歴史・人名

人名も

毛利興元(もうり おきもと) 1492~1516
○幸千代丸 治部少輔
◇父:毛利弘元 室:高橋久光女 子:毛利幸松丸
 安芸・毛利氏当主。周防・大内氏に従い、山陽道を中心に奮戦したが、酒の害にて25歳の若さで病死した。 毛利隆景(もうり たかかげ) 1533~1597→小早川隆景 毛利隆元(もうり たかもと) 1523~1563 
○少輔太郎 備中守 大膳大夫
◇父:毛利元就 室:大内義隆養女(内藤興盛女) 子:毛利輝元、徳鶴丸
 幼少時は、周防・大内氏の下で人質として過ごした。父元就から家督を譲られ安芸・毛利氏当主となる。特に内政に抜群の手腕を持ち、温和な人柄で家中の信望厚かった。あまりの性格の優しさに、元就が一国を託すに不安を抱いた程の、戦国武将らしからぬ善人であった。各地を転戦するが、出雲・尼子氏攻略に向かう途上、備後・和智城主和智誠春に招かれ、食事の歓待を受けた後、急に苦しみだし亡くなった。毒殺ともいわれ、元就は悲しみの余り、誠春を含め疑わしい家臣を皆誅した程だという。

毛利輝元(もうり てるもと) 1553~1625
○幸鶴丸 少輔太郎 右衛門督 右馬頭 侍従 参議 権中納言
◇父:毛利隆元 室:宍戸隆家女、児玉元良女、羽根元泰女、井上就正女 子:毛利右近衛権少将秀就、日向守就隆
 父の死後、安芸・毛利氏当主となるが若年の為、祖父元就、その死後は吉川元春、小早川隆景の両叔父“両川”の後見を受けるが、凡庸な武将であったという。羽柴(豊臣)秀吉と講和して以後は、秀吉に従い、朝鮮出兵では大将として渡海、豊臣家の五大老の一人に列せられた。関ヶ原の戦いでは石田三成や安国寺恵瓊に担がれて、西軍の総帥格になった。合戦では積極的には出なかったが、責任を取らされて防長2国に減封となった。

毛利元秋(もうり もとあき) 1552~1585→椙杜元秋 毛利元清(もうり もときよ) 1551~1597→穂田元清 毛利元綱(もうり もとつな) ????~????→相合元綱 毛利元倶(もうり もととも) 1555~1571→出羽元倶 毛利元就(もうり もとなり) 1497~1571 
○松寿丸 少輔次郎 治部少輔 右馬頭 陸奥守
◇父:毛利弘元 室:吉川国経女、乃美安芸守隆興女、三吉隆亮女
 兄、及びその子の死により安芸・毛利氏当主となる。長門・大内氏、出雲・尼子氏の二大勢力に挟まれ苦しむが、巧みな外交で乗り切り、謀略を駆使して両者共打ち倒して安芸の小領主から中国の覇者となる。さらに九州にも進出し、豊後・大友氏とも度々争った。一族の団結を図った“三本の矢”の教訓の逸話は有名である。 毛利元春(もうり もとはる) 1530~1586→吉川元春 毛利元総(もうり もとふさ) 1567~1601→小早川秀包 毛利元政(もうり もとまさ) 1559~1609→天野元政 毛利元康(もうり もとやす) 1560~1601→末次元康