歴史・人名

人名と

問田隆盛(といだ たかもり)
????~1555
別:十郎 越中守 大蔵少輔
父:問田興之
 周防・大内氏重臣として石見守護代を務める。同じ重臣陶隆房が当主義隆に謀反した時はこれに従い、自刃に追い込んだ後は義長に仕える。その後、安芸・毛利氏に厳島に敗れて侵攻を受け、周防・富田にて自害した。
藤堂賢政(とうどう かたまさ)
????~????
別:浅井氏 喜之介 紀伊介 可政 政賢?
父:浅井吉政 養父:浅井盛政
室:藤堂孫八郎忠重女
子:藤堂利政
 近江・浅井氏庶流。幼少時に藤堂高虎に仕え、幼時より小姓を務め、長じては藤堂姓を許されて一族的待遇を受ける。大坂冬の陣には小姓組、夏の陣には赤母衣組として参陣。1631年には2千石を得ていたが、養父盛政が故あって藤堂家を出奔すると、同じく辞し、加賀・前田利常に仕えた。能を金春八郎安照、下間仲孝に学び、花崎左京より秘伝“道成寺三座無足”を受けたという。
藤堂高虎(とうどう たかとら)
1556~1630
別:与吉 与右衛門 佐渡守 和泉守
父:藤堂虎高
室:色修理大夫女、長越前守連久(高連)女
子:藤堂高次、高重 養子:藤堂(丹羽)高吉
 北近江・浅井氏に仕え軍功をあげる。浅井氏滅亡後は阿閉貞秀、磯野員昌、織田信澄に仕えた後、羽柴秀長、秀保に仕え各地を転戦活躍する。武略に秀でる一方で築城、算術、外交などにもその才を見せた。秀保死後は、豊臣秀吉の直臣となり、朝鮮出征に参加。秀吉死後は徳川方に属して、関ヶ原の戦い、大坂の陣にも参加して所領を増やした。
遠山綱景(とおやま つなかげ)
????~1564 
○直景? 甲斐守 丹波守
◇父:遠山直景 弟:遠山直親?直次? 子:遠山政景
 相模・北条氏臣。江戸衆筆頭として江戸城代を務めた。風流を解し、1544年には江戸城で連歌の会を開いている。第2次国府台合戦において太田康資と戦い討死。
遠山景遠の妻(とおやまかげとおのつま)
織田信長の叔母。名は正確には伝わっていない。東美濃・岩村城主・遠山景任の妻となる 景任が戦の傷がもとで病死した後、信長の五男・御坊丸を養子として向かえた しかし武田家の臣・秋山信友に攻められ自分が妻になることで降伏する。後に織田信忠に攻められ降伏 信長の命で信友とともに逆さ磔となった
土岐為頼(とき ためより)
1523~1583
○頼定? 弾正小弼
◇父:土岐頼元(頼房)? 子:土岐右京大夫頼春、頼実
 父祖は美濃・土岐氏一族というが、安房・里見義堯の義父として、その一翼を担う。上総・万喜城主。1542年相模・北条氏に内応を求められるが、これを断り、逆にこれに応じた真里谷信政を攻略に参陣している。しかし1564年第2次国府台合戦後、北条氏に仕えたことから、里見氏に攻められるが、要害を生かして守り通した。
土岐則基(とき のりもと)
????~1578
○大和之介
◇子:高田善助則忠
 津軽・浪岡氏臣。浪岡氏はすでに南部氏に従っており、石川高信による三代主水の乱鎮圧に参陣して功を得て、知行800石の高田館主となる。南部氏から独立した大浦為信によって浪岡氏が滅亡すると、運命を共にした。
土岐治英(とき はるひで)
????~1584
○原氏 大膳大夫
◇父:原治頼 子:土岐美作守治綱、胤倫
