歴史・人名

人名わ

和田昭為(わだ あきため)
????~????
別:掃部助 安房守
父:和田豊前守
 常陸・佐竹氏臣。一時、佐竹氏に背いて白河結城氏に属する。しかし、当主義重の白河城攻略に貢献して帰参を許される。以降重用され、文禄の役の時には国元の留守居を命じられる。佐竹氏の秋田転封にも従う。
和田惟政(わだ これまさ)
1532~1571
別:伊賀守
父:和田惟助
子:和田伝右衛門惟長
 和田氏は南近江の甲賀二十一家、南山六家に数えられた名族。将軍足利義輝に仕え、義輝が摂津・三好氏に襲われ討死後は、京を逃れたその弟義昭に仕え庇護し、上洛の為奔走する。その結果、義昭は織田信長の下上洛し、惟政は信長からも重用されたが、やがて義昭が信長と不和になると、義昭を守って戦う。信長の部将荒木村重の軍に攻撃され、勇戦するが捕らえられ殺された。  弟:和田定利、定教
和田通興(わだ みちおき)
????~1554
子:和田河内守吉盛
 東予・河野氏臣。伊予・岩伽羅城主。次第に勢力を伸ばしていき、河野氏に従わなくなっていった。その為、当主通宣は平岡房実に命じて通興を鎮圧させたので、落城して敗走し山之内で自害して果てた。
亘理宗根(わたり むねもと)
1600~1669
別:茂庭氏 又次郎 右近 伯耆守
父:茂庭延元?伊達政宗? 養父・亘理重宗
室:亘理重宗
出羽・伊達氏一族。陸奥・佐沼城主。羽柴秀吉が茂庭延元に与えた高田次郎右衛門女(香の前)が母。しかし、香の前はその後当主政宗に差し出され愛妾となり、政宗落胤との説がある。大坂夏の陣で大野治長の武将・中川隼人の首を獲り、功を得る。亘理重宗の子亘理定宗(伊達定宗)が復姓し、伊達氏を称した為、亘理氏を継いだ。
亘理家臣団(わたりけかしんだん)
菱沼時久、坂本俊常、村岡胤信、亘理盛景、山寺蔵人盛純、寺内丹後守、小泉主膳繁、米谷下総延常、大塚蔵人、鷲足主水清久、遠藤半内良知、宍戸刑部方則、星與三左衛門玄親、鈴木七郎左衛門義久、上野善九郎延命、斎源内胤行、粟野右近易意、糠田内膳、大塚甚助、砂金藤四郎、西山源兵衛、安部善四郎、足立刑部、佐藤次郎右衛門、松浦助六郎、遠藤四郎左衛門、猪俣彦右衛門濁清、鈴木九郎左衛門豊住、岡崎彦六郎、大村豊後守、高野本太郎知久、門間助九郎、萱野甚四郎、條又十郎友成。
亘理重元(わたりしげもと)
1552~1620
亘理元宗の男。
亘理宗隆(わたりぬねたか)
1493~1556
亘理宗元の男。亘理宗隆には嫡男がなく、伊達稙宗と一人娘(天窓慶普信女)の間に生まれた彦四郎(綱宗)と乙松丸(元宗)を養子に迎え、伊達稙宗は涌澤弾正、千石大炊助を兄弟につけて送り遣わした。1544年、亘理綱宗が、亘理宗隆の家督を継ぐ前の「天文の大乱」の掛田の役にて討死を遂げたため、その実弟の乙松丸(元宗)が亘理家を継ぐこととなった。
亘理宗元(わたりむねもと)
1472~1531
亘理郡亘理城主。亘理元胤の男。兄亘理元実が早世していたことから、亘理家の家督を継承した。伊達家との戦いに敗れて麾下に加わっていたが、その後は伊達家から離反し抗争を続けていた。亘理宗元の代にふたたび伊達家の麾下に加わった。