歴史・人名

倭と日本(Historical)

九州王朝(Historical)

5.倭と日本

さて、ここまで、中国史料の「倭」関連記事を、近畿天皇家から「切り離す」作業を行ってきた。だが、推古紀に見えるように、近畿天皇家は、隋→唐の時代において、独自に中国側と結んできた。この事実が明らかになってきたのである。そして、中国側史料においても、近畿天皇家が、堂々と、正式な記録として残される、そういう状況に来た。それが『旧唐書』である。

ここで、夷蛮伝において、初めて、「倭国伝」と「日本伝」に分かたれたのである。

まず、「倭国伝」から見よう。

   倭国は古の倭奴国なり。京師を去ること一万四千里。新羅東南の大海の中に在り。山島に依って居す。東西五月行、南北三月行。世々中国と通ず。旧唐書、倭国伝

ここに見えるように、倭国はかつて、「倭奴国」といい、「山島に依って居」し、「東西五月行、南北三月行」という。明らかに、ここまでの、「後漢書」→「三国志」→「隋書」を踏まえて、各書の伝えてきた「倭国」を継承して、『旧唐書倭国伝は語られている。ついで、「倭国」の2回の貢献年次が挙げられている。

   (1)貞観五年(631)、使を遣わして方物を献ず。太宗其の道の遠きを矜み、所司に勅して、歳ごとに貢せしむる無し。又、新州の刺使高表仁を遣わし、節を持して往いて之を撫せしむ。表仁、綏遠の才無く、王子と礼を争い、朝命を宣べずして還る。
   (2)二十二年に至り、又、新羅に附し表を奉じて、以って起居を通ず。

(1)の時期は、舒明三年にあたる。舒明紀には以下のような外交記事が、存在する。

   (舒明二年)犬上三田耜らを唐に遣わす。
   (舒明四年)唐、高表仁らを遣わし、三田耜を送る。
   (舒明五年)高表仁ら、唐に帰国。

このように、一見似たような事象が見える。だが、内実はまったく異なる。倭国伝では、「表仁、綏遠の才無く、王子と礼を争い…」とあるように、高表仁は、使節としての任務をまっとうできなかった。一方、舒明紀では、違う。舒明天皇らと高表仁とは、すこぶる仲が良いのだ。従って、両者は別事件である。無論、高表仁が、近畿天皇家のもとを訪問した、その事実は正しいのであろう。だが、それは、「正史」たる旧唐書には未だ載せられていないのである。

(2)の記事はより明快だ。唐の貞観二十二年は孝徳の大化四年に当たる。だが、書紀には、遣唐使派遣の記事などない。さらに、天皇家が、「新羅に附し」て唐と交渉を行った形跡など皆無である。したがって、『旧唐書倭国伝の「倭」は近畿の天皇家ではない。

次に「日本伝」を見よう。まずは朝貢記事を見よう。

    長安三年(703)、其の大臣朝臣真人、来りて方物を献ず。

ここで注目されるのは、使節の名前だ。『続日本紀』の遣唐使・粟田朝臣真人の名がそのまま現れている。今までのような、「当て字」や「訛伝」「誤伝」など一切無い。まさに、日本側の人名そのものが、ハッキリとあらわれている。また、年代も一致している。同様に、「日本伝」における使者の人名、年次ともに、『続日本紀』という国内文献とズバリ一致するようになるのだ。この一致について、われわれは、いくら注目してもし足りぬことはないであろう。「一致する」とは、まさにこういうことなのである。

さて、「日本伝」には、日本国の成立について、以下のように述べられている。

   (A)日本国は倭国の別種なり。
   (B)其の国、日辺に在るを以って、故に日本を以って名と為す。
   (C)或は曰く「倭国自ら其の名の雅ならざるを悪み、改めて日本と為す」と。
   (D)或は云う「日本は旧小国、倭国の地を併せたり」と。

(A)において、「倭国」とは、この「日本伝」の前にある「倭国伝」の「倭国」を指している。九州王朝である。今言う「日本国」とは、その倭国の別種だ、と言っている。(C)では、理由はともあれ、「倭国」自らが「日本」を称したのだと言っている。(D)では、「日本」すなわち「日本伝」の対象たる「天皇家の日本」は、「倭国」を併合したのだと言っている。以上をまとめると、次のようだ。

   「倭奴国」から「多利思北孤」に至る九州王朝の「倭国」が連綿と存在した。
   その「倭国」が自ら「日本」を称した。
   近畿大和の一豪族だった天皇家が、これを征服し、併合した。
   そのとき、天皇家は、「日本」の国号を継承し、やはり「日本」と名乗った。

このような歴史が語られているのである。

旧唐書』では、「倭国伝」と「日本伝」でそれぞれ、その国の境界が述べられている。それを示そう。
倭国

   四面に小島、五十余国有り。皆焉れに附属す。

これは、九州である。四面に小島とは、まさに九州である。
日本

   又云う「其の国の界、東西南北各々数千里有り。西界南界は咸な大海に至り、東界北界は大山有りて限りを為し、山外は即ち毛人の国なり」と。

西と南は海に達し、東と北は山に達す。このような地理は、まさに本州であろう。ともあれ、両国は別々の領域を持った別国である。