歴史・人名

倭人と日本人

倭人と日本人

       2009.07.04
         はじめに
        日本古代史関係の著書・論考をみていると、基本的に、その初めから、研究の進め方や言語の使い方が間違っているのではないか、と思うことがままある。その例として、倭人と日本人、倭国と日本国がきちんと区別されずに使用されていること、「邪馬台国」という字が無批判に使用されていることなどが挙げられる。
         日本人はかつて倭人と呼ばれていたが、倭国が日本国と改名したことにより、単純に倭人が日本人となったと思っている人が多いのは事実だし、またそのことに微塵の疑問も感じていない人がほとんどだといってよい。私もかつてはそう思っていたし、そのことに疑問を感じることもなかった。しかし遺伝子研究が進んだ今は事情が少し異なる。倭人が日本人になったと考えていると、歴史を見誤ってしまう時代になったのである。
         ある資料から一つの説を唱えることは、別に悪いことでもなんでもない。研究者としては当然のことである。しかしその論証に偽りがあってはならない。「偽り」というと語弊があるかもしれないので、言い換えると「歴史的正確さに欠けてはいけない」ということである。先に挙げた倭人と日本人、倭国と日本国の書き分けは、歴史では非常に重要なことなのである。これらのことを正確にとらえ、正確に表現することが、日本古代史研究には今一番必要なことだと私は思っている。そうすることによって、先入観から解き放たれ、それまでとは違った歴史が見えてくる場合もありうる。事実「倭人と日本人」をきちんととらえることで歴史は変わってくる。
         そこで今回は、言葉や文字の使用に関して、私が常日頃疑問に思っているいくつかの事柄のうち、「倭人と日本人」について書くことにした。これまで私が述べてきたことと重複するものもかなりあると思われるが、意識を持つ、という意味で単項目として取り上げた。
        きっかけは『隋書』東夷伝
         私が日本古代史で最初に取り組んだのは、『三国志』「魏書」烏丸鮮卑東夷伝倭人条(以下『魏志』倭人伝)の記事から邪馬壹国の位置は探せるのだろうか、ということだった。しかしそこには、どのようにも解釈できる部分があまりにも多くありすぎて、この一史書から邪馬壹国を探すのは無理であることを知った。数知れない私説のあることもそれを証明している。それではどうしたらよいのか。それは簡単なことで、単純に、『魏志』倭人伝以外に邪馬壹国(邪馬臺国)への行路を記録した資料を探すことだった。結果、それは『隋書』東夷伝にあった。この『隋書』の行路記事については触れる人が少なく、触れたとしても、特に邪馬台国畿内説の人たちには信頼すべき資料として扱われていなかった。今もそのようである。しかしだからといって、信頼できない資料なのかというと、むしろその逆で、日本列島の歴史を描いた『漢書』地理志から『新唐書』東夷伝までの一連の資料の中で、倭国が日本国にとってかわられる、その前の時代を描いた貴重なものなのである。私の日本古代史の出発点はこの『隋書』にあったといっても過言ではない。
         私がはじめの部分で「基本的に、その初めから、研究の進め方や言語の使い方が間違っているのではないか」といったことは、この『隋書』東夷伝に対する姿勢などにも如実に現われている。私は、公平な視点を持つべき学問という世界の中でのこういった姿勢に対し、非常に反抗的にならざるを得なかった。すでに方向が決まっている人に、それと異なる資料は必要ないということのように受け取れたからである。
         倭人の位置付け
         一連の中国史書を通して、日本の古代の大きな歴史の流れはとらえることができたものの、日本人そのものについては漠然としていてよくわからなかった。日本人の起源を探れば、現在の日本人がどこから来たのかわかるはずであり、そうすれば、古代史の焦点となっている部分の解明にも多少なりとも補助材料にはなるのではないか。私はそう思い、次に日本人の起源とその後の経過を探ってみることにしたのである。
         その中で次のようなことがわかってきた。
