吉から常陸所領安堵の朱印を得て、実質的にも常陸を平定する。1597年下野・宇都宮氏改易に連座しそうになるが、三成の斡旋でこれを逃れ、1599年武断派7将による三成暗殺未遂事件では、逆に義宣が駆けつけて三成の窮地を救った。その為関ヶ原の合戦では、これまでの友誼から西軍に付こうとしたが、父や家臣の猛反対を受け、板挟みとなって旗幟を鮮明にせず動かず、その責を問われて出羽・秋田18万石に転封される。
- 佐竹義憲
- 1570~????
別:又七郎 左衛門督
父:佐竹左衛門督義斯
子:小野岡義盛
常陸・佐竹氏一族。当主義重の3男貞隆の岩城氏襲封の際にはこれに従い、岩城氏の家政を執行、検地を実施している。佐竹氏の秋田転封に際し、これに従い移った。
- 佐竹義憲
- 1570~????
別:又七郎 左衛門督
父:佐竹左衛門督義斯
子:小野岡義盛
常陸・佐竹氏一族。当主義重の3男貞隆の岩城氏襲封の際にはこれに従い、岩城氏の家政を執行、検地を実施している。佐竹氏の秋田転封に際し、これに従い移った。
- 佐竹義久
- ????~1601
別:源六郎 中務大輔
父:佐竹義堅
室:小野崎義昌女
子:大場権之助、佐竹義賢、酒出弥三郎、伊達左門宣宗、小野崎宣政、佐竹弥三郎
常陸・佐竹氏一族。東殿と呼ばれる。当主義重に従って各地を転戦。また、石田三成を通じて豊臣秀吉とも親しく、豊臣氏の代官も務めて秀吉から6万石与えられ、大名となる。関ヶ原の合戦では東軍方の布石として派遣されるが、翌年没。暗殺されたとも。
- 佐竹義久
- ????~1601
別:源六郎 中務大輔
父:佐竹義堅
室:小野崎義昌女
子:大場権之助、佐竹義賢、酒出弥三郎、伊達左門宣宗、小野崎宣政、佐竹弥三郎
常陸・佐竹氏一族。東殿と呼ばれる。当主義重に従って各地を転戦。また、石田三成を通じて豊臣秀吉とも親しく、豊臣氏の代官も務めて秀吉から6万石与えられ、大名となる。関ヶ原の合戦では東軍方の布石として派遣されるが、翌年没。暗殺されたとも。
- 佐藤好信
- 1511~1556
伊具郡小斎城主。相馬家臣。楢葉郡富岡城にいた岩城家臣であったが、相馬家の武勇を慕い富岡右京進、富岡美濃守らと共に相馬領へ来て相馬顕胤、相馬盛胤の二代に仕えた。草野直清、青田顕治の反乱鎮圧戦などで活躍し、軍奉行として優れ、数多くの功績を立てたが、桑折左馬之助の讒言に遭い、軍奉行職を解かれたうえ、所領を没収された。
- 佐藤勝信
- 15??~15??
佐藤為信の男。伊達家への投降に際し、人質として差し出された。
- 佐藤忠秀
- 15??~1579
佐藤忠量の男。官途は大隈守。白河結城義綱に仕官して、双石館を居館とした。智勇に優れ,伊達家との交渉に当たったほか、佐竹家との合戦では軍師役を務めた。1576年、佐竹家に奪われていた支城赤館城の奪回戦では軍団の総大将を務めた。佐藤忠秀は夜襲を決行し、一度は城の奪還に成功するが、後に再び佐竹家に大軍をもって奪われてしまう。佐竹家の攻勢で本拠の白河城が危機に陥った際、佐藤忠秀は全軍を撤退させ白河城を空城にし、佐竹勢が入ったところを大挙して押し寄せこれを撃破するという策を進言した。白河結城義親はそれを受け入れ、鶴生まで退いて譜代の将や郎党、土豪を集結させ、芦名家に後詰を求めた。しかし、城下が荒れるのを恐れた神社の神官や仏閣の僧侶が和平を嘆願し、入城した佐竹勢もそれを受け入れたため、策が実行されることはなかった。最後は合戦坂での佐竹勢との戦いで戸村和泉守他5名の首を討ち取ったが、後軍破れ討死した。
- 佐藤為信
- 15??~1591
佐藤好信の男。官途は紀伊守。通称左衛門。父佐藤好信が桑折左馬之助(郡左馬助)の讒によって失領し、さらにその領知は桑折に与えられた。1582年、佐藤為信は伊達勢に小斎城を攻められたが、援軍に来た桑折を殺害、息子佐藤勝信を人質とし、亘理元宗を介して伊達政宗に降伏した。その後も相馬戦などに活躍するが、1591年「佐沼城の戦い」で討死した。
- 真田昌幸
- 1547~1611?
