歴史・人名

伊土戦争

伊土戦争 ( 1911.09 年 - 1912.10 年 )関連概念 : 現イタリア 現トルコ アフリカ 中東
イタリア オスマン帝国

フランスによるチュニジア保護国化など、ヨーロッパ列強の「アフリカ分割」に際して,イタリアが、トルコ支配下の___と___を要求した結果おきた戦争で、別称___戦争。

【背景・イタリア=ナショナリズムの高揚】

1896年のエチオピアにおける___の戦い(第1次エチオピア戦争)での敗北以後,イタリアは,1898年の中国遠征と___とイタリア領ソマリーランドの経済開発を除いて,植民地活動には消極的であった。

しかし,1901年に「ナショナリスト協会」が結成され,その指導者であるエンリコ=コラディーニやルイジ=フェデルゾーニは、領土拡張主義・反民主主義・全体主義の理論を主張した。
こうしたナショナリストの運動もあって,イタリア民族にとって、北アフリカ進出を成功させることが、国家の威信と力を回復する道であるとして,トリポリタニアにある「トルコ保護領」の奪取が、一般的感情として広く国民のあいだにひろがっていったのだ。

ジョリッティ首相は,外国との紛争を回避することを考えていたが,国民の一般的感情を無視することができずに,青年トルコ党革命・第1次モロッコ事件などにも触発され,___・___を奪取する決意を固め,挑発によってトルコとの衝突事件をおこし,1911年9月に対トルコ戦を開始した。

【イタリア=トルコ戦争】

イタリア軍は、トリポリ・トブルク・ベンガジの沿岸諸都市を開戦早々に占領し,トリポリタニアとキレナイカの2地域をあわせて、___という名称にした。

1911年11月,「リビア併合」を宣言したが,キリスト教国の侵略を阻止しようとする現地住民のゲリラ的な抵抗とトルコ軍の反撃のために,イタリア軍にとって,戦局の展開ははかばかしくなかった。
そこでイタリア軍は,1912年春に、トルコ軍の海路を断とうとしてエーゲ海のトルコ諸島に戦線を拡大して,ドデカネーズ諸島を占領した。
トルコはダーダネルス海峡をへる海路を断たれて苦境にたたされ,さらにバルカン半島における権益も脅かされてイタリアの要求に屈した。

【講和会議】

1912年10月,___平和条約(別名ウーシィ和平条約)で、___・___に対するイタリアの支配権が確立された。
他方,これらの地域の旧統治者であるスルタンは、住民との精神的なつながりを維持することだけが認められた。

【イタリア=トルコ戦争その後】

イタリアは,戦争には勝ったものの,多額の費用を投入したため、経済に大きな傷跡を残した。
___(黄金郷)と宣伝されたリビアの地は、実際には「不毛の砂漠」であり,北アフリカとの貿易もほとんど増大しなかった。

その結果,イタリア=トルコ戦争は、イタリアの政治・経済・文化のすべての領域に大きな波紋を投げ,ジョリッティ体制の基盤を大きく揺り動かすことになったのだった。

【イタリア選挙法改正】

ジョリッティは,社会党からこの植民地戦争に対する反戦運動がおこることを予想して,社会党の懐柔を目的とする「選挙法の改正」を行った。

戦争中、1912年6月に成立した新選挙法は,30歳以上の男子のすべてに選挙権を与え,21~29歳の男子には、これまで通り一定の納税額をこえるか徴兵義務を終えた者に選挙権資格を認めた。

【イタリア社会党の新しい風】

この植民地戦争に対して,社会党主流は形ばかりのゼネストで抗議を表明しただけで,政府との協力の姿勢は崩さなかったため、社会党内の左派は党指導部に対する不満を強め,1912年7月の第13回大会では左派が多数派を占めた。

この大会で___が、帝国主義的植民地戦争としてイタリア=トルコ戦争を激しく非難し,はなばなしく登場したのである。

彼が「戦闘的ファッショ」を結成するのは1919年のことであった。

【イタリア=トルコ戦争の意義】

といっても,この植民地戦争において,社会党左派を除けば、国内世論は戦争熱にわきたっており,「移民のための土地確保」を主張するナショナリストやサンディカリスト、この戦いを一種の十字軍とみて積極的に支持したカトリックにいたるまで,多方面の支持を得た。

とりわけ,教皇庁と結びつくカトリック系の「ローマ銀行」は、この植民地戦争の経済的側面で関係しており,これが、イタリア王国のローマ教皇領併合以来つづいていた「イタリア国家」と「カトリック教会」の対立を緩和させる状況をつくり出したことは見落してはならない。

なお,イタリアは,1912年10月以後第二次世界大戦末期までリビア植民地の支配をつづける。