            縄文時代に続く弥生時代の弥生人は倭人だけではなく、当然縄文人もいたのであり、そうすると、南方系の倭人がいるならば、倭人以外の北方系の弥生人もいてもおかしくないことになる。というよりその方が自然である。ところがこれらの人たちの存在については中国史書にも記録がなく、誰もが疑問を感ずることなく、弥生人とは倭人のことだと、自然と思い込んでいる。
        『漢書』地理志以来、『旧唐書』東夷伝の倭国条までは、中国史書に現われる日本列島の主役は倭人であり、倭国だった。したがって弥生時代人は当然倭人であり、古墳時代人は倭人の延長線上にあり、日本国誕生とともに、倭人は日本人になったと思われたのである。
         しかし遺伝子研究の結果は、これとは合わなかった(拙著『縄文から「やまと」へ』、本ホームページ「日本人の起源と系統について1、2」参照)。日本人は南方系つまり倭人系ではなく、北東アジア系の強い集団だったのである。これは私にとって予想外のことであり、この結果をどのように考えたらよいのか、大いに悩んだのである。
         『漢書』地理志には「樂浪海中有倭人」とあり、『魏志』倭人伝は、倭人の風俗風習を、男子はみな黥面文身をし、女性は貫頭衣を着ていると書く。鳥越憲三郎氏は、文身したり貫頭衣を着ている人たち(倭族)が今も中国雲南省やミャンマー、タイの北部にいることを報告している。これらの人たちと多くの共通点を持つ中国史書の中の倭人は明らかに南方系である。ところが遺伝学の研究成果は、今の日本人は南方系の倭人がそのまま日本人になったのではないことを示していたのである。
         倭人と日本人
         考古学、人類学、遺伝学などから得たものを総合すれば、日本人とは、北方系の縄文人、南方系の縄文人、倭人(南方系弥生人)、北東アジア系弥生人そして古墳人の、北東アジア系の強い無数の混血割合を持った混血人の延長線上にある集団、ということになる。倭人が日本人になったとするのは間違いなのである。
         先に挙げた『漢書』地理志には「樂浪海中有倭人」とあった。そして『新唐書』列伝「劉仁軌」には「遇倭人白村江」とあり、倭人という文字・言葉は、倭国が消え日本国のみを記録する『新唐書』においても使用されていたことがわかる。この倭人という文字は、中国史書が『漢書』地理志からずっと使用し続けていたものであり、この間倭人自身には大きな変動がなかったことを意味しているように思える。ここからは、中国史書に倭人と書かれているのは倭国人のことであり、その倭国は九州にあったことを一連の中国史書は示しているから、倭人とは九州にあった倭国を中心とした政治圏・風俗風習圏にいた人たちのことである、ということがわかってくる。けっして、のちの日本国の中心であるヤマト人に対しての呼び方ではないのである。
         ただ注意しなければならないのは、彼ら倭人は純粋な倭人だったのか、ということである。九州北部は朝鮮半島からの主要な渡来ルートの一つだったことは確かであり、縄文系の在来人や新来の北東アジア系渡来人との混血により、時間と共にその混血度は日本国となる直前のヤマト人と同じ状況にあったのではないかと考えられる。つまり中国史書がずっと記録してきた倭・倭国の人たちを指す、総称としての倭人は、純粋に近い倭人から、時間を経て、北東アジア系との混血度が高い倭人まで、幅広く使用されていたと考えられるのである。中国はさらに、ヤマト人もこの倭人の流れを汲むものであることを知っていたとみられ、『旧唐書』東夷伝日本国条には、「日本國者倭國之別種也」と書かれている。しかしこの頃には、倭人の流れを汲む彼らも、すでに北東アジア系の血を濃く引く集団へと変化していた、ということになる。
         「倭人」という語はそもそも中国側が使用したもので、『記紀』などではみずからを倭人(わじん)と呼ぶことはない。倭は「やまと」であり、漢字は「倭」であっても、その実体は中国史書が記録する「倭・倭人」を意味していない。今の奈良県の大和地方である地名を表している場合がほとんどである。ヤマトではこの頃、北東アジア系化が進み、すでに「倭」の意味や使用方法が本来の「わじん」を意味しなくなっており、「倭人の国・倭国」とは呼べない状況になっていた。『旧唐書』の「倭國自惡其名不雅改爲日本」、『新唐書』の「後稍習夏音惡倭名更號日夲」の「倭」は、ヤマトが日本となったことを考えれば、九州倭国あるいは「わじんのくに」の意味ではなく、ヤマトである「倭」を指したものであることが理解できる。