別:源五郎 喜兵衛 安房守 弾正忠 武藤氏
父:真田幸隆
室:菊亭晴季養女、宇多頼忠女、遠山右馬介女?
子:真田信幸、真田信繁、真田信勝、真田昌親
甲斐・武田氏臣。父幸隆3男。当主信玄の母の出である武藤氏を継ぎ、足軽大将となる。1561年川中島の合戦が初陣。長篠の合戦において、信綱、昌輝両兄が戦死した為、復姓して信濃・上田城主となる。後に上野・沼田城も攻略。武田氏滅亡後は上野・箕輪、信濃・諏訪を領有する条件で徳川家康に臣従。しかし、家康が相模・北条氏と講和して、無断で上野・沼田領を割譲すると、家康と絶交。怒った家康の攻略を受けるが、寡兵にて撃退する。以後、羽柴秀吉に出仕し、上野・沼田を譲る代わりに伊那・箕輪を領有。北条氏滅亡後はその旧領も回復した。関ヶ原の合戦では、長男信幸を東軍につける一方で、自身は次男信繁と共に西軍に加担。上田城にて西上中の徳川秀忠軍3万8千を釘付けにする働きをみせた。しかし、西軍敗北に高野山に蟄居した。
- 真田幸隆
- 1513~1574
別:海野氏? 二郎三郎 小太郎 幸綱 一徳斎 弾正忠
父:真田右馬介頼昌?
室:海野棟綱女?、河原丹後守隆正妹
子:真田信綱、真田昌輝、真田昌幸、真田信尹、金井高勝
元海野氏か。海野氏は清和天皇末流が信濃に土着し豪族化したもの。1541年甲斐・武田、信濃・村上、諏訪氏らの連合軍に敗れ、上野・羽尾幸全の下に逃れ、その後、上野・長野業正を頼った。1543年武田氏に仕え、信濃・岩尾城代となった。武田氏の軍師格として、時には謀略を駆使して戦いを援けた。信玄生涯一度の敗戦上田原の戦いにおいても、味方が潰走する中一歩も退かず応戦したという。信玄死後、後を追うように信濃・砥石城で没。63歳。
- 真田幸昌
- 1602~1615
別:大介 信昌
父:真田信繁
14歳にて父信繁と共に、大坂夏の陣に参加。大坂落城時、脱出の勧めを断って、当主豊臣秀頼に殉じた。
- 沙也可さやか
- 加藤清正の家臣で文禄の役で朝鮮側に身を投じて活躍した降倭武将といわれる鉄砲を初めて朝鮮に伝えたほか数々の武功をたて、国王から金忠善の姓名を賜ったその後も女真族による甲子変・丙子胡乱にも活躍し、官位は正憲大夫(正二品)に達したしかし日本側に記録はなく、もともと日本人ではないという説や阿蘇宮越後守・岡本越後守・原田信種であるなど諸説があり不明
- 猿飛佐助
- 『立川文庫』に登場する架空の人物信州・鳥居峠に住む鷲塚佐太夫の息子甲賀忍者・戸沢白雲斎の教えを受けて技を受け継ぐその後真田幸村に出会い仕え神出鬼没の大活躍をしたことになっている豊臣と徳川に不穏な気配があったとき、幸村の命で清海入道と連れだって天下の情勢を窺うための諸国漫遊の旅に出る徳川家康のいる駿府城や徳川秀忠のいる江戸城に忍び込み徳川方の内情を探ったまた京都で石川五右衛門と術比べをした大坂夏の陣の後、幸村とともに薩摩に落ちた
- 三条ノ方
- 左大臣・三条公頼の娘。姉は菅領・細川晴元の妻。妹は本願寺顕如の妻武田信玄の正室となり、信玄の嫡男・武田義信を生んだとても嫉妬深く側室達をいじめたといわれるが、史実にはそのような事実はなかった