歴史・人名

伊勢大輔

伊勢大輔

いせの おおすけ
 998?~1062?
父:大中臣輔親 (おおなかとみのすけちか)の次女
母:不明
室:夫:高階成順(たかしなのなりのぶ)
子:康資王母、筑前乳母、源兼俊母

生没年未詳。
「いせのたゆう」ともよむ。
父が伊勢の祭主で神祇官の大輔だったため、この名がある。
平安中期の女流歌人中古三十六歌仙、三才女の一人。
大中臣輔親 (おおなかとみのすけちか) ,祖父大中臣能宣 (よしのぶ) ,曾祖父大中臣頼基 (よりもと) もすぐれた歌人。
高階成順 (たかしなのなりのぶ) と結婚,歌人康資王母 (やすすけおうのはは) ,筑前乳母,源兼俊母らの優れた歌人をもうけた。
寛弘5 (1008) 年頃20歳前後で一条天皇中宮上東門院彰子 (しょうし)(藤原彰子) のもとに出仕、紫式部・和泉式部,赤染衛門,源経信らと親交を結んだ。
奈良の僧に献上された八重桜の取入役を紫式部に譲られ,即興で〈いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな〉と詠んで,一躍歌才を認められた逸話は有名。
趣向や修辞を凝らした伝統的な歌風で知られ,藤原頼通の時代には永承4(1049)年内裏歌合など多くの歌合に出詠。ながく後宮歌壇の中心として活躍,寛弘5年前後成立の『後十五番歌合』から康平3 (60) 年志賀僧正九十賀の祝歌に及び「後拾遺和歌集」以下の勅撰集に51首入集。。大中臣家の和歌の伝統を子孫に伝えた。
家集に雑纂(ざっさん)、類纂大別2種の『伊勢大輔集』がある。
温厚な人柄から一時、貞仁(さだひと)親王(白河天皇)の傅育(ふいく)を嘱されたこともある。
上東門院彰子の側近として、1032年(長元5)上東門院菊合(きくあわせ)より1056年(天喜4)に至る公私の歌合に活躍、多くの賀歌、屏風歌(びょうぶうた)を残した。歌風は縁語、懸詞(かけことば)を駆使した技巧に特色がある。
1060年(康平3)志賀僧正90歳の賀歌を最後に、康平5年?死去。


大中臣頼基━━━大中臣能宣━┳━大中臣輔親━┳━輔隆
              ┣━輔長    ┣━伊勢大輔━┳━康資王母
              ┣━輔?    ┗━守孝   ┣━筑前乳母
              ┣━宣理           ┗━源兼俊母
              ┗━娘(源兼澄室)


中臣氏