         こうしてみると、総称としての倭人は、純粋に近い倭人から、北東アジア系の血のほうが濃くなった倭人へと変化していったという事実はあるが、倭人とは中国側からの呼び方であり、あくまでも一連の中国史書がいう倭国(九州)の人たちのことを指しているものであることがわかる。その中には決してヤマト人は含まれないのである。これが資料からみた事実である。倭人という場合のその対象と、日本国と改名した国の日本人は、ともに倭人の血を引くものであったとしても、はじめから歴史の方向性は異なっていたのである。
         資料を正確に読み伝える大切さ
         「日本」という国は中国正史である『旧唐書』にはじめて登場する。したがってそれ以前には日本人というものは存在していなかった。ところが、日本国登場以前の史書を取り扱っているにもかかわらず、「倭」「倭人」「倭国」を「日本」「日本人」「日本国」と、平然と言い換えて使用している論文や著書をときどき見かける。これは研究するものとして決してしてはいけない行為だと私は思っている。中国史書がいう「倭」「倭人」「倭国」は、どう読んでも奈良県の大和と結びつかない。このような言い換えは公平な判断をすでに失っている証拠であり、それは研究以前の問題だといえる。資料を忠実に再現していき、その中に矛盾するところがあれば、それをどのように解釈すればその矛盾を解消でき、また複数資料に整合させることができるのかを考える、これが資料研究の唯一の方法だと私は思っている。そのはじめから、資料にある文字を自分の判断で言い換えていたのでは、資料の存在意義はまったくないに等しいし、どんなに研究しても真実は決して現われてこない。当人にとってはなんでもない言い換えかもしれないが、こういうことを無意識にしてしまうことがそもそも問題なのである。
         倭人と日本人を正確に分けて考えることにより、弥生人が南方系の倭人だけではなく、古墳人が北東アジア系化を強くしていったことも理解できるようになるし、日本人となった初めの人たちは、中国史書が倭人と呼んでいた人たちとは別の人たちであることも容易に理解できるようになる。『旧唐書』が「日本国は倭国の別種である」と書いたことも、『新唐書』に「日本国は隋の開皇末に初めて中国と通交した」と書いてあることも、まったく不思議なことではなくなるのである。
         九州倭国の倭人は、その混血度にかかわらず、中国史書では「倭人」と書かれた。日本国の中心はヤマトであり、ヤマトを中心とした地域の人たちが最初の日本人となった。しかしそのヤマトの人たちは「倭(ヤマト)」にあっても、資料上みずからを倭人(わじん)と呼ぶことはなかった。つまり日本人となったのは、この意味においても倭人ではなく、さらに倭人を単に南方系の集団という意味でとらえると、日本人は北東アジア系の血を濃く引く集団であるから、この意味においても、日本人となったのは倭人ではないことがわかる。
         ヤマトは当初倭人の国であったことから「わじんのくに・やまと」と呼ばれたが、次第に「わじんのくに=やまと」となり、「やまと」は倭人の国の「倭」一字で表されるようになった。「やまと」は倭人の国として生まれたが、彼らは倭人としてではなく、「やまと」の「やまと人」として生きたのである。
         このように遺伝学の成果や古代史資料を正しく理解すれば、倭人が日本人になったのではないことは容易にわかる。また資料を正確に読んだのならば、倭人と日本人を混同して書くことの誤りにも気づくはずである。
         「倭人と日本人」「倭国と日本国」、そんなのどちらでもよいではないか、という人もいるかもしれないが、これこそが日本列島の古代歴史を大きく左右する重大事なのである。古代史資料から、このシグナルを受け取ることが第一歩なのであるが、先入観を持っている人にはそれも難しいのかもしれない。
        資料は正確に読み、伝える。わかりきったようなことであるが、意外とこれができない。研究の基本なのであるが・・・