 常陸・原氏一族。原氏は美濃土岐氏庶流で、美濃土岐氏滅亡の頃から土岐氏を名乗ったという。これまで支援を受けていた関東管領・上杉憲政が越後に逃れると、相模・北条氏と結んで、北の佐竹氏に対抗すると共に、仇敵小田氏治氏とも結んだ。
土岐政頼(とき まさより)
1499~1547
○二郎 左衛門尉 盛頼 頼純 美濃守
◇父:土岐政房
 第10代美濃守護職に就く。しかし、弟頼芸と対立し、その家臣西村勘九郎(斎藤道三)の攻撃を受け、越前・朝倉氏の元に身を寄せた。その後、朝倉氏の援護を受け美濃に侵攻するが果たせなかった。後に美濃・大桑城に迎えられるが死去。毒殺とも。
土岐頼芸(とき よりあき)
1502~1582
○二郎 左京大夫 美濃守
◇父:土岐政房 室:六角定頼女、一色義清女 子:土岐頼栄、頼次、頼宗、頼元、頼勝、頼昌
 美濃・土岐氏一族。西村勘九郎(斎藤道三)に擁立されて、当主の兄政頼を逐い11代守護となる。しかしやがて自身も道三に逐われて、一度は和解して帰国するも再度追放。以後越前、甲斐、上総を流浪。最後は斎藤氏の滅びた美濃に戻り死去。
土岐頼香(とき よりか?)
????~1544
◇父:土岐政房 室:斎藤道三女
 美濃守護・土岐氏一族。1544年尾張・織田信秀と戦いの中、無動寺にて舅斎藤道三の意を受けた松原源吾に討たれた。
土岐頼次(とき よりつぐ)
1545~1614
○太郎法師丸 二郎 左馬助 頼師 宗卜
◇父:土岐頼芸 子:斎藤頼吉、土岐頼勝、頼高、頼泰
 美濃守護土岐頼芸二男。兄頼栄が父と不和となって廃嫡された為、嫡子となる。父と共に、家臣西村勘九郎(斎藤道三)に国外追放され、大和・松永久秀に仕える。1587年豊臣秀吉に馬廻衆として仕えて、河内に500石得る。関ヶ原合戦後、徳川家康に仕えて所領安堵された。
土岐頼栄(とき よりひで)
????~????
○猪法師丸 小次郎 頼秀 宮内少輔
◇父:土岐頼芸 室:稲葉一鉄女 子:土岐光義、昭頼、頼長、栄興
 美濃・土岐氏一族。西村勘九郎(斎藤道三)の讒言等から父と不和となり、叔父揖斐光親らと結んで争う。これは尾張・織田信秀の尽力で和解するが、後に廃嫡された。
土岐頼満(とき よりみつ)
????~????
○七郎 頼充
◇父:土岐政房 室:斎藤道三女
 美濃守護・土岐氏一族。土岐氏弱体化を狙う舅斎藤道三に、宴に誘われ毒殺された。
土岐頼元(とき よりもと)
1549~1608
○五郎左衛門 頼重 道庵 越前守
◇父:土岐頼芸 子:土岐持益
 美濃守護・土岐氏一族。父頼芸が逐われた後も美濃に残り、斎藤家に従う。斎藤氏滅亡後は甲斐・武田氏、さらに羽柴氏、徳川氏に仕えた。
常葉清重(ときわきよしげ)
15??~15??
常葉光貞の男。官途は伊賀守。1544年、大越顕光と共に石川家と田村家の和解に努力することを約している。常葉清重は『奥陽仙道表鑑』に、橋本とともに芦名、二階堂両家の田村郡侵入を撃退した武将として記されている。
常葉貞之(ときわさだゆき)
15??~15??
常盤館主。官途は甲斐守。天正年間に田村清顕に仕えたが、相馬義胤に討滅された。常葉光貞、常葉清重との関係は不明。
常葉光貞(ときわみつさだ)
15??~15??
田村家臣。官途は摂津守。
得居通年(とくい みちとし)
????~????
○来島村上氏 太郎左衛門 半右衛門 通之
◇父:来島通康
 来島通康の嫡男。土居、得能両氏の子孫であったことから得居氏を名乗る。水軍を率いて伊予・河野氏に仕えたが、羽柴秀吉の四国侵攻の際これに降る。朝鮮出征の時水軍を率いて出陣するが、慶長の役で朝鮮・鳴梁において戦死。後嗣なく所領は没収された。
徳川和子(とくがわ まさこ)
別:東福門院
後水尾天皇の中宮。徳川秀忠の八女または五女といわれる。院号は東福院門 十四歳で入内し、のちの明正天皇となる皇女を生んだが、2皇子はすべて早世する のちに夫と別の女性との間に生まれた後光明天皇を養子として明正天皇の後継者とした その後、夫・後水尾天皇と対立する実家の江戸幕府の間を取り持つことに奔走する 後光明天皇の崩御直後、その弟の即位を渋った幕府を説得して、後西天皇即位を実現させたといわれる 文化的にも貢献し、宮中に小袖着用の習慣を持ち込み、のちに「寛文小袖」と言われるようになった また押絵を得意とし、和子作の日本現存最古の押絵が現存している
徳姫(とくひめ)
織田信長の娘。幼名・五徳。母は側室の生駒氏で織田信忠と同腹 徳川家康の同盟時に家康の嫡男・徳川信康の妻となり二女を産んだ 姑・築山殿との確執から父・信長に夫と姑の不満を書いた手紙により、築山殿は殺害され信康は自刃した これは彼女の書状を利用した信長の策略とも考えられているが定かではない その後一時実家に戻ったが、小牧・長久手の陣後の講和の際、徳川方の人質として織田信雄から羽柴秀吉のもとに送られた のちに兄・信雄に養われ、信雄失脚後は家康に養われた、晩年は京で過ごし七十八歳で没した
戸波親清(となみ ちかきよ)
????~????
○十兵衛 又兵衛 与三兵衛 主水 貞之 親吉
◇父:戸波右兵衛親武
 土佐・長宗我部氏一族。当主元親、盛親に仕えて、諸戦に活躍。大坂の陣にて、盛親が大坂入城にも従う。夏の陣では、徳川方藤堂高虎の軍と戦う。敗戦後、盛親を守って潜行するが、発見されるところとなった。1626年近衛信尋の推挙で高虎に臣従、150石領有。伊賀・荒木又右衛門が仇討の際に、刀を折った事を批判して、これを聞いた又右衛門に師事されたという。
富岡隆時(とみおかたかとき)
15??~15??
岩城由隆の弟。岩城家臣。
富岡隆宗(とみおかたかむね)
15??~15??
富岡隆時の男。1547年、伊達家の竹貫城攻めに対して城を守った。
富田隆実(とみた たかざね)
1569?~???? 
○将監
◇父:富田美作守氏実 弟:佐瀬常雄、富田実積
 磐城・蘆名氏のいわゆる蘆名四天の宿老の1人。1589年、陸前・伊達氏との摺上原の合戦において、他の宿老や父美作らが、所領安堵を条件等に裏切る中、蘆名側に忠誠を尽くして参陣。伊達方の猪苗代盛国、原田宗時、片倉景綱らを撃ち破る活躍を見せた。戦後は常陸に流亡したといわれる。
富田長繁(とみた ながしげ)
1552~1575
○弥六郎 弥太郎 長秀
 越前・朝倉臣にて府中城主。尾張・織田氏との戦いでは織田氏に内通し、主家が滅ぼされた後これに仕えた。一向一揆征伐に活躍したが、他の寝返り組の旧朝倉の臣の中で冷遇された為、逆に一向一揆と結んで彼らを滅ぼすが、これで人望を失う。その後、長繁自身も一向一揆との戦いの中、寝返った味方に背後より鉄砲で撃たれた。
とも(とも)
別:日秀
豊臣秀吉の同腹の姉。豊臣秀次の母。三好吉房に嫁いだ 豊臣秀次・秀勝・秀保を生んだ 弟の秀吉に自害させられた秀次の供養のために瑞龍寺を建立。剃髪して日秀と号す 北政所が没した翌年に九十三歳で亡くなった