歴史・人名

佐々木満信

佐々木京極満信

佐々木京極家の第2代目は京極家初代・氏信(対馬守、近江守)の三男・佐々木京極満信であるが、満信の供養塔(宝篋印塔)が清瀧寺京極家墓所にはなかった。氏信の長男・頼氏は豊後守を、次男・範綱は左衛門尉に任じたが早世、三男・満信は左衛門尉・佐渡守を、四男の宗綱は左衛門尉・能登守をそれぞれ任じたが、京極三郎左衛門尉の官職名で京極を継いだ三男の満信は34歳で早世した。そのため、京極宗家はいったん四男の宗綱が継いだとする記述があるが、結局は満信の嫡男・宗氏(佐渡守・賢親)が父の官職・京極三郎左衛門尉・佐渡守を継ぎ、叔父・宗綱の娘を娶る(この時代、京極家は佐々木庶流どうしで姻戚関係を築き、結束を固めている)。ちなみに、満信の次男・宗満は近江伊香郡黒田邑を本拠にして別家・佐々木黒田家を立てる(子孫の7代目が黒田官兵衛とされるが、家紋が違い定かではない)。宗氏の嫡男・貞氏(近江守・善観)は近江蒲生郡鏡庄を本拠にして左衛門尉・近江守を任じ別家・佐々木鏡家を立て独立する。そのため、次男・高氏(佐渡判官・道誉)が祖父・父と同じ京極四郎左衛門尉・佐渡守の官職名(京極家世襲官途名)で京極宗家を継ぐことになる。

 清瀧寺京極家墓所や某歴史解説では、京極宗家の第2代目を四男の宗綱とし、満信の嫡男・宗氏および孫・高氏を宗綱の養子としながらも、結局京極宗家の3代目は満信の嫡男・宗氏、4代目は満信の孫・高氏が継いでいる。このように、満信の子、孫が父の左衛門尉・佐渡守の官職名(京極家嫡流の世襲官途名)で京極宗家を継いでいるにもかかわらず、満信の墓石(宝篋印塔)が清瀧寺京極家墓所に集められておらず、満信が京極宗家の第2代目として扱われていないのは何故か。家督を継ぐ前に(親・氏信よりも早く)34歳で早世したためなのか、あるいは四男・宗綱の母が将軍家女房右衛門督(公家・阿野実遠娘、源頼朝弟のひ孫)であったことが権力迎合の見栄およびひいき感情や圧力として家督あるいは歴史記述に関係したためなのか、あるいはそれらにおいて江戸時代に歴代当主の墓石(宝篋印塔)を集め清瀧寺京極家墓所を再構築した丸亀藩主高豊らの偏見があったためなのか、疑問が残る。(事実、このような歴史の書き換えは、佐佐貴神社の神紋が宇多源氏、佐々木源氏の宗家本来の家紋「隅四ツ目結」から神社を再建した丸亀藩主京極家の家紋「七つ割平四ツ目結」に替えられていることからも推察できる。)

 満信から5代あとの高数が病弱だった兄・高光の死後、嫡男の持高が幼かったため後見となって宗家を守ったように、宗綱も兄・満信が34歳で早世したため若い嫡男の宗氏ならびにその子(孫)の高氏の後見となって宗家を守ったとする方が無理のない解釈かもしれない。

 また、もう1つ考えられることは、清瀧寺京極家墓所には、血のつながりを主に墓石を集めたのではなく、単に宗家になったとされる家の墓石を順番に集めただけのことなのかもしれない。(一部、そうでないものも存在するが・・・)

 長岡城は、満信がこの地に居を構え築城したのが始まりで、その子孫・高数が加賀氏を名乗ってここに住んだことから加賀屋敷ともいうが、現在、城遺跡は全く見当たらず、城域は米原市と合併する前の旧山東町の中心地にあったという。満信の法名は「東福寺殿」と号し、東福寺を菩提寺としたが、天正の兵火により焼失し、現在、集落の中の御領所という字内に、寺とは思えぬプレハブ造りの東福寺(阿弥陀堂)や東福寺遺跡の石碑、多数の五輪塔や古墓が点在している。その中でも東福寺前の宝篋印塔は京極家2代目・満信の墓だと云われており、清瀧寺徳源院・京極家墓所の宝篋印塔と同等以上の大きなものである。また、東福寺の西側にある西福禅寺には2基の宝篋印塔と多数の五輪塔が無縁墓として集められている。
 応仁の乱に端を発し、35年にわたる京極騒乱、そして信長、秀吉、家康による戦国の世における侵攻と、常に戦場と化し天下分け目の歴史を変える拠点となった地だけに、荒んだ戦国時代の痕跡は今も痛々